第22話 必要なものは、馬車じゃなく馬です 4

「あの、テレンスさん!」


 ハロルドの部屋から担ぎ出されたビヴァリーは、馬車に放り込まれる寸前、扉にしがみついて抵抗した。


「お、お願いがあるんですけど」


 テレンスは、ビヴァリーを見下ろして頷く。


「聞けるお願いなら、聞いてやろう」


「マーゴットに会いたいんです。出かけてるかもしれないけれど……」


 元気でいるかどうかも気になるし、ハロルドとのことをマーゴットに相談したかった。

 

 右も左もわからない王都での暮らしを助けてくれたマーゴットは、ビヴァリーにとって何でも知っている神様みたいな存在だ。


 話すだけでは解決しないだろうけれど、ぐちゃぐちゃになっている頭の中や胸の中にあるものを整理できる気がした。


「あー……出かけてはいないと思うが、会ってどうする?」


 テレンスは、なぜか視線をさまよわせながら問い返す。


「話したいことがあって。その、お、女同士の話が……」


 自分に話せと言われてはいけないと思って付け足すと、テレンスはややしばらく沈黙していたが、何かを諦めたように大きく息を吐いた。


「長くなりそうか?」


「夜明けまではかからないと思います。その、マーゴット次第ですけど」


「いいだろう。ただし……少佐には内緒にしてくれ」


 それはもちろんだが、それっていいんだろうかとビヴァリーが見つめると、テレンスは苦い表情をした。


「少佐は生粋の貴族だし、潔癖なところがあるからな。マーゴットのことをよく思っていない」


「…………」


 ハロルドは、邪だったり意地悪だったりといったところはないが、正しくないことをするのをとても嫌う。


 事情を話せば理解はしてくれるだろうし、謝ってくれるけれど、その根っこにあるものはビヴァリーも変わらない気がしていた。


 後悔するようなことはしていないけれど、ハロルドに嫌われたり、軽蔑されたりするのが怖くて、話せない、話したくないことがビヴァリーにもある。


「少佐は、偉ぶってばかりで敵兵を見るなり逃げ出すような、腰抜けの鼻もちならない貴族たちとは違う。が、それでもやっぱり貴族だからな。俺たちとは違う」


 ブレントリーには、身分の差というものがあって、それは容易には乗り越えられないのだと誰もが知っている。


 何十年、何百年と同じ土地に住み、同じ空気を吸って、同じ言葉を話していても、生きている世界は違う。決して交わらない世界で生き、死んで行く。


 時々、隔たった世界を越える人たちがいるけれど、それがとても珍しいことだからこそ、話題になり、物語になり、おとぎ話になる。


 ただ、夢を見るのはいつだって、見上げる側のほうなのだとビヴァリーは思う。


「テレンスさんは、そうは見えないけれど貴族なんだと思ってました。競馬場でも、似合ってなくてもちゃんとした恰好をしていたし」


「貴族は軍曹にはならな……おい、今、何気なく貶しただろ?」


 テレンスにギロリと睨まれたビヴァリーは、首を竦めた。


「ネ、ネクタイがきつそうだったから……」


「確かにきつかったので、マーゴットに作り直してもらった」


「それは、よかったですね! マーゴットなら素敵なネクタイを作ってくれるから」


「ああ。気に入った。ついでに、手袋も縫ってもらった。いつもすぐ破れていたんだが、マーゴットに作ってもらったのは、丈夫で扱いやすい。しかも……イニシャル入りだ!」


 手首に白い糸で刺繍されたイニシャルを見せるテレンスは嬉しそうで、ビヴァリーも嬉しくなる。


「次は、シャツを縫ってくれる約束だ」


 随分と色々作ってやっているようだけれど、貢ぎ物へのお礼だろうか。


 口は悪いが面倒見のいいマーゴットだ。窮屈な人間の暮らしに馴染めなさそうな野獣を可哀相に思ったのかもしれない。


「あまり長居はさせられないが、顔を見るくらいなら大丈夫だろう。マーゴットも心配していたからな」


 テレンスがマーゴットのところへ連れて行くと約束してくれたので、ビヴァリーは大人しく馬車へ収まった。


 マーゴットに会ったら、色々と確かめなくてはいけないことがある。


 筋道を立てて話すのが苦手なビヴァリーは、頭の中で一覧表を作る作業に没頭していたが、馬車が止まり、テレンスが扉を開けてくれるままに降り立って、ぽかんとしてしまった。


「え……あの……?」


 目の前にあるのは、テラスハウスではあったが、ビヴァリーとマーゴットが住んでいた貧民街の小さく区切られた部屋に、何人もが住んでいるようなものではなかった。


 ちゃんとガス灯がある道には怪しげな人々の影もなく、何かが腐ったような臭いもしないし、耳を塞ぎたくなるような悲鳴や金切り声も聞こえない。


「俺は先に馬車を少佐のタウンハウスに預けてくる。ここからそう遠くないからな。ビヴァリーは、マーゴットと話していろ」


「え、あのテレンスさん、ここは……?」


「俺の家だ」


 テレンスの趣味である大事な庭とキュウリのある家かと思いながら、なぜマーゴットがここにいるのだろうと首を傾げたビヴァリーは、ちょっとへこんだ玄関ポーチの奥にある白い扉から現れた黒髪の美女を見て驚いた。


「テレンス、誰かお客さん……って、ビヴァリー?」


「マーゴットっ!」


「ビヴァリーっ!」


 駆け寄ったマーゴットにぎゅっと抱きしめられ、相変わらず柔らかい胸の感触に「いいなぁ」と心の中で呟く。


「ちょっと、なんで先に教えないのよっ!」


「急に来ることになったんだ。詳しいことはビヴァリーから聞いてくれ。俺は、馬車を少佐の家に届けてから戻る」


 ビヴァリーを抱きしめるマーゴットに責められたテレンスは、そそくさと御者台へ舞い戻った。


「テレンスっ!」


 ものすごい勢いで馬車が走り去り、マーゴットは荒々しく溜息を吐く。


「……ったく! とりあえず、中へ入んなさいよ。ビヴァリー」


「マーゴット、どうしてテレンスさんの家に?」


「話せば長くなるわ」


 手を引かれるままに玄関から奥へと入れば、居心地の良さそうな居間で安楽椅子に座ってくつろぐ白髪の老女がにっこり笑って出迎えてくれた。


「おや。お客さんかね? マーゴット」


「ええ。友達のビヴァリーよ」


「はじめまして、ビヴァリーです」


「テレンスの母親のメアリだ。夕食はもう食べたかね? まだなら、スープか何かが残っていなかったかい? マーゴット」


「テレンスももうすぐ帰ってくるから、一緒に用意するわ。それでもいい? ビヴァリー」


「う、うん」


 有無を言わせぬ笑みに頷き返すと、メアリはくすくす笑う。


「おやおや。マーゴットにノーとは言えないのは、テレンスだけじゃないようだね」


「ノーと言わせないコツがあるのよ」


「夫が生きている頃に、聞きたかったよ」


 ビヴァリーは、とても親しげな二人の様子に目を丸くしながらも、マーゴットは幸せそうだと思った。


 よく見れば高い頬骨がより目立ち、少し痩せたような気がするけれど、青い瞳は明るく輝き、その笑顔には喜びが満ちている。


「下で準備しているわね。来て、ビヴァリー!」


 半地下の食堂へ下りると、いい匂いが漂っていた。


「簡単なものしかないけれど……」


 おいしそうな匂いのするスープやキッシュはマーゴットの手作りのようだ。


 すっかり慣れた様子でテーブルに皿を並べる様子から、昨日今日ここに来たのではないのだとわかる。


「マーゴット、いつからここに?」


「ビヴァリーがいなくなって一週間くらいしてからよ」


「そのう……理由を訊いてもいい?」


 もしかしたら、衝撃の告白を聞かされるかもしれないと思いながら尋ねると、マーゴットは自嘲気味に笑った。


「うっかり、ひどい風邪を引いちゃったのよ。それで、貢ぎ物を届けに来たテレンスに担ぎ出されて連れて来られたわけ。ようやく一昨日から、普通に起きて動き回れるようになったところよ」


「え! じゃあ、まだ寝てなくちゃ……」


 ビヴァリーが、まだ休んでいたほうがいいのではと慌てると、マーゴットはうんざりした様子で溜息を吐いた。


「やめてよ、もう。テレンスがずっと枕元にいたおかげで、ベッドに縛り付けられたような状態だったのよ? 寝ているのにはうんざりしてるの」


 確かに、テレンスが枕元にいたら逃げ出せないだろうとビヴァリーも思った。


「ビヴァリーは、王宮でお姫様の相手をして元気にしているって聞いていたけど……どうなの? あの、顔だけはいい偽物天使様とはうまくやってる?」


 偽物天使とは、ハロルドのことだろう。

 ビヴァリーは、テレンスが戻って来る前の今しかチャンスはないと思い切って告白した。


「その……結婚、することになって……」


「…………」


 たっぷり数十秒声を失っていたマーゴットは、見事に今のビヴァリーの状況を言い当てた。


「はぁっ!? どういうことよっ!? あんた、まさか妊娠させられたんじゃ……」


「その……可能性があるから、結婚していない相手と子どもが出来ると婚外子になって、相続とかいろいろと貰えないものもあるってハルが……お金持ちとか貴族って、そういうのが大変だから」


「それはそうだろうけど、なんだってそんなことになって……いや、あの男ならやりかねない……いかにも貴族さまで、いかにも平民は俺様に従うべきとか言いそうだもの! どうせ、ビヴァリーの気持ちとか、ビヴァリーの都合とか全部無視なんでしょ。もう、結婚式の手配も済ませてるんじゃないの?」


「すごい、マーゴット! どうしてわかるの?」


 ハロルドとは一度顔を合わせたきりのマーゴットの観察眼に、ビヴァリーは心底感心したが、マーゴットには怒られた。


「わからないほうがどうかしてるわよっ! でも、まぁ……馬のことしかわからないあんたがわかったら、それはそれでびっくりだけど」


 ダンっ! とホールのキッシュを大きめのナイフで真っ二つにしたマーゴットは、ふう、と大きく息を吐き出した。


「で? ビヴァリーはどうしたいの? あの、悪魔みたいな偽物天使様が好きなわけね?」


 熱くなる頬を押さえ、ビヴァリーはしばし考えた。


(ハルのことは嫌いじゃない。たぶん、好き。五年前に初めて会ったときから、好きなんだと思う。でも……この世で一番かどうかと言われると……?)


「馬のほうが好きかも」

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