第33話 馬は追いかけるもの、花嫁は逃げるもの 2

 いつの間にか寝入っていたビヴァリーは、小鳥の声ではなく、盛大に鳴り響いた空腹を訴える音で目が覚めた。


(お腹空いた……ここ……?)


 お腹が背中とくっつきそうだと思いながら、ぼんやりと天井を見上げ、懐かしいと思いかけて飛び起きた。


 薄暗い自分の部屋は、五年前の記憶とほとんど変わらない。


(そっか……昨日、結婚式から逃げ出して……ハルに捕まった……)


 不意にもぞもぞと傍らで動くものに驚いて見下ろすと、金色の頭が毛布の下から現れた。


「……ビヴァリー?」


 欠伸を噛み殺しながら、お気に入りの毛布から渋々這い出る大型犬のようにむくりと起き上がる。


 寝起きで髪がくしゃくしゃでも、どこをどうとっても美しいハロルドは一体どういう造りをしているのだろうと思いながら、ビヴァリーはとりあえず「おはよう」と挨拶した。


「ああ……腹が減ったな」


 ビヴァリーの口ではなく胃が返事をし、ハロルドはくすりと笑った。


「すっかり冷めてしまっているとは思うが、昨日のうちに料理を作っておいてくれているはずだ」


 階下の厨房を覗いてみようと言うハロルドに手を差し伸べられ、ベッドを降りようとしたビヴァリーは、ハロルドが一糸まとわぬ姿であることに気が付いた。


(彫刻みたい……)


 服を着ているときは、テレンスのようないかにもという見た目ではないけれど、レース前に体を絞った馬のように、無駄な脂肪も筋肉も見当たらない。


 広い胸や逞しい腕、腹部は筋肉の付き具合がはっきりわかる。長い足もサラブレッドのように引き締まった筋肉で覆われている。


 芸術品のようなハロルドの裸体をつい凝視してしまったビヴァリーは、自分も裸だったということを思い出し、慌てて毛布を引き寄せた。


「そのままでよかったものを……」


 ハロルドが行儀悪く舌打ちするのが聞こえた。


「ハルっ!」


「正直な感想を述べただけだ」


 ハロルドは、床に落ちていたシャツを着てズボンを履き、箪笥の中をかき回してビヴァリー用にシンプルな若草色のワンピースを取り出してきた。


「着替えたいんだけど……」


 出て行く気配のないハロルドに、ちらりと扉のほうを目配せしてみたが、無視された。


「裸足だろう? 抱いていく」


「家の中だし、大丈夫。下で待っていて」


 不服そうではあったが、ハロルドはビヴァリーの揺るぎない指示に従って部屋を出て行った。


(ハルには、恥ずかしいって気持ちはないのっ!?)


 床に落ちている花嫁衣装はもちろんのこと、ドロワーズやガーターベルト、ストッキングやコルセットを拾い集めながら、ビヴァリーはすっかり夜が明けている窓の外を見て、頭がクラクラした。


(お昼からずっと、あんなことしてたなんて……)


 どうりで足がガクガクするはずだ。


 馬だったら、間違いなく優秀な種牡馬になれそうだ。


(何となく、なし崩しのような……)


 ハロルドが、ビヴァリーを軽蔑したりはしていないことは嬉しかったし、力になってくれようとしていることも嬉しかった。

 自分の厩舎を持ち、自分の育てた馬に乗って、レースに出たいという夢も理解してくれて、協力してくれるというし、ビヴァリーがあれこれ考えていたことは、みんな杞憂だった。


(でも……騙し討ちのような結婚式だったと知ったなら、マーゴットは激怒しそう……)


 慣れないコルセットを締め、シルクのストッキングを破るよりはと裸足のままで階下へ下りる。


 いい匂いに導かれるようにして厨房へ向かう途中、かつては居間になっていた場所の扉が開いたままになっているのが気になった。


 きっと変わっているのだろうと思いながら扉を開け、ひんやりとした空気と淡い朝日に満ちた部屋の様子を目にして、息が止まった。


 部屋の内装は、壁紙こそ新しく貼り替えられていたものの、家具や飾られている置物などは、ビヴァリーたち家族が住んでいたときのままだった。


 ラッセルがいつも腰掛けていたスプリングの壊れた肘掛け椅子。暖炉の上に飾られたビヴァリーの描いた馬には見えない馬の絵。ラッセルが育てた馬がレースで勝った際に、ギデオンから贈られたシルクハットは、勿体ないと言ってラッセルが一度も被らなかったので、置物のように小さなテーブルの上に飾られている。


 まるで、時が止まっていたかのようだった。


「多少手は入れているが、部屋にあったものはそのまま残してある。どの部屋も」


 いつの間にか後ろにいたハロルドが説明するのを聞きながら、ビヴァリーは信じられないくらい嬉しい光景に涙ぐんだ。


「母さんは、全部売るって言ってた……」


 母デボラに、館にある家具や置物すべてをまとめて売るのだと言われ、当時既にボロボロだったラッセルのハンチング帽をトランクに詰め込むことくらいしか許されなかった。


「ああ。だが、売りに出されたことに気付いた家令が、俺たちの帰国を待たずに買い上げる手配をしてくれたおかげで、誰の手にも渡らずに済んだ」


「あとで……お礼を言わないと」


 ビヴァリーは、自分の知らないところで、色んな人が助けてくれようとしていたことに感謝しなくてはと思った。


 ギデオンと侯爵家の人たちには、この先一生かかっても恩を返せそうにない。


「きっと、そうすべきだと思ったから、そうしただけだと言うだろうな」


 肩を竦めたハロルドは、食事の後で家の中も外も、ゆっくり見て回ればいいと言い、ビヴァリーを促した。


 厨房には、湯気を立てているスープやパン、瑞々しい野菜のサラダやローストビーフ、プディング、パイにキッシュと二人ではとても食べきれそうもない料理の数々が並べられていた。


「何が食べたい?」


 ビヴァリーは、あまりにも美味しそうな料理に目が釘付けになり、考える前に答えていた。


「全部」


「テレンスでもなければ、一度に全部は無理だろう。昨日から何も食べていないのに、急にたくさん食べるのもよくない」


 ハロルドの真面目な答えを聞いて、ビヴァリーは恥ずかしさに顔を赤らめながら、どうしても食べたいものを示した。


「ローストビーフとキッシュと、パイ……ううん、やっぱりプディングにしようかな。あ、スープとパン……パンもどれも美味しそうだし……燻製と一緒に食べたいかも……スコーンもあるし、ベーコン……?」


「要するに……全部だな」


「…………」


 呆れたように溜息を吐いたハロルドは、ビヴァリーに食堂で待っているよう言い、シャツの袖を捲り上げた。


「少しずつ食べれば満足するだろう」


「あ、あの、ハル?」


 何をする気だとビヴァリーが問いかけると、ジロリと睨まれる。


「ちゃんと全部持って行く」


 こちらも、五年前と変わらぬ様子の食堂のテーブルについて、ビヴァリーは首を傾げた。


(ここに食事が用意されていたってことは、最初からここへ来るつもりだったのかな……? でも、どうして? 教会で式を挙げるだけでいいんだし、侯爵家のお屋敷へ戻ればいいのに。もしかして、私が逃げ出すと思っていた……?)


 ハロルドは、時々ビヴァリーの予想もつかないことをする。


「ビヴァリー。ワインではなく、りんご酒のほうがいいだろう?」


「え? うん」


 反射的に頷いたビヴァリーは、目の前に置かれた様々な料理が載った皿と温かそうなスープの入った器、金色の液体で満たされたグラスは幻ではないかと思った。


「全部載せたぞ」


 差し出されたフォークとスプーンを受け取り、芸術的な角度と緻密な計算による配置で余すことなく皿にきっちり収まっている数々の料理を見つめる。


 今は二人きりのはずだが、ハロルドがやったとはとても信じられなかった。


「スープが冷める」


 さっさと食べ始めたハロルドに頷き、とりあえず食べようとスープを一口含み、あまりの美味しさに頬が緩んだ。


「美味しい……」


 あっという間にスープを平らげ、パンと燻製の素晴らしい共演をたっぷり味わい、サクサクしたパイ生地としっとりしたキッシュを比較し、靴の底みたいじゃないローストビーフを三枚も味わった。


 ほどよい甘さのりんご酒は、ハロルドが果汁で薄めてくれたらしく、いくらでも飲めそうだ。


 すっかり皿を空にして、コルセットがきついとお腹を撫でている間に、ハロルドは皿やグラスを片付け、食後のお茶まで出してくれた。


 あまりの手際の良さに、今すぐ従僕の仕事もできそうだとビヴァリーは感心した。


「ハルは、こういう仕事をしたことがあるの? 私は、あんなふうに料理を綺麗に盛り付けられないかも……」


「軍では、基本的に自分のことは自分でしていた」


「貴族でもそうなの?」


 てっきり、テレンスが色々と世話をしているのだと思っていたとビヴァリーが言うと、ハロルドは顔をしかめた。


「部下は召使いではないからな。テレンスは、ああ見えて気が利くから色々とやってくれているが、本来はこんなふうに私的なことで連れ回したりすべきではない」


「テレンスさんは、優しいから」


「まったくそうは見えないがな。満足したか?」


「うん。お腹いっぱいで、もう入らない」 


 ひと通り食べたが、絶品だったパイに未練があったビヴァリーは、付け足した。


「しばらくの間は」


 ハロルドは鳶色の瞳を驚愕に見開いたものの、何も言わなかった。


 空腹が満たされたビヴァリーは、ハロルドが片付けてくれている間、一つ一つの部屋を見て回った。


 懐かしい思い出が次々溢れて来て、涙を堪えるのは簡単ではなかった。


「ゆっくりしたいところだが……できるだけ早く、王都へ戻らなくてはならない」


 皿を洗い終えたハロルドは、自分の部屋でビリビリになった花嫁衣装を手に溜息を吐いていたビヴァリーに、侯爵家へ戻り、明日には王都へ出発すると言った。


「あの丘へ寄ってから、戻ろう」


「うん」


 花嫁衣装は邪魔だから、後で運んでもらうことにしようと椅子の背にかけようとしたが、ハロルドがそれを取り上げた。


「多少破れてはいるが、着られないほどじゃない」


「え、うん?」


 確かにその通りだと首を傾げるビヴァリーに、ハロルドはどうかしているんじゃないかと言いたげな眼差しを向けてきた。


「着ろ。本当なら、昨日教会で見てもらえるはずだったんだ」


「……ハル」


 ビヴァリーが涙ぐむと、ハロルドは偉そうに命令した。


「泣くな! 今、清潔なハンカチの持ち合わせがない」


「…………」

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