第32話 馬は追いかけるもの、花嫁は逃げるもの 1

 祭壇の前から逃走したものの、あっさり捕獲されたビヴァリーは、一目散に今来た道を駆け戻る薄情な馬車馬を見送った後、しばらくの間大人しくハロルドの腕の中に収まっていた。


 ハロルドが、いつどこで確かめると言い出すか気がきでなく、ちょっとした茂みや木立が目に入るたび、ビクビクしてしまった。


 狐狩りのときの前科がある。外でも、確かめられると言いかねない。


 しかし、一向に馬を止める気配はなく、やがてその行く先が侯爵家の館ではないことに気が付いた。


「ハル……どこへ行くの?」


 無駄とは思いつつ訊いてみたが、ぐっと唇を引き結び、前だけを見て馬を駆っているハロルドは答えない。


(怒るだろうとは思っていたけど、でも、わざと怒らせているわけじゃない……)


 ハロルドは、ビヴァリーが結婚を拒んだことに腹を立てているのだろうが、ビヴァリーを荷物みたいに乱暴に扱うことはせず、しっかりと腕に抱いて、ほどよい速さを保つよう巧みに馬を操っている。


 少年の頃から、ハロルドは一定の距離を保って相手を見定めてから態度を決めるように、誰にでもにこやかに接する性質ではなかったが、大人になってその距離は一層大きくなったようだ。


(でも、それだけが原因ではないかも……。私も、ハルといるとドキドキして、何だかおかしなことしちゃうし……)


 再会してからというもの、なかなか快適な関係を築けないのは、ハロルドの態度や性格のせいだけではないかもしれないとビヴァリーは思った。


 ハロルドといると、馬といるときのような揺るぎない好きという気持ちよりは、不安と安堵と不思議な嬉しさが入り混じった奇妙な気持ちになる。


 怖いような、それでいて嬉しいような、レース前の気持ちに似ている。


 勝つか負けるか、期待と不安で体中がむずむずするけれど、決して走るのを止めたいとは思わない。

 走らなくては、ゴールの先にある素晴らしい景色は見られないのだから。


(だけど……ハルは言うこと聞いてくれないし……ちゃんとゴールできなさそう……)


 ごく稀ではあるけれど、レースで頑として動くのを拒み、スタートできない馬もいれば、走っているうちによそ見をしてコースを外れていく馬もいる。騎手が落っこちてもたいていの馬は走り続ける。


 調教で改善することもあるが、どうしても苦手を克服できなかったり、生まれ持った気性はそのまま変わらなかったりという場合もある。


(ハルの場合、調教で簡単に直るとは思えないんだけど……鞭を使うのは好きじゃないけど、でも……)


「ビヴァリー」


「はいっ!?」


 ギクリとして飛び上がったビヴァリーは、ハロルドの視線の先を追って茫然とした。


「着いた」


 そこには、見覚えのある小さな館があった。


「…………」


「夏の間は、このあたりまで馬たちを放牧に連れて来ることもあるから、休憩に使ったり、短期間泊まったりはしているが、誰かを住まわせたりはしていない」


 黒っぽい石を積み上げるようにして造った、素朴な二階建ての家の周りには小さな赤や白の花が咲いている。


 開け放たれた窓からはいい匂いが漂い、昼食の用意ができたとラッセルに知らるために、玄関の分厚い木の扉を開け放って飛び出して行く自分の姿が見えるようだ。


 でも、その先にあったはずのものはもうない。


 厩舎がかつてあった場所は緑に覆われ、所々、隆起している場所に覗く煉瓦の欠片がその名残を留めているだけだった。


 その遥か向こう。あたり一帯を見渡せる丘の上に、大きな木と小さな墓標があることをビヴァリーは知っていた。


「あとで行こう」


 そう約束して馬を降りたハロルドは、顔をしかめた。


「靴がないな」


 教会に落としてきてしまったことを思い出し、裸足でも歩けると言おうとしたが、そのまま抱き下ろされた。


「は、ハルっ!」


「花婿は、花嫁を抱いて新居に入るものだと言うし、ちょうどいい」


 ビヴァリーがあたふたしている間に、ハロルドはさっさと懐かしい家に足を踏み入れた。


 そのまま二階へ上がり、かつてのビヴァリーの部屋へ向かう。


 ベッドと机、小さな本棚と箪笥があるだけの部屋は、あの頃は狭いと思っていたけれど、屋根裏部屋の暮らしに慣れた今では十分すぎるほど広かった。


「昨日のうちに、リネンは取り替えてくれているし、掃除もしてある」


 ビヴァリーをベッドの上へ下ろしたハロルドは、開け放たれていた窓を閉め、なぜかレースのカーテンまで閉める。


「身支度に必要なものも揃っているはずだ」


 洗面台のほうを示しながら、ハロルドはビヴァリーの頭にかろうじて踏み止まっていたヴェールを外し、一度は嵌めたエメラルドの指輪を外し、自分では絶対に脱げないと思っていた長手袋を見事に引き抜いた。


 きついと思っていたのを見透かしたように、見もせずにドレスの後ろ身頃の小さなボタンを器用に外してコルセットまで緩める。


「は、ハル、あの、あ、ありがとう。もう大丈夫……」


 胸からずり落ちそうになっている身頃を手で押さえながら、もう楽になったと言いかけたビヴァリーは、ドレスの裾から入り込んだ手に驚いた。


「は、ハルっ!?」


「確かめると言っただろう?」


「や、やだっ!」


 二度と味わいたくない痛みを覚えている身体が強張る。


「ごまかしても、すぐにわかる。安心しろ、ただ気持ちいい思いをするだけだ」 


 ハロルドの発言に、ビヴァリーは目を見開いた。


「嘘っ! そんなの嘘でしょっ! だって、ハルとするのものすごく痛かったっ! 二つに割れちゃうかと思うくらい、痛かったのにっ!」


 鳶色の瞳が揺らぎ、一瞬だけ眉尻が下がったが、すぐに立ち直ったハロルドはいつもの尊大な表情でビヴァリーを見下ろし、冷ややかに告げた。


「俺のせいで痛かったということは……つまり、教会で言ったことは嘘だったということだな」


「あ……」


 ビヴァリーは、視線をさまよわせながら、必死に考えた。


 ここで「嘘ではない」と言い張ったら、もう一度あの恐ろしく痛い思いをする可能性がある。


(嘘だった、と言ったら……?)


 ちらりとハロルドを見上げると、やけに真剣な眼差しに行き当たる。


「ビヴァリー……」


 ドルトンが、こっちを向けと言う時のように鼻を擦りつけられて目を瞬く。


「結婚するのは、それだけが理由じゃない」


「え? で、でもっ……ハルは、したくないんじゃ……だって、私が競馬してるの、嫌じゃなかったの?」


 ほかに理由があるなんて考えてもみなかったビヴァリーが驚いて問うと、ハロルドは呆れたような顔をして「嫌じゃない」と答えた。


「ビヴァリーは、ビヴァリーにとって正しい道を選んだだけだ」


「でもっ……昨夜怒ってた……」


「ああ……あまりの自分の馬鹿さ加減に、腹が立った」


「…………」


「この五年、まったくビヴァリーの役に立てなかったくせに、心の中で偉そうに批判ばかりしていた。どんなに大変な思いをしたか、知ろうともしないで。その上、ビヴァリーの夢を台無しにするところだった。後悔するには十分なほど、ビヴァリーにとって酷いことをしていたんだと、つくづく思った」


 まさか、そんなことだとは思ってもいなかったビヴァリーは、昨夜から思い悩んでいた自分は何だったのだと思った。

 

 ハロルドの言葉を聞く耳を持たかなかったのは、自分のほうだ。


 ハロルドならこう考えるはずだと、貴族だからって、勝手に決めつけていた。

 ずっと、ハロルドが言いたいことを、聞こうとしていなかった。

 ビヴァリーにとって、人の気持ちを読み取るのは、馬の気持ちを読み取るよりも難しいのに。


「五年前のように、何も知らない間にビヴァリーがいなくなるのはとても耐えられないし、何かあれば助けられるようにしておきたかった。強引だったとは思うが、それくらいしないとビヴァリーは逃げるだろう? でも、今日からは逃げられない。健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、愛し、敬い、命ある限り、心を尽くすことを誓ったから、ビヴァリーの傍にずっといる。嫌だと言っても無駄だ」


 反論は認めないと偉そうな態度でビヴァリーを見下ろして宣言したハロルドは、ふっとその口元を綻ばせた。


「いつか、生まれてくる子どもを二人で迎えられたら、嬉しい」


 ビヴァリーは、驚きと嬉しさと、罪悪感と感謝の気持ちが入り混じった嵐のような感情に見舞われた。


 ハロルドには聞こえていないと思っていたビヴァリーの言葉はちゃんと届いていて、ビヴァリーが考えていたよりもずっと、ビヴァリーのことを理解しようとしてくれていた。


「ハル……」


(強引だけど……でも、ハルだし。完璧ではないかもしれないけれど……どんな馬にもいいところはある。どんなレースでも、その馬のいいところを引き出して、うまく走らせることができるかどうかは、調教師と騎手の腕にかかっている)


「もっとも……結婚式を王都でしなくてよかったと心の底から思ったぞ。王都だったなら、明日の新聞のトップ記事間違いなしだ。ジェフリーとテレンスのインタビュー付きで」


「う……」


「まぁ……大人しく捕まるとは思っていなかったが」


 逃走するのは想定内だったと言うハロルドに、ビヴァリーはほっとするべきか、怒るべきか複雑な心境だった。


「捕らえがいのある獲物のほうが、追いかけるのは楽しい」


 ハロルドは、ビヴァリーに腕を回して抱き寄せた。


「それから……ビヴァリーの厩舎の件だが、投資という形で土地と資金の提供を受ければ、無駄に時間を掛けずに済むのではないかと思う。そうすれば来年にでもドルトンの子どもに騎乗してレースに出られる。もちろん土地はグラーフ侯爵家が――つまり、俺が提供することになるが、タダでやるわけじゃない。共同経営者として取引先や馬主との契約などについても、口を挟ませてもらう。利益が出たら、俺の権利を買い取ればいい。自分の力だけで成し遂げたいと思う気持ちもわかるが、時間は無限大にあるわけではない。利用できるものは利用すべきだ。少なくとも、検討する価値はあるはずだ」


「ハル……ハルは、賭け事は嫌いだって……」


 ハロルドは、何の問題があるのだと言わんばかりの表情でビヴァリーを見下ろした。


「俺は、賭け事に投資するのではない。世界で一番美しくて、強い馬の可能性に投資するんだ」


「……ドルトン?」


 ビヴァリーが尋ねると、ハロルドは大きな溜息を吐く。


「おまえだ、ビヴァリー」


(馬って……)


 ビヴァリーは、ハロルドもギデオンのようになるかもしれないという期待を感じて、微笑んだ。

 ギデオンの孫なのだから、その血筋からいけば十分可能性はある。


(ドルトンだって、最初は無理だって思われてた。言うことを聞かない馬を調教するのは大変だけど……挑戦しがいがあるし……いい馬になる可能性も高い)


「ハル……ありがとう」


 ビヴァリーは、ハロルドに微笑みかけながら、手触りのいい髪を撫でてやった。


 もうダメかと諦めかけていた馬が、最後の追い込みで目覚ましい加速を見せてくれたときのようだ。


 頬を緩め、よくやったと馬を褒めてやるように撫でていると、ハロルドが顔を寄せ、キスしてくる。


「ビヴァリー」


 甘えたいのかと思って、頭からうなじへと撫でおろしてやると、悪企みを隠し切れない少年のような笑顔で尋ねた。


「……もう痛くしないから、いいよな?」

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