第42話 馬も走る前には、準備運動をする 4

 男の顔から笑みが消え、銃を握る手に力が込められた。


「幸せになるには、金がいるんだよ」


 銃口はビヴァリーの額を捉えている。

 引き金を引かれたら、間違いなく死ぬ距離だ。


 その瞬間を待ち受けるように息を詰めたビヴァリーは、いきなり飛んできた何かが男をなぎ倒すのを見た。


 外へ飛び出して行く馬の姿で、激しい炎に尾を焼かれそうになった馬が蹴り破った馬房の扉だったとようやく理解した。


 男は、ピクリとも動かない。


 死んでしまったのか、生きているのかわからないけれど、倒れている男の手から離れた銃と怯えて鳴き喚く馬たちを見比べ、壁に寄りかかるようにして立ち上がる。


(こんなこと……してる場合じゃない!)


 床に転がっている銃を扉の外まで蹴り飛ばすと、よろめきながら次々と馬房の扉を開け放った。


「逃げるのっ! ほら、早くっ!」


 半狂乱になっている馬たちに蹴られそうになりながらも、無理やり引っ張り出し、その尻を叩いて追い出す。


 ビヴァリーを引き摺って行こうとするアルウィンを宥めすかして追い出し、残り二頭になったところで、扉の向こうから複数の人の声が聞こえた。


「ビヴァリーっ!?」

「無事かっ!?」

「まだ馬はいるのか?」


「あと二頭だけっ!」


 ようやく助けが来てくれたことにほっとしながら、一頭だって死なせるものかと、一番奥の馬房の扉を開け放った。


 炎の勢いは弱まることなく、呑み込めるものは何でも呑み込もうとしているかのように、天井を這い、広がっていく。


 こちら側の厩舎にいた十頭すべてを逃すことはできたが、炎に包まれている天井は二階の床だ。


 上で寝ていた人たちが全員起きて逃げ出していますようにと祈りながら、ビヴァリーも出口へ向かった。


 人や馬が声を張り上げ、走り回り、大騒ぎになっている様子の外へ出ようとしたところで、ふとあの男はどうしただろうかと思い出した。


 視線を巡らせると、逃げ出す馬たちに踏まれ、蹴り飛ばされたらしく暗がりの隅に蹲るようにして横たわっている。


 生きているかどうかわからないものの、このまま見捨てるわけにもいかず、その腕を掴んで引きずる。 


 さほど大柄でもないのに、意識を失った男は信じられないくらいに重くて、腕が抜けそうだった。


「ビヴァリーっ!? 何してるんだっ! 早くしろっ!」


「いま……今、行く、からっ!」


 息が上がり、頭はズキズキするし、煙で目が痛いのに、全然進まない。


 もう投げ出したいと思いかけたとき、いきなり二つの大きな影が現れて、男を抱え上げた。


 二階で寝ている間に燻製になりかけていた馬丁たちだった。


「行くぞ、ビヴァリー」

「もたもたするなっ!」


 ほっとして目に入る汗をぬぐい、後を追いかけようとしたビヴァリーは、違和感に気付いてふと立ち止まった。


(帽子……帽子がないっ!)


 慌てて振り返ると、床にポツンと取り残されているハンチング帽があった。


 とりあえず無事だったことにほっとして、拾い上げようと駆け寄ったとき、頭上から火の粉が降り注いだ。


「きゃっ」


 とっさに頭を庇った手に焼けるような痛みが走り、ふと見上げると炎に包まれた天井が、ジャガイモを詰め込み過ぎた麻袋のように重く垂れさがっていた。


(落ちる……っ!)


 とにかく逃げなくてはと身を翻したが、急な動きをしたせいか、ぐらりと視界が揺れ、がくんと膝が抜けた。


 無理やり足を前に出し、ふらつきながらも進もうとしたが手にしていた帽子を落としてしまった。


 ちょうどその上に、燃え落ちた馬房の扉が倒れ掛かるのを見て、とっさに身体を投げ出す。


 ビヴァリーにとってはこの世に二つとない、大事なラッセルの形見の帽子だ。

 どうしても、失いたくなかった。


 帽子を抱きしめ、ぎゅっと目をつぶり、痛みと炎に包まれることを覚悟したが、不思議なことに痛みと炎はいつまでもやって来ず、その代わりに、大きくて温かいものに包まれた。


「ビヴァリー」


「……ハル? どうして……?」


 思いがけない声に目を開けると、炎に輝く金色の髪が見えた。


「さっさと逃げるぞ」


 毛布を被ったハロルドに抱えられるようにして厩舎を出ると、大勢の人たちが井戸から汲んだ水を馬たちにかけたり、暴れる馬を宥めたりしている。


 ビヴァリーは真っ先に無事を確認しなくてはならない相手を探して視線をさまよわせた。


「アルウィン……?」


 小さな声で呟くと、悲鳴と共に人々が蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、一筋の道ができた。


 邪魔者を蹴散らして一目散に駆けて来たアルウィンは、まずハロルドをその鼻先で思い切り押しやってから、ビヴァリーに頭を擦りつけた。


「アルウィン! どこも怪我してない? 大丈夫? 怖い思いをさせてごめんね……」


 逃げられずに馬房の閉じ込められたまま、迫りくる炎に晒されていた馬たちの気持ちを思うと、ランタンを持って行った自分の行動が悔やまれる。


「ごめんね……ごめんね、アルウィン」


「少佐! ビヴァリー!」


 甘えるアルウィンの鼻梁を撫でていると、テレンスが駆け寄ってきた。


「ビヴァリー、アルウィンに怪我はどこもないぞ。尻尾が多少焦げているが、大丈夫だ」


「テレンス、ビヴァリーには手当てが必要だ。医者は?」


「はっ! 軍医も控えております。あちらに」


「状況は?」


「ありったけの人間を投入していますし、井戸も近いので、火は間もなく消し止められるでしょう。馬も馬丁たちもみな、軽く煙を吸ったくらいで、軽傷です」


 馬も、馬丁たちも無事だと知って、ほっとした途端、足から力が抜けた。


「とにかく、消火を最優先だ。その後のことは……ビヴァリー?」


 倒れそうになる身体をハロルドの力強い腕が支えてくれた。


「ハル……ごめんなさい……」


「大丈夫か? 座るか?」


「……ごめんなさい」


 ハロルドは、いつもビヴァリーを助けてくれるのに、相談しなかったことが悔やまれた。

 

(父さん……私、後悔するようなこと、しちゃった)


 自分の軽率な行動のせいで、大勢の人に迷惑をかけ、馬たちを危険な目に遭わせてしまった。


 それだけはしてはいけないとラッセルに言われていたのに、一番大事なことを守れなかった自分が情けなくて、許せなかった。


「ごめん、なさい……みんな、危ない目に遭わせて……」


 溢れ出した涙が、煤だらけの頬を流れ落ちる。

 塩と炭の味がする涙は、そのままビヴァリーの後悔の味だった。


「この先のことは、落ち着いてから……朝になってから、考えればいい。今はただ、みんな無事で助かったことを喜べばいいんだ」


 ハロルドがハンカチでビヴァリーの顔を拭うと真っ白だったものが真っ黒になった。


「今、考えたところで、まともな答えなど出せない」


 涙は止まらなくとも、しっかりとハロルドの腕に支えられて優しく頭を撫でられると、一気に疲れが身体に伸し掛かり、意識が遠のいていく。


 それでも、確かめておかなくてはならないことがあると、ビヴァリーは何とか口を開いた。


「ハルも……怪我、して……ない?」


「ああ」


(よかった……)


「ビヴァリーは、よく頑張った。だから……少し、休め」


 ようやく目を閉じたビヴァリーが最後に聞いたのは、ハロルドの優しい声だった。

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