第43話 馬に乗るのは、勝つためです 1
人の気配と衣擦れの音、微かな水音に気付いたビヴァリーは、ハッとして目を開けた。
カーテンが引かれた部屋の中は薄暗かったが、隙間から滲む光で昼間だとわかる。
ぐるりと見回して、自分がいるのはハロルドの執務室の隣の部屋だとわかった。
「おはようございます、ビヴァリー様」
「…………」
「ご気分はいかがですか? まずは、水をお飲みになりませんか?」
身体のあちこちがギシギシ言っているせいで、ぎこちない動きで起き上がったビヴァリーは、見知らぬ侍女が差し出したグラスを受け取った。
喉はカラカラだったので、一気に飲み干す。
「もう一杯お飲みになりますか?」
とりあえず渇きは癒されたので首を振ると、何となく頭に違和感がある。
手で触れてみると、額のあたりをぐるりと包帯で巻かれていた。
「傷は深いものではありませんでしたけれど、頭の怪我ですから二、三日は安静にしていたほうがいいと、お医者様から言われています」
侍女の説明で、馬丁の男に銃把で殴られたこと、厩舎で起きた火事のことなどを一気に思い出したビヴァリーは、震える手を握りしめた。
「あ、のっ……みんなは……」
「人も馬も無事です。詳しいことは、もうすぐ……」
侍女が言い終わらぬうちに、部屋の扉が開いてハロルドとテレンスが現れた。
「ビヴァリーっ!」
少し疲れた顔をしていたハロルドは、ビヴァリーを見るなり嬉しそうに笑い、大股でベッドまで歩み寄る。
「気分は? どこか痛むところはないか?」
「大丈夫……」
ほんの少しだけ、ハロルドの印象が違って見えると思ったビヴァリーは、少々パサついている金髪の襟足や後ろ側の部分などが短くなっているのだと気付いた。
しかも、コートを肩に羽織り、シャツのボタンも留めず、まるで着替える途中のような恰好だ。
そんな姿で王宮内を歩けば、目にした女性陣が卒倒するのではないかと思ったが、シャツの下から白い包帯が覗いているのに気付いた。
「ハル……怪我っ……」
「大したことはない。ただの打撲だ」
「大したことはあります。背骨が折れて、丸焼けになっていてもおかしくなかったと言われたはずですが? 少佐」
テレンスの言葉にビヴァリーが青ざめると、ハロルドはそうはならなかったのだから問題ないと返した。
「手当てが必要だとしつこく主張して少佐に殴られそうになった医者が、酷い打撲の上、火傷が化膿すれば症状が悪化するので、しばらくベッドの上で安静にしているようにと、怯えながらお伝えしているのをこの耳で聞いた記憶があるのですが。空耳でしたでしょうか? 少佐」
あくまでも引き下がらないテレンスに、ハロルドが折れた。
「ひと通り片付いたら、安静にする」
「ハル、あの時私を庇ったから……」
「目の前でビヴァリーが焼け死ぬところを見ることに比べたら、大したことじゃない」
「でもっ」
「ビヴァリー。二人共、無事で生きているんだ。それだけで十分だろう?」
ハロルドの言葉に頷けずにいると、ハロルドはテレンスと侍女に部屋から出て行くよう目配せした。
二人が部屋から出て行くのを待ってカーテンを引き、ベッドに腰掛ける。
「いくつか、ビヴァリーに話しておかなくてはならないことがある」
「…………」
ハロルドの表情から、いい話ではないことはわかるが、耳を塞ぎたくなる気持ちをどうにか押し込めて、頷いた。
「まず、馬たちだが、厩舎の半分は損壊を免れたので、馬車用の馬たちはそこに残る。ただし、競走馬や乗馬用の馬たちは厩舎を建て直すまで、ブレント競馬場近くにある離宮――グレートパークへ移すことになった。離宮は森と草原に囲まれているから、調教にもうってつけだ」
家を失くした馬たちが、無事休める場所を持てそうだと聞いて、ビヴァリーは心の底から安堵した。
「夜明けと共に移動させているから、もうそろそろ新たな我が家に到着するはずだ」
「よかった……」
「更に、ブリギッド妃殿下が、ぜひ離宮で過ごしてみたいと言い、ジェフリーたちも滞在することになった。俺とビヴァリーも、静かな場所で療養した方がいいだろうということで、招かれている」
「え……」
「あの記事の効果で、新聞記者たちの取材攻撃がすごいんだ。それに、王宮だと人の出入りが多すぎて今回のように監視の目が行き届かない。離宮には、軍の諜報員が調べ上げて問題がないと判断した人間しか同行しないし、陸軍から護衛を引き抜くことにしたから、不審な人物が入り込むことはほぼ不可能だ」
離宮へ移らないという選択肢はないと説明したハロルドは、伏し目がちにビヴァリーを殺そうとした男は助からなかったと付け加えた。
「あの、ハル……私が、厩舎にいたのは……」
ビヴァリーは、自分の愚かな行為について告白しようとしたが、ハロルドの指が唇を押さえた。
「あの男が、不寝番をしていた馬丁を殴ったこと、夜会で給仕をしていた男がビヴァリーにメッセージを渡したことは、すでに調べがついている」
「…………」
「その背後に誰がいるかも」
目を見開いたビヴァリーの唇を優しく指でなぞりながら、ハロルドは自嘲の笑みを浮かべた。
「ビヴァリーが、言わなかったんじゃない。俺が、言わせなかったんだ」
そんなことはないと首を振ると、ハロルドは深々と溜息を吐き、ビヴァリーの手をそっと握った。
「話すべきことを話しておかなかったから」
どういうことだと尋ねるように見つめ返すと、ハロルドは五年前にビヴァリーが港で逃げ出した後、デボラに何があったかを話し出した。
「ビヴァリーと別れた後、おまえの母親とその再婚相手である商人は船に乗ったが、海を渡った先の国で船を下りたのは別人だった」
馬丁の言葉を思い出し、ビヴァリーはデボラが向かった先は、海の向こうの国ではないのだと悟った。
母が、自分を探そうともしなかったのは、探せない場所にいたからだ。
「この五年間ずっと、別人が二人の名を騙っていんだ。今回、二人がコルディアへ向かう途中でブレントリーへ立ち寄るという情報を得ていたんだが、記事が出た日のうちに二人はまるで逃げるようにして、新大陸へ向かう船に乗ろうとした。まったく別の名前で」
「その人たちは……」
「張り付いていた諜報員が箱詰めにした。少々窮屈な思いをしているだろうが、海も荒れていないし、明日にはブレントリーへ到着する予定だ。到着次第、テレンスが事情聴取する」
ハロルドは、鳶色の瞳でじっとビヴァリーを見つめ、静かな声で告げた。
「だから……今回の火事は、あの夜会でその情報を受け取ったのに、ビヴァリーに言わなかった俺のせいだ」
「そ、んなこと……ないっ! 私が、ちゃんとハルに相談していれば、こんなことにはならなかったのに……か、母さんが父さんを殺したなんて信じたくなかったから、母さんに直接会って聞きたくて、でも、ハルはきっとダメだって言うと思って……何かおかしいってわかっていたのに……私が馬鹿なことをしたから……こ、後悔するようなこと、しちゃいけないって父さんも言ってたのに……」
本当は、最初から言うべきだったことを一気に話すビヴァリーに、ハロルドは苦笑した。
「それを言うなら、後悔するようなことばかりしてきた俺は、いつも馬鹿なことをしていることになる。でも……後悔することを知らないよりは、マシだ。完璧な人間など、いないんだからな」
ハロルドは、時々とてもズルいとビヴァリーは思った。
自信満々に言うから、本当はちょっと違うんじゃないかってことまで、真実のように思えてしまう。
「後悔するようなことって……どんなこと?」
滲む涙がこぼれ落ちないように目を見開いて尋ねると、ハロルドは冗談とは思えない顔つきで呟いた。
「いつも、肝心なときにビヴァリーの傍にいてやれないことだ。くだらぬ議論で会議を延々と長引かせる無能な大臣どもを、壁の前に並べてハチの巣にしてやりたい」
ハロルドなら本当にやりそうだとビヴァリーが唾を呑み込むと、「本当にやったら処刑台行きだから、頭の中で妄想するだけに止めている」と言い、行儀悪く靴を履いたままビヴァリーの隣に横たわった。
「ハル? ちゃんと安静にしていたほうが……」
怪我人らしく寝間着に着替えてベッドに潜り込んだほうがいいと言うと、不貞腐れた様子で答える。
「ビヴァリーは俺がいないほうが熟睡できるみたいだが、俺はビヴァリーが傍にいないとよく眠れない」
背中の傷のせいか、うつぶせに寝転がったハロルドは、その言葉通り、あっという間に穏やかな寝息を立てて眠りに落ちた。
手を伸ばし、少し短くなった髪を撫でながら、ビヴァリーは窓の外に広がる自分の気持ちとは裏腹に晴れ渡った空を見上げた。
デボラがもうこの世にいないということは、まだ信じられそうもない。
永遠に、その口から真相を聞く機会が失われたことを悲しく思う。
でも、きっとハロルドが五年前の火事から、昨夜の火事まで繋がる真実を明らかにしてくれるだろう。
(だから……後悔するだけじゃ、ダメだよね? 父さん)
ハロルドが枕元に置いてくれたに違いない、少し煤けたハンチング帽を見つめて、ビヴァリーは唇を噛んだ。
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