第11話 馬よりも仲良くなりたい、王子様 1
「落ち着け、ハロルド。まるで、花嫁を待つ花婿のようだぞ」
ウロウロと落ち着きなく自身の執務室を歩き回っていたハロルドは、ソファに悠然と腰掛け、長い脚を組んで優雅に茶を啜っている第三王子ジェフリーを睨みつけた。
緩やかに波打つ褐色の髪と琥珀の瞳。通った鼻筋に上品な口元。「甘い」という言葉を体現したかのような柔和な顔立ちは『王子様』に相応しい美しさだが、その中身を知るハロルドにはよく出来た仮面にしか見えない。
(誰のせいで、こんなことになっていると思っているんだ……)
すべての元凶である自覚がないのか、からかうような笑みを浮かべる顔が憎たらしくて、嘲りを含んだ笑みと共に嫌みを返す。
「ええ、そうですね。妃殿下の部屋から閉め出されて、廊下を右往左往するジェフリー殿下の姿を思い出します」
「おまえ……」
ジェフリーがピクピクとこめかみを引きつらせるのを見て、やや溜飲は下がったものの苛立ちは治まらない。
ハロルドは固く閉ざされた隣室へと続く扉を睨み、あと三十分待っても開かなかったら、蹴り破ると決意を固めた。
早朝、テレンスの援護を得て凶暴な
衣装は、豪奢なドレスではなく乗馬用の衣服を一式用意したのだが、長い軍隊暮らしで女性の服の流行はさっぱりわからないので、果たして正解だったかどうか自信はない。
王宮に出入りしている仕立屋の意見を聞いて、最新のデザインだというテーラードジャケットにロングスカート、さらにスカートの下に専用の男性用ズボンを合わせられるものにした。革のブーツも、長めのものだ。
ビヴァリーも貴族の女性が横乗りすることはわかっていると思うが、『ビリー』が横乗りしているところなど一度も見たことがなかったので、念には念を入れた。
「それにしても、楽しみだな? 堅物で知られるおまえが初恋の君を連れてきたと侍女たちが大騒ぎしていたから、様子を見に来てみれば……番犬のごとく、扉の前でウロウロしながら着替えを待っているとは。よほど美しい女性なんだろうな?」
ニヤニヤ笑うジェフリーに、ハロルドは顔をしかめた。
「初恋の君? 馬鹿な。ビヴァリーは、そんなものではありませんよ。それに、美しいというよりは……」
修繕された父親のハンチング帽を抱きしめていたビヴァリーの様子を思い出すと、頬が緩んだ。
濡れた睫毛を瞬き、アップルグリーンの瞳を輝かせ、頬を染めて堪え切れない笑みをこぼして嬉しそうにしている姿を見て、ハロルドも嬉しくなった。
「かわいい、か?」
ハッとして慌てて頬を引き締めたが、ジェフリーは笑みを大きくする。
「それとも愛おしい、か?」
「何をっ……ビヴァリーに、そういう感情を持つつもりはありません」
王宮では、様々なスキャンダルやロマンスが横行している。
身分違いの恋は、貴族の身勝手さに翻弄された悲劇ではなく、結ばれない運命を嘆く悲恋へ。妻ではなく愛人に溺れる不誠実な男のスキャンダルは、浮気ではなく引き裂かれた恋人との苦しい恋へと都合よく書き換えられる。
だが、自分とビヴァリーが、そこに加わることはないとハロルドは確信していた。
ハロルドには、次期侯爵に相応しい妻を選ぶ責任と義務がある。貴族ではないビヴァリーを選ぶべきではないと十分わかっている。
昨日と今朝、危うく理性が飛びかけたが、ビヴァリーへの耐性が付けば何事もなくやり過ごせるようになるはずだ。
「そのつもりはなくとも、そうなることだってあるだろう? 第一、おまえはその気がなくても、向こうがその気だったらどうするんだ? ハロルド。独身で、次期侯爵で、私よりもよほど王子様らしい白馬の似合う容姿。おまえほど仕留めがいのある獲物は、今の王宮ではなかなかいないぞ」
自分は狩りの標的かと苦い顔をするハロルドに、ジェフリーは真剣な顔で問う。
「今の『ビリー』の暮らしぶりからして、十分考えられることではないのか?」
「それは……ないと思います。ビヴァリーは、誰かを陥れようなんて考えたりしません」
ハロルドは、きっぱりと言い切った。
再会してからずっと抱いていた、ビヴァリーを警戒する気持ちはもうなかった。
銀行でビヴァリーが金貨を突き返してきたとき、ハロルドは驚くと同時に自分の行いを恥ずかしく思った。
足りなくなった金貨を補ってやれば当然感謝されると思っていた、自分の傲慢さに気付かされた。
ビヴァリーの真っ直ぐな眼差しが耐え切れなくて、馬車の中では顔を合わせられなかった。
金貨二枚を貰うより、ボロボロだった帽子が修繕されているほうを喜んだビヴァリーは、地位や財産を狙う卑劣な手段も厭わない強かな女たちとは違う。
「女性を見る目が厳しいおまえが言うのだから、その通りかもしれないが……」
ジェフリーがハロルドの主張を渋々ながらも認めた時、ようやくドアが開いた。
「お待たせいたしました」
やけに自信に満ち溢れた侍女たちに、押し出されるようにして進み出たビヴァリーを見たハロルドは、唇を引き結んで呻き声を堪えた。
「あ、あの……服はとても素敵なんですけれど、似合ってないんじゃないかと……」
室内ということもあり、トップハットは手にしたままだったが、テーラードジャケットはピンと伸びた背筋のおかげで皺一つなく、すらりとしたビヴァリーの身体つきによく似合っていた。
艶を取り戻したチョコレート色の髮は低い位置で綺麗にまとめられ、すっきりと顔が露になっている。
形のよい額や手入れされて潤いを取り戻した肌。生き生きと輝くアップルグリーンの瞳に自然な笑みを作るふっくらとした唇を見つめずにはいられない。恥ずかしそうにほんのりと染まった頬は柔らかそうで、今すぐキスを落としたく……。
「いや、それはないな。ハロルドが、あまりの美しさに茫然としているのだから」
ジェフリーの言葉に首を傾げたビヴァリーは、肩を竦めた。
「あんまりにも似合わないから、驚いているんじゃないんでしょうか?」
「そんなことはないっ!」
思わず力いっぱい否定し、ビヴァリーが驚く様子を見て、慌てて言い直した。
「……似合っている。とても」
「あ、ありがとうございます」
ビヴァリーが頬を赤くして俯き、その場になんとも気まずい沈黙が広がったが、ソファから立ち上がったジェフリーがビヴァリーに歩み寄った。
「ジェフリーだ。ハロルドとは、スクール、士官学校と腐れ縁でね」
「ビヴァリーです」
ビヴァリーが手を差し出すと、ジェフリーは長身を屈めて素早く手の甲に口づけた。
「ちなみに、第三王子という肩書きはあるが気にしないでくれたまえ」
中身の腹黒さと傍若無人ぶりを覆い隠す微笑みは完璧だ。見惚れない令嬢はいない。
「…………」
ハロルドは、目を丸くして口を半開きにしているビヴァリーの手を取り、さりげなく腕を組もうとするジェフリーの肩を掴んで引き戻した。
既婚者のジェフリーだが、新妻に拒絶されている今、ビヴァリーの魅力に惑わされないとも限らない。
ニヤリと笑うジェフリーからビヴァリーの手を取り戻したハロルドは、自分の左腕に絡めた。
「さっさと行きますよ、殿下」
「ただの挨拶だろう? そう睨むな」
ジェフリーと共に部屋を出て、王宮の東側にある馬場へと向かう間、廊下ですれ違った人々は伏し目がちに足を止めるが、素早くハロルドとビヴァリーを一瞥することを忘れない。
噂は、明日までには王宮中どころか社交界にも広まるだろう。
面倒だと思いかけ、好都合ではないかと思い直した。
(噂が広まったほうが、逆に面倒が少なくなるかもしれない)
ハロルドと関係があるような噂が広まれば、ハロルドと同等の身分を持ち、張り合う自信のある男以外はビヴァリーに近づけなくなるだろうから、追い払うべき虫の数は激減するかもしれない。
「あ、あの、ハロルドさま……どうしてもこうしないといけないんですか?」
エスコートなどされたことがないらしく、ビヴァリーは戸惑った顔をしながら小声で話しかけてくる。
「ああ。女性をひとりで歩かせるわけにはいかない」
「でも、あの、色んな人が見ていると思うんだけ……ですけど……」
「王宮にいれば、誰にも見られずに何かするのは不可能に近い」
「息が詰まって、思い切り叫んだりしたくなりそう……だわ」
「そんなことをすれば、気が触れたかと思われるだろうな」
ビヴァリーは、丁寧な言葉遣いを心掛けていたようだが、緊張が解れたのかだんだんと地が出てくる。
「じゃあ、歌えばいいんじゃないかな? 行ったことないけど、歌劇場の歌手ってものすごく大きな声で歌うんでしょう? あ、でも……すごく下手だったら、止めろって言われるかもしれないけど……」
先を歩いていたジェフリーが肩を揺らして咳払いするのが見え、ハロルドはその背を睨みつけた。
「馬で思い切り走れば、すっきりするだろうけど……王都じゃ、人が多すぎて無理だし、偉い人だと気軽に散歩もできないんだろうし……」
「そうだな。王都の郊外へ出ないかぎり、無理だろう」
「男の人たちは、殴り合いするとすっきりするって言ってたかも。でも、一度拳闘の試合を見たことがあるけれど、あれはすっきりするんじゃなくて、痛くてほかのこと考えられないだけじゃないのかな……でも、テレンスさんみたいな人ならすっきりするのかな? ハロルドさまたちは、殴り合ったりする?」
新米士官を馬鹿にしていたテレンスと殴り合ったことのあるハロルドは、三日間ベッドから起き上がれなかった当時を思い返し、大金を積まれてもお断りだと首を振った。
「しない」
「あ! ダンスはどうかな? 重いドレスで動くのって、とても体力が必要だから、いい運動になるよね。でも本当に大変なのは男の人なのかな? 大きなお屋敷で臨時の使用人の仕事をしたときに、舞踏会では男の人の数が少ないと、女の人に次々申し込んで倒れるまで踊らなくちゃいけないって聞いたけど……女の人には『壁の花』っていう恐ろしい拷問もあるんでしょう?」
どうやら、厩舎以外でも働いていたらしいビヴァリーが、この五年の間にどんな暮らしをしていたのか、テレンスからは詳細な報告がなかったことを思い出し、ハロルドはいずれ本人から聞き出さなくてはと思った。
話したがらないかもしれないが、知らないままにビヴァリーを傷つけるような迂闊なことを言わないためにも、必要なことだ。
ビヴァリーの泣き顔を見て理性が吹き飛ぶのなら、泣かせなければ理性を保てるはずだ。
その後も、ビヴァリーはハロルドには思いもつかない様々な気晴らしの方法を提案したが、途中からジェフリーの咳き込み具合がだんだん激しくなっていくのを心配し出した。
「ハロルドさま。ジェフ……殿下が苦しそうだから、少し休んだほうがいいんじゃ……?」
「大丈夫だ。もう、着いたから」
ジェフリーが笑い死にする前に辿り着いた馬場には、既に一頭の馬が曳き出されていた。
ブリギッドの愛馬である黒鹿毛の馬は、興奮して暴れ、綱を握っている馬丁は今にも踏み潰されそうだ。
「危ないっ!」
ハロルドの腕を離れたビヴァリーは、慌てて馬場に飛び込むと馬を宥めにかかった。
「おい、ハロルド!」
笑い転げていたジェフリーが焦ってやめさせろと言う前に、ビヴァリーに綱を押さえられた馬は、今まで暴れていたのが嘘のように落ち着いた。
不服そうな様子は見えるが、少なくとも立ち上がらずに地面を前足でかいている。
汗だくになってヨロヨロとハロルドたちのほうへやって来た馬丁は、化け物でも見るような眼差しをビヴァリーへ向けた。
「……も、申し訳ありません、馬房から出すのが精一杯で……」
「いや、それで十分だ」
「ハロルドさま、この馬はもしかしてギデオンさまから?」
馬になにか話しかけていたビヴァリーが、振り返る。
「ああ。三年前に生まれたそうだ。アルウィンと言う」
「やっぱり! おまえ、額の白い星が父さんと一緒だよ、アルウィン。早く乗ってみたいけど、まずはちょっと散歩して来ようか。その間に、準備してもらうから」
ビヴァリーが歩き出すと、あれほど暴れていたアルウィンが大人しく従った。
「嘘でしょう……?」
泣きそうな顔で呟く馬丁をハロルドは慰めた。
「ビヴァリーが特別なんだ。アルウィンの父親もビヴァリーが調教したから」
「ハミとか鞍とか馬装一式と水、ブラシなんかも用意してもらえますか? あ、鞍は横乗りではなく、普通のものがいいです」
ビヴァリーに頼まれた馬丁は、目を丸くしながらも走って厩舎へ戻って行き、他の馬丁たちの手を借りて次々と必要なものを運んできた。
馬丁たちはみな、呑気に馬場を歩いているアルウィンとビヴァリーに釘付けだ。
「夢でも見ているような心地だ」
ジェフリーが感心した様子で呟くのに、ハロルドはほっと息を吐いた。
これまで面接した女性たちの誰一人として、アルウィンに近付くことができなかったのだが、ビヴァリーはあっという間に気に入られたようだ。
「まずは、第一関門突破というところでしょう」
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