第10話 うまい話には、馬がある 3

「あんたねぇっ!」


「気安く触るな」


 冷ややかなハロルドの眼差しには、あからさまな侮蔑の色があり、それが更にマーゴットの怒りを燃え上がらせた。


「馬鹿にするのもいい加減にしなさいよっ! 朝っぱらから人を叩き起こすわ、素っ裸のビヴァリーの着替えを覗くわ、勝手に下着まで荷物に詰め込んで変態かっ!? その上、金を恵んでやるですってぇっ!? ふざけんなっ! あんたみたいのに、ビヴァリーをやれるかってんだっ! おととい来やがれっ! この――――っ!」


 改めて口にするのも憚られるような罵り言葉を叫んだマーゴットは、唖然とするハロルドのすねを蹴り上げ、怯んだ隙にビヴァリーの鞄を奪い取ると通りの方へ押し出して、そのままドアを閉めようとした。


「ま、待てっ! おいっ!」


 慌ててドアに飛びついたハロルドが、閉められないように足を入れると上からガンガン踏みつける。

 華奢な靴だが、高い踵が甲を直撃したらものすごく痛そうだ。


「うっ」


「や、止めて! マーゴットっ!」


 このままではハロルドの足の骨が砕けると思い、ビヴァリーが止めようとするとドアの向こうに黒い大きな影が現れた。


「少佐! 加勢しますっ!」


 突然現れたテレンスの怪力によりこじ開けられ、蝶番がひしゃげてドアが斜めに垂れ下がった。


「…………」


 唖然とするマーゴットの手から鞄を取り上げたテレンスは、ハロルドに押し付けるときりっとした表情で宣言した。


「少佐。私はこの凶暴な黒猫を屋根裏部屋に隔離してから合流いたします。少佐はビヴァリーと一緒に馬車でお待ちください」


「……黒猫?」


 唖然としていたマーゴットが我に返る。


「うちの庭によく出没して、ネズミの死骸を置いていくんだが、懐いているのか嫌がらせをしているのか、イマイチ判断に困るヤツだ」


「はぁ……だから?」


 テレンスは、話の行く先が見えないと顔をしかめるマーゴットを分厚い胸板の圧力で押し戻し、歪んだ蝶番を指で直すとばたんとドアを閉めた。


 鞄を取り戻したハロルドは、ビヴァリーの腕を取って馬車へと引きずって行く。


 背後で、「ぎゃーっ」というこの世のものとは思えない悲鳴が聞こえた。


「ま、マーゴット……」


 まさかあのテレンスの太い腕で絞殺されたのではと青ざめたビヴァリーに、ハロルドは「担いで一段飛ばしに階段を上ったんだろう」と言い、箱馬車の中へ鞄とビヴァリーを放り込んだ。


「あ……」


 後ろからハロルドが乗り込んできたせいで逃げ場がなくなり、仕方なく座ろうとしたビヴァリーは、そこに行方不明だったハンチング帽を発見し、思わず笑顔になった。


 もしかしたら、捨てられてしまったかもしれないとちょっと不安だったのだ。


「よかった!」


 さっそく被ろうとして、昨日までとは様子が変わっていることに気が付いた。


 埃や汚れが取り除かれて綺麗になっているだけでなく、擦り切れていた箇所には同じ色味の当て布が施され、ほつれていたところもちゃんと糸でかがられている。


 ぼろぼろだった裏地は新しいものに貼り替えられていて、さらに後ろ側の部分には刺繍まで入っていた。

 

 刺繍されたラッセルのイニシャルを見て、ビヴァリーの目に涙があふれた。


「……あの……ありがとうございます。ハロルドさま」


「仕立て屋がやったんだ」


「でも……頼んでくれたのは、ハロルドさまでしょう? ありがとうございます」


 向かい側に座ったハロルドがハンカチを取り出そうとするのを見て、ビヴァリーはジャケットのポケットに突っこんだままだった昨日のハンカチを取り出した。


「あのっ……これ、洗ってお返ししますね……その、アイロンするのは、無理なんですけど」


「返さなくていい。同じものを持っているから」


 ハロルドは、くしゃくしゃになったハンカチを冷ややかに見つめ、ずいっと新たなものを押し付けて来た。

 潔癖なハロルドは、汚れたものを使ったことなどないのだろう。

 断っても押し付け合いになるだけだと知っているので、ビヴァリーは大人しく受け取った。


 ビヴァリーが新しくていい匂いのするハンカチで顔を拭い、帽子を胸に抱きしめて堪え切れない嬉しさに頬を緩ませていると、ようやくテレンスが戻ってきた。


「お待たせしました、少佐。出発しましょう」


 テレンスの黒い髪は乱れに乱れ、左右の頬にくっきり平手打ちの痕とひっかき傷が刻まれているが、何の痛みも感じていないのか平然としている。


「テレンス……大丈夫なのか?」


「はっ! 問題ありません」


 テレンスは直立不動で敬礼する。

 驚きに声も出ないビヴァリーと違い、ハロルドは一瞬で驚きを封じ込め、淡々と命じた。


「まずは、銀行へ寄ってくれ。それから……ビヴァリー。昨日、菓子を王宮で用意できなかったから、どこか買いたい店があるならテレンスに用意してもらう」


「あ、あの……」


 ハロルドの申し出はありがたかったが、マーゴットの詳細な要求を口頭で伝えるのはとても不安だ。


 テレンスの記憶力を疑っているわけではないが、買い間違ったときのマーゴットの怒りを思うと気軽には頼めない。


「あの、でも……あとで、自分で買いに行くので……」


「買いに行く暇がなくなるかもしれない」


「でも……」


「少佐。店の名前と購入すべき菓子の種類については、黒猫より詳細を書いたリストを預かっております。少佐たちを王宮へお連れした後、自分が買い求めて黒猫へ直接届けます」


 テレンスが懐から取り出した何かの包み紙の裏には、細々とマーゴットの指示が書き記されていた。


「あの、じゃあ、お金を」


「さかさまに担いで階段を上るという、死ぬほど怖い思いをさせたことへの詫びということになっているので、代金は俺が払う」


 テレンスはむすっとした顔でぼそっと理由を告げてそそくさと御者台へ上った。


 軽快に走る馬車は、あっという間に銀行へ到着し、大事に革袋を抱えて馬車を降りたビヴァリーの後ろには、護衛のごとくハロルドが張り付く。


 金貨より眩しい大天使様の美貌の効果か、いつもはうさんくさそうな目でビヴァリーを見る行員たちも、実に対応が丁寧だった。


 いざ金貨を預けるというときになって、ビヴァリーは革袋の中から十枚の金貨を除け、その内の二枚をハロルドへ差し出した。


「これは、やっぱりいりません。私のお金じゃないから」


 今まで色んな仕事をしてきたビヴァリーだが、自分の厩舎を持つために貯めているお金は、全部働いて得たものだった。


 食べるものがないとき、薄っぺらな服しかなくて凍えているとき、親切な人が食べ物をくれたり、古着をくれたり、時にはわずかばかりのお金をくれたりしたこともあるけれど、仕事を手伝うことでお礼をしたり、お金が手に入ったらあとからちゃんと返したりしている。


 理由もなく貰いっぱなしにしたことはなかった。


 ハロルドは、ぐっと唇を引き結んだが、大きな手でビヴァリーの手を包み込むようにして、押し戻した。


「昨日と今日、拘束している分の賃金だ」


「でも、何もしていないのに……」


「時間を売ったと思えばいい。実際、連れ回されている間は、働くことができないだろう?」


 何だか言いくるめられているような気がして納得できずにいると、ハロルドはぎゅっと手を握りしめた。


「頼むから、貰ってくれ」 


 そこまで言われると、突き返すほうがいけないことのような気がして、ビヴァリーは頷いた。


 無事、大金を預けた後、王宮へ向かう馬車の中で、ハロルドはずっとビヴァリーから顔を背けて窓の外を見ていた。


 見つめられたいわけではないが、そこまで頑なに拒絶されると、さすがに気になるし、傷つく。


「あの……ハロルドさま……」


 おずおずと話しかけると、ちらりと目線だけを寄越す。


「何だ?」


「今日、これから会うのは誰なんですか?」


 昨日は、名前を明かせないと言われたが、実際会うのに正体もわからないというのでは失礼な真似をしてしまうかもしれない。


 これから何をするのか、誰に会うのか先に教えてほしいと思い切って要求すると、予想もしなかった答えが返ってきた。


「会うのは、馬だ」


「え?」


 ビヴァリーは、自分は本当にちゃんと今朝起きたのだろうかと不安になり、頬を軽くつねってみた。


(痛い……夢じゃない……)


「馬に気に入られなかったら、馬の持ち主には会えない」


 ハロルドの表情は、とても冗談を言っているとは思えない、真面目なものだった。

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