第7話 成長した天使は、獣になっていた 2
テレンスはビヴァリーに何も言わなかったが、頭上で何事かをハロルドに目配せしたようだ。
ビヴァリーを腕にくっ付けたまま立ち上がると、ソファに置いてあったハンチング帽を深々と被せ、広い肩に担ぎ上げた。
「今日のところは、家まで送ってきます」
「あ、ああ…………ビリー」
ハロルドが近づこうとする気配を感じ、テレンスの広い背中に顔を埋めていたビヴァリーはぽつりと呟いた。
「ビリーじゃない。ビヴァリー」
「その……ビヴァリー……」
ハロルドからは、何か言いたげな雰囲気がひしひしと伝わってきたが、ビヴァリーは一刻も早く場違いで居心地の悪い場所から逃げ出したかった。
「では、逃げ足の早い牝馬を厩舎へ戻してきます。少佐」
そんなビヴァリーの気持ちを感じ取ったのか、テレンスはさっさと沈黙を切り上げる。
「あ、ああ……頼む」
部屋を出たテレンスは、廊下を右へ左へと何度か曲がり、やがて日が暮れて先ほどよりは少し肌寒くなった戸外へ出た。
来る際に押し込められた馬車よりもひと回り小さい、二頭立ての箱馬車に放り込まれる。
ギシッという音がして車体がわずかに傾ぎ、外からテレンスの声がした。
「家はどこだ?」
どうやら、自ら御者を務めるつもりのようだ。
「ブラック・ウォール通りのタバコ屋のあるテラスハウス。でも、通りの手前で下ろして」
ビヴァリーが住んでいるのは、王都でも指折りの貧民街だ。こんな馬車で乗りつける人間などいない。
「少佐には家まで送ると言った。命令違反でクビになりたくない。ただし、暴れたら、即刻放り出すからな」
「身ぐるみはがされても知らないよ」
目が節穴でなければ、テレンスに襲い掛かるのは自殺行為だとわかるはずだが、自暴自棄になっている憐れな盗賊がいないとも限らない。
「ふん。望むところだ」
馬たちが鼻を鳴らす音が聞こえたが、しばらく待っても馬車は一向に動き出さない。
「……ねぇ?」
いったいどうしたのだと座面から身を乗り出そうとしたところへ、突然誰かが乗り込んで来た。
「ひっ」
驚いて飛び退いた隙に、押し入って来た人物が隣に座る。
「一緒に行く」
「え?」
聞き覚えのある声は、ハロルドだった。
「テレンス、出せ」
ハロルドの指示を聞いた途端、馬車が滑らかに走り出す。
「…………」
(どうして追いかけてくるの……)
並んで座り、ハロルドの体温を半身に感じるだけで、レースの前のように胸が高鳴り、高ぶった感情が緩んだ涙腺を刺激する。
女は弱くて泣いてばかりいるから嫌いだと言っていた、十五歳の生意気なハロルドの言葉を思い出し、濡れてますますくたびれているジャケットの裾で頬を拭おうとしたが、大きな手に腕を掴まれた。
掴まれた手とは反対側の手に、手触りのいいハンカチを握らされる。
「あの……」
シルクに違いない手触りに、畏れ多くて使えないと言おうとしたが、ハロルドは顔を背けてそんなビヴァリーを無視した。
「…………」
大抵のことは器用にこなすのに、優しさを見せるときだけ不器用になるところは、十五歳の頃から成長していないようだ。
「ありがとうございます……」
頬に押し当てると、深い森の中にいるような、爽やかな香りがした。
きっと、高級な石鹸か何かを使って洗われているのだろうと思いながら、何度か深呼吸すると乱れた気持ちが落ち着いていく。
いつしか、張り詰めていた空気は緩み、沈黙は心地よいものに変わっていた。
規則正しい馬蹄の音と車輪の音に耳を澄ましてじっとしていると、腕を掴む大きな手がゆっくりと離れていく。
半分ほっとし、半分寂しさを感じながら顔を上げ、ちらりと横にいるハロルドの様子を窺おうとしたら、ばっちり目が合った。
鳶色の瞳に映っている間抜けな顔をした自分を見つめていると、帽子のつばをぐいっと持ち上げられる。
滑り落ちる帽子に気を取られている隙に、柔らかくて温かいものが額に触れた。
あまりにも予想外のことすぎて状況が把握できずにいると、今度は鼻先に触れた。
さすがに異常事態だと気付いて慌てて身を離そうとしたが、逆に背中に回された腕に引き寄せられ、逃げ場がなくなった。
心臓が破裂しそうなほど忙しない鼓動を刻み、身体が震え出し、うろたえるあまり涙が滲んでくる。
「ビヴァリー……」
かすれた声で呟いたハロルドの顔が苦しげに歪んだかと思うと、引き締まった唇で震える唇を押し開かれた。
柔らかな舌が差し込まれ、驚いて顔を背けて逃れようとしても、大きな手で頭を抱えられ、逃げ場を失う。
「んっ」
伸し掛かるハロルドの重みや熱、吐息とも喘ぎともつかぬ声に交じって聞こえる水音がビヴァリーを混乱の極致に突き落とす。
単なる唇へのキスすら初めて経験するビヴァリーにとって、舌を絡め合うキスの刺激は予想と想像をはるかに超えていた。
マーゴットからは、ベッドの上で起きるあらゆることについて聞かされていたが、まったく経験のないビヴァリーには半分も理解できていなかった。
(な、なに……? どうしてこんなに……気持ちいいの?)
こんな場所でしていいことではないと、消滅寸前の理性が警鐘を鳴らすけれど、どうやって止めればいいかわからない。
「ううっ」
永遠に続いたらおかしくなってしまいそうなほど気持ち良くて、でも息が続かず苦しくなったビヴァリーがぐったりしてしまうと、ようやくハロルドはキスをやめた。
「ビヴァリー? 大丈夫か?」
軽く頬を叩かれ、ぼんやりする視界に不安そうなハロルドの顔を見つけ、微笑んだ。
気が強く、強情で尊大なところもあるけれど、繊細で優しい少年がそこにいた。
懐かしさと嬉しさがあふれ出し、ビヴァリーは喉を震わせて、あの夏何度も口にした名前を呼んだ。
「ハル……」
鳶色の瞳が大きく見開かれ、天使のような笑みが浮かぶ。
(夢みたい……)
再び押し当てられた唇は、ビヴァリーの荒い呼吸を宥めるように、優しく啄む。
微かな触れ合いはうっとりするほど気持ちよく、ずっとこうしていたいと思ったとき、ガタンと大きく馬車が揺れ、止まった。
「もう少し走らせましょうか?」
テレンスのからかうような声音に、ビヴァリーは我に返った。
「それとも、どこかの宿屋までお連れしますが?」
自分たちが何をしていたのか知られていることに仰天し、ハロルドを突き飛ばして馬車から転がり出た。
(な、なんであんなことするの……ああいうことは、恋人か愛人か、お金を貰うお客としかしないものなんじゃないのっ!?)
いそいでシャツのボタンを嵌めたビヴァリーは、顔を上げ、降り立った路地の様子を目にして一気に目が覚めた。
先ほどまでいた王宮とは別世界のような、目の前にある光景がビヴァリーの現実だった。
昼でも薄暗い通りは、カビや汚物の悪臭が漂い、破れた窓から聞こえる雑多な音に満ちている。
怒鳴り声や飢えている赤ん坊の泣き声。不安に満ちた金切り声や止むことのない咳に苦しむ呻き声。耳を塞ぎたくなるような音が降り注いでいても、道端で蹲っている物乞いはピクリともせず、生きているのか死んでいるのかもわからない。
真っ黒な顔をした子どもたちは、煙突の中で焼かれることなく無事に生還したことを喜ぶでもなく、無表情のまま足を引き摺りながら冷たい寝床へと帰っていく。
タバコ屋の横にある傾いだドアから出て来たのは、昼の仕事から戻り、再び夜の仕事の客を探しに出かける、ビヴァリーの階下の部屋に住む若い母親。酒に溺れる夫の代わりに、三人の子どもを育てるべく、昼も夜も働きづめだ。
やつれた顔の母親は、この界隈では見かけることのない立派な馬車を見て、品定めするような視線をテレンスへ向けていたが、ビヴァリーに気付くと顔を背け、足早に去って行った。
「……送ってくれて、ありがとう」
ビヴァリーは御者台のテレンスに礼を言い、狭い屋根裏部屋へと帰るべく黒いドアに手を伸ばした。
ようやく、自分に似合いの巣穴へ帰れると思ったが、試練はまだ終わっていなかった。
「部屋は?」
上から覆い被さるように伸びて来た手が、王宮の染み一つないドアとは大違いのドアを開け、背に添えられた大きな手に促される。
「……屋根裏だけど」
今にも抜けそうな階段を昇り詰めた先にある向かい合わせの二つの屋根裏部屋のうち、左手がマーゴット、右手がビヴァリーの部屋だ。
ただ後ろにいるだけなのに、ハロルドの熱が身体を包み込み、その胸に寄りかかりたくなる自分を必死に宥めながら、どうにか行き止まりまで辿り着く。
「ビヴァリー? どうだった? 今日は稼げた?」
左手のドアが開き、すっかり出かける用意を整えたマーゴットが現れた。
黒髪青眼の美女は、ビヴァリーの後ろにいるハロルドを見ると瞬時に笑みを消した。
「誰よ、こいつ? どんな客でも、家に連れて来ちゃダメだって言ったでしょう?」
ビヴァリーの三倍はあろうかという綺麗に盛り上がった胸の前で腕を組み、冷ややかな眼差しでハロルドを睨み、顎を上げる姿は迫力満点だ。
「お客さんじゃないよ。その……ちょっとした知り合いで、送ってくれただけ」
「知り合い? こんな、顔がいいだけで超絶性格悪そうな偉ぶったヤツが? あんたお人好しだから騙されてるんじゃないの?」
当たらずとも遠からずのマーゴットの鋭い観察眼に、ビヴァリーは感心した。
「うん、まぁ、そうかもしれないけれど、昔の知り合いだから……」
「ふうん? でも、無事に家に辿り着いたから、用ナシね。さようなら」
「…………」
ハロルドは「無礼な女」と言わんばかりの目でマーゴットを睨んでいたが、紳士らしく女性相手に怒鳴り散らしたりはせず、沈黙している。
「あの、ハロルド、さま……もう大丈夫だから。ありがとう」
ビヴァリーは、部屋のドアを開けることなくハロルドに礼を言った。
披露するべきものなど何もないみすぼらしい部屋へ招き入れるつもりはない。
天井も低く、背の高いハロルドは立っていることさえできないだろうし、そもそもこの場所に伯爵さまはそぐわない。
ビヴァリーがこれ以上立ち入らせるつもりがないと見て、ハロルドは諦めたようだ。
背を向け、ひと言告げた。
「明日、迎えに来る」
「え?」
どういうことだと問う前に、ハロルドは階段を駆け下りて、あっという間に姿を消した。
(迎えに来るって……断ったのに)
頑固なところのあるハロルドは、自分が納得できるまで諦めない性質だったことを思い出し、ビヴァリーは溜息を吐いた。
「ねぇ……あの天使みたいな顔にハロルドって……まさか、ハロルド・レノックスじゃないわよねぇ?」
腕を組んだまま考え込んでいたマーゴットが、恐る恐る尋ねてくる。
マーゴットの客の中には、それなりに裕福な相手もいるから、噂を聞いたか新聞で見かけたことがあるのだろう。
「うん、そうだけど」
嘘を言ってもすぐにバレると思って頷くと、ガシッと肩を掴まれ揺さぶられた。
「ちょっとっ! どういうことよっ!? なんで、あんなのと知り合いなわけっ!?」
「それは……話せば長くなるんだけれど……」
ビヴァリーが言い淀むと、マーゴットは人差し指をビヴァリーの鼻先に突き付けた。
「ビヴァリー。今夜、約束している客を片付けたらすぐに戻るわ。寝ないで待ってなさい!」
ロングスカートに歩き難い華奢な靴を履いているにもかかわらず、ハロルドに負けない素早さで階段を駆け下りて行くマーゴットを見送って、ビヴァリーは深々と溜息を吐いた。
狭い部屋へ入り、今にも壊れそうな粗末で湿ったベッドに身を投げ出して呟く。
「……疲れた」
今日は、朝早くからギーニー競馬場まで窮屈な乗合馬車に揺られて出かけた。
レースでは「死神」と対決し、テレンスに誘拐されて生まれて初めて王宮を訪問した。
しかも、五年ぶりにハロルドに再会し、男だと思われていた驚愕の事実が発覚し……そして、人生初のキスを……。
(お、思い出さないようにしないと……)
慌てて馬車の中で起きたことを頭から追い払おうとしたビヴァリーは、きっかけとなった大事な帽子を馬車に落としてきたことに気が付いた。
擦り切れたツイードの帽子は、ビヴァリーの大事な幸運のお守りだ。
(もう一度会うのは気が進まないけれど、返してもらわなくちゃ……あ……マーゴットへのお土産も忘れてた……明日、お店に……)
マーゴットの好きな菓子をあれこれ考えているうちに、あまりにも波乱万丈の一日に休息を求めていた心と身体は限界を迎え、目をつぶってからほんの数秒で、芝居の幕が下りるようにビヴァリーの意識はストンと途切れた。
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