第6話 成長した天使は、獣になっていた 1
食い入るようにハロルドを見つめていたビヴァリーは、相手を見下すような尊大さが滲む鳶色の瞳に、いつもちょっとだけ偉そうにしていた少年の頃の面影を見つけ、つい頬を緩ませてしまった。
「不法に稼いだ金ではないだろうな?」
そんなビヴァリーに、ハロルドは眉をひそめる。
確かに、自分のようにみすぼらしい恰好をした人間は金貨など持ち歩かないものだと思い、慌てて言い訳した。
「あの、これはちゃんと……お客さんから貰ったものです。一回きりの取引で、工場とかで働くような普通の仕事じゃないけれど…………あの……つまり……正当な対価というか……要求を満たしたことへの……報酬、です」
秀麗な顔に段々と侮蔑の色が広がっていくのを見て、ビヴァリーの声は小さく途切れがちになり、最後は囁くように呟いた。
(そう言えば、ハルは賭け事で身を滅ぼした父親のようになりたくはないと言っていた。競馬でお金を稼いでいるなんて、言えない……)
あの頃でさえ、高潔さと潔癖さで出来ていたハロルドだ。きっと今のビヴァリーを飢えた野良猫みたいに思っているのだろうから、これ以上軽蔑されたらドブネズミに転落してしまいそうだ。
「テレンス。本当にこれがそうだと言うのか? どうにも信じられないんだが」
苛立ちを滲ませて言い募るハロルドに、テレンスは負けじと言い返す。
「再婚して国外へ出た母親の消息までつぶさに調べた結果、ようやく辿り着いたのです。間違いだったなら、素っ裸で馬に乗って王都を一周しますよ」
「おまえの能力を疑っているわけではないが……しかし……」
テレンスの自信に満ちた言葉を聞いても、ハロルドは半信半疑の様子だ。
ハロルドが自分の顔をちっとも覚えていないと知って、ビヴァリーはほんの少しだけ、がっかりした。
昔も今も絶世の美少女なんかじゃないし、チョコレート色の髮もアップルグリーンの瞳も、ブレントリーでは珍しくもない。五年前に、ひと夏だけ仲良く一緒に乗馬を楽しんだ、平凡な少女の姿を鮮明に覚えているほうが珍しい。
仕方がないと内心溜息を吐いてクタクタの帽子を一段と握りしめたビヴァリーは、次の瞬間、想像もしていなかったハロルドの一言に衝撃を受けた。
「そもそも、どう見ても男じゃないだろう?」
「はぁっ!?」
「ええっ!?」
思わずテレンスと共に大きな声を上げてしまったビヴァリーは、慌てて口を閉じた。
クタクタの帽子をぐしゃぐしゃになるまで握りしめ、思わずテレンスを見上げると、テレンスも目を丸くしてビヴァリーを見下ろしていた。
「あまりに小さくて視界に入っていませんでしたが……確かに」
ぽつりとテレンスが呟く。
帽子を脱いだビヴァリーは、肩の下あたりまであるチョコレート色の髪をうなじの上で一つに結わえた姿だった。
ブレントリー王国では、基本的に髪の長い男性はいない。
「ビリーは男だ。女じゃない」
ハロルドが自信たっぷりに断言するのを聞いて、ビヴァリーはめまいがした。
(もしかして、ずっと『ビリー』は男だって思っていたの……? 確かに……確かに、男の子の恰好はしていたけど、でも……っ!)
ハロルドと出会った頃の黄ばんだシャツにつぎはぎだらけのスボン、髪も帽子に押し込めていた自身の恰好を思い返しながら、ビヴァリーは茫然とした。
(一緒に一頭の馬に乗ったこともあるし、かなり密着していたはずなのに、少しも気付かれなかったなんて……)
あの頃と大して変わっていない胸のふくらみを見下ろし、がっくりと項垂れた。
そんなビヴァリーの横で、テレンスは引きちぎらんばかりの勢いでテイルコートとその下のシャツを脱ぎ捨てる。
下までは脱がない理性はあるようだ。
「少佐……今すぐ馬に乗って王都を一周して参りますっ! その上で辞表をっ!」
岩のように硬そうな筋肉に覆われた肉体を惜しげもなく披露したテレンスは、そのまま部屋を飛び出そうとして、扉に飛びついた。
「テレンスっ! 待てっ!」
ハロルドの制止も虚しく、このままではテレンスが力ずくで扉を破りそうだと思い、我に返ったビヴァリーはテレンスの見事な背筋をつついた。
「あのう……さっき、鍵をかけていたと思うんだけど」
「はっ! そうだった……」
扉を離れたテレンスに服を拾って駆け寄ったハロルドを見遣り、ビヴァリーは誤解を解くために紛れもない真実を口にした。
「それから……『ビリー』は――私は、もともと女なんだけど」
「…………」
「…………」
二人がそれぞれの理由で驚き、声を失う様子をしばらく眺めていたビヴァリーは、午後四時の鐘が鳴り始めるのを聞いてマーゴットのことを思い出した。
「あの、もう帰ってもいい? お店が閉まる前に友達にパイかケーキを買いたいから」
ビヴァリーの声に反応し、先に立ち直ったのはハロルドだった。
「パイかケーキは、王宮で食堂用に作る分を分けて貰えるだろう。あとで頼んでおくから、まずは話を」
険しい顔つきでテレンスに「さっさと着ろ!」と服を押し付け、ビヴァリーには人の手で作られたとはとても思えない、凝ったダマスク柄のソファに座るよう命じる。
(いったい何の用があるのか気になるけれど……昔の話なんかできる雰囲気でもないし、これ以上の衝撃に見舞われる前に早く帰りたい……)
ビヴァリーはソファの上でもぞもぞしていたが、絶妙のタイミングで二人の侍女がお茶を運んできた。
テーブルには、お茶だけではなく小さく切ったサンドイッチやスコーン、たっぷりと添えられたクリームやジャム、さらには一口大の可愛らしいケーキやパイが載った皿が並べられた。
ビヴァリーの落ち込んだ気持ちは、いっぺんに吹き飛んだ。
(わぁ……どれも美味しそう!)
もう何年も見たことのない、美味しそうで上品な菓子の数々に、朝出がけに硬いパンを齧ったきりのお腹が「ぐううう」と盛大に自己主張した。
礼儀作法なんて欠片も記憶に残っていないが、お腹を鳴らすのが不作法なことくらいはわかる。
恥ずかしくて、でも食べたい気持ちを諦めきれずに俯いていると、綺麗な夕陽色の紅茶が入ったカップが差し出された。
「冷めないうちに飲め。飲んだらさっさと食べろ」
ぶっきらぼうにぐいっと押し付けてくるテレンスの大きな手は、少しでも力加減を誤ったら、繊細なカップを粉々に砕きそうだ。
「ありがとう……ございます」
ビヴァリーが、ひびが入る前にカップを救い出すと、テレンスは「む」と唸って無理やり隣に座り、サンドイッチを鷲掴みにして大きな口へ放り込んだ。
(いくら小さいとはいえ、一口で三つはないでしょ……)
目を丸くしているビヴァリーに、テレンスは「頼めば追加してもらえる」と的外れなことを言う。
「思う存分食べろ。ちなみに、王宮のキュウリはうまい」
勧められるままに、サンドイッチをつまみ上げ、白いパンに緑の何かが入った挟まった部分を齧ってみる。
シャリシャリして瑞々しく少し青臭いが、しっとりしたパンやバターとよく合う。
「美味しい!」
「だろう? 我が家でも栽培しているんだが、温室ではないせいか、なかなかうまくいかなくてな……」
「……家で栽培?」
「花や植物が好きで庭いじりが趣味なのだが、どうせなら食べられるものを栽培しろと母がうるさくてな」
テレンスが、麦わら帽子を被って庭にしゃがみこみ、花を植える姿を想像したビヴァリーは、熊に間違えられそうだと思って吹き出した。
「こちらのパイは、何代か前の国王が、お忍び中に町の屋台で買ったパイを気に入って、王宮の料理人に毎日のお茶の時間に必ず作るよう命じたものらしい」
あっという間にサンドイッチがなくなると、今度はパイを勧められた。
「へぇ……王様の舌は、庶民的だったんですね」
こんがりと焼き色のついたパイは、小さくとも十分満足できる味だった。
他の菓子たちについても、興味深い話と共に次々と勧められ、気が付けばテーブルを埋め尽くしていたパンや菓子は綺麗になくなっていた。
空になった皿を前に、途中からほとんど一人で食べていたことに気付いて恐る恐る左手側の一人掛けのソファに座るハロルドを見遣ると「信じられないものを見た!」というような顔をしていた。
凛々しい眉が下がり気味になり、鳶色の瞳がこぼれ落ちんばかりに大きく見開かれていても、その美しさは損なわれないようだ。
「あの……す、すっかり食べてしまって、ごめんなさい。あんまり食べてなくって……今日も朝に、パンを食べたきりだったから……」
あんまり厳密ではないが、レース前後に検量があるので、馬体が大きい『エンプレス』との兼ね合いを考えて、ここのところ食事は控え気味にしていた。
「いや……そのために用意したのだから、詫びる必要はない」
ハロルドは、急に我に返った様子で真顔になると、ようやく本題に入った。
「実は、ある貴婦人の乗馬に付き合える人物を探している」
「ある貴婦人……」
わざわざ専属の人間が必要ということは、かなり身分の高い人間だろうと思い、ビヴァリーは顔をしかめた。
「まだ名前を明かすことはできないが、ブレントリー王国にとって非常に重要な役目を果たす人物だ。護衛や身の回りの世話などをしてもらう必要はないし、パートナーも既に決まっているので、社交界での付き添い役をする必要もない。ただ、一緒に乗馬を楽しめる人物がほしいんだ」
ビヴァリーは自分にその役が務まるとはとても思えず、首を振った。
「私は、礼儀作法も知らないし、気の利いた会話もできないし……無理だと思うけど」
「準男爵家の出身だろう?」
すっかり忘れ去っていた身分を口にするハロルドに、ビヴァリーは苦笑した。
「五年前まではね。でも、もう違う。それに、元々貴族じゃないし。あの頃習ったことなんか全部忘れちゃった」
覚えているのは、真っ赤な炎に包まれる厩舎と真っ黒に焼け焦げた残骸だけだ。それも、覚えていたくて覚えているのではない。忘れたくとも忘れられないだけだ。
「多分、コルセットするのも無理だしね」
辛い記憶に顔が強張るのを無理やりごまかすため、冗談めかして肩を竦めた。
馬に乗るには出来る限り身軽なほうがよく、しかも女だとバレないようにするためには、胸を盛り上げてくびれを作るコルセットを身に着けるなど論外だ。
マーゴットには呆れられたが、そもそもコルセット自体持っていない。
「だいたい、どうしてわざわざ私を? 乗馬が上手くて、身分も教養も容姿も申し分のない人はたくさんいるのに」
ブレントリー王国の上流階級では、乗馬は必ず嗜むべきものの一つだ。男性のように跨って勇ましく走らせることはないが、女性も横乗りできなくてはならないから、相手役は男性でなくとも務まるかもしれない。
落ちぶれた元準男爵令嬢――ハロルドにとっては子息――をわざわざ引っ張り出す理由がわからないと言えば、ぐっと眉根を寄せて険しい表情をしていたハロルドは、やや苛立ちを滲ませた声で答えた。
「祖父が、『ビリー』が適任だと言ったんだ」
意外な答えに、ビヴァリーはつい問い返してしまった。
「ギデオン様が?」
「ああ。貴族同士のしがらみや力関係とも無縁だし、何よりどんな馬でも……可愛げのない馬でも乗りこなすから、と」
唐突に、五年前の懐かしい思い出が、ビヴァリーの胸に込み上げた。
決して取り戻せない、だからこそもう一度手にすることを望んでしまいそうになる思い出が耐え難い痛みを引き起こす。
何とか呑み下そうとしたけれど、ほんの少しだけあふれたものが目頭を熱くし、ポタリとしずくが手の甲に落ちた。
ハロルドが鳶色の瞳を見開き、腰を浮かせるのを見て慌てて擦り切れた袖で目元を拭う。
「あ、のっ……えっと……な、なんでも……何でもないから……」
いつもなら、すぐに止まるのに、途切れることなくじわじわと込み上げてくる涙に、ビヴァリーはパニックに陥った。
何も知らないハロルドが、ビヴァリーに突然泣き出されて驚くのは当然だし、迷惑だろう。
ハロルドの中身は、あの頃から全然変わっていないようだけれど、ビヴァリーはあの頃とは全然違う。
知りたくなかったことも知り、見たくなかったものも見て、したくなかったこともして、たくさん嘘を吐いて、しかもハロルドが大嫌いなことをしてお金を稼いでいる。
これ以上、みっともない姿をハロルドに見られたくないということしか考えられなくなって、ビヴァリーは隣にいたテレンスの腕を掴んで揺さぶった。
「ねぇ、もう帰ってもいい? ……もう帰りたい」
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