第29話 名馬の子でも、名馬にはなれません 3
「なかなかお似合いですな、少佐」
「…………」
「ちなみに、着順からすると……一着は文句なしにドルトン。アルウィンがハナ差。グラーフ侯爵がクビ差。
単なるテレンスの評価ではあるが、ハロルドはぐっと柵を掴んだ。
雨上がりの馬場で、ドルトンと感動の再会を果たしているビヴァリーの隣には、当然のごとくギデオンがいる。
昨夜、テレンスとチェスをしながらギデオンとビヴァリーの話が終わるのを待っていたのだが、一向に書斎の扉は開かなかった。
嵐が静まり、夜明けの気配がし始めたところで記憶が途切れ、テレンスのいびきで目が覚めて慌てて食堂へ行ったら、ギデオンとビヴァリーは厩舎へ向かったと家令に知らされた。
「まぁ、元気になってよかったと思うべきでしょう」
ハロルドはビヴァリーの上気した頬や眩しい笑顔を見つめながら頷いた。
「そうだな」
体調が良くなったのか、それともギデオンとドルトンの効果か、今朝のビヴァリーは顔色もよく、動作もキビキビとしていて、昨日までとは別人のようだった。
ドルトンは、ビヴァリーを乗せると軽々と馬場の柵を飛び越え、あっという間に走り去ってしまった。
すでに七歳くらいにはなっているはずだが、レースでも勝てるのではないかと思うほど、力強い走りだ。
「長年の恋人に再会したような喜びようだ」
ビヴァリーたちを見送ったギデオンは、ようやくハロルドと話す気になったらしい。
後ろ手を組んで、姿勢よく歩み寄る。
「おはようございます。昨夜はお話できませんでしたが……ビヴァリーを連れて来たのは、単にお祖父さまに会わせるためではありません」
昨夜真っ先に報告すべきだったことを、今こそ言わなくてはと意気込むハロルドに、ギデオンは冷ややかな眼差しを向ける。
「前置きはいらない。用件を述べよ」
ハロルドは背筋を伸ばして一番肝心なことを告げた。
「ビヴァリーと結婚したいと思っています」
「思っているだけか?」
「いえ。特別結婚許可書も用意し、大臣と陛下にも報告済みです」
「ふむ。おまえにしては手際が良すぎる。急ぐ理由があるということだな」
ギロリと灰色の瞳で睨まれ、ハロルドは冷や汗が背筋を伝うのを感じながら、正直に現在の状況を説明した。
「その通りだったのですが……急ぐ必要はなくなりました。ただ、だからと言って先延ばしにするのも時間の無駄ですので、このまま式を挙げたいと考えています」
「ビヴァリーは承諾しているのか?」
ビヴァリーが先にギデオンに相談した可能性があると思いながらも、ハロルドは自身の考えを伝えた。
「まだ納得はしていないようですが、ビヴァリーにとって悪い話ではありませんし、むしろ得られるものの方が多いとわかれば、受け入れるかと」
ビヴァリーにとって、いらないものも付いてくるかもしれないが、それよりも得られるもののほうが断然多い。
五年前に支えられなかった分、これから先はビヴァリーの力になれるよう傍にいたいし、これ以上、独りで辛い思いをさせたくなかった。
友人という立場でビヴァリーを援助することは可能だろうが、たとえビヴァリーが選んだ道だとしても、他の男がビヴァリーに触れられるような状態で放置するのは嫌だった。
ハロルドが初めての相手だったのだから、娼婦ではなかったのかもしれないという可能性は頭を過ったものの、真っ当な仕事で金貨百枚を稼げるはずもない。
ラッセルが亡くなった当時のことを聞き出すだけでもビヴァリーは辛そうだったので、その後の暮らしまで詳しく問い質せなかったが、十三歳のビヴァリーが親の保護なく生きて行くのに、進んで話したくなるような日々を送っていたとは思えなかった。
「ビヴァリーが得られるものとは何だ? おまえは何をビヴァリーに与えるつもりだ?」
「十分な食事、快適な住まい、仕立てのよい服、馬……金が必要なら、それも。ビヴァリーが望むものを与えられます」
ビヴァリーが欲深いとは思わないが、ドレスや宝石を買い漁ったとしても、たかが知れているだろう。
ビヴァリーにとって一番価値があるものは馬なのだから。
タウンハウスでもビヴァリーの馬を飼うことはできるし、王宮でもアルウィンの世話ができる。時々、グラーフ侯爵領でドルトンに乗ることだってできる。
今よりずっと素晴らしい生活を送れるはずだとハロルドが自信たっぷりに語ると、ギデオンは灰色の眉を引き上げた。
「それだけか?」
ギデオンの問いに、耳を疑った。
「その程度のものしか与えられないのに、ビヴァリーが頷くと思うのか?」
「いや、しかしっ……」
ビヴァリーが大金を求めているとでも言うのかと気色ばむハロルドに、ギデオンは嘲るような眼差しを向けた。
「ビヴァリーは、そんなものを欲しいと言ったのか?」
「…………」
「おまえのやり方は、渇きに苦しみ、水が欲しいと思っている相手に、干からびたパンを差し出して、感謝しろと言っているようなものだ。ビヴァリーはおまえには悪気がないとわかっているから、口では感謝するだろう。だが、それを喜びはしない。喜びのないところに、幸福があると思うかね? 軍曹」
唐突に話を振られたテレンスは、ビクリと飛び上がり直立不動で応えた。
「幸福や喜びにはさまざまな形があります。自分には少佐やビヴァリーにとって、何が幸福や喜びであるかはわかりかねます。が、その二つには、切っても切れぬ縁があると思われます」
ギデオンは、満足そうに頷くとハロルドを見据えてもう一度問いかけた。
「ビヴァリーが欲しいものをおまえは知っているのか? ハロルド」
知っていると答えられない自分がいることに気付き、ハロルドはぐっと掴んでいた柵を握りしめた。
「いい騎手は、馬を自分の思い通りにしようとはしない。そんなことをしても馬は言うことを聞かないし、挙句の果てにはその馬の持つ素晴らしい才能を潰してしまうことになるからだ。それは、何もしないよりもずっと罪深い」
「そんなことをするつもりは……」
「おまえは、この世に一頭しかいない、もっとも価値のある素晴らしい馬に乗るに相応しい、素晴らしい騎手か?」
「…………」
ハロルドは、眩い朝日を背にこちらへ向かって来るビヴァリーを見つめ、完璧な一対だと思った。
笑みを浮かべるビヴァリーと無駄なものなど一つもない黒鹿毛の美しい馬体を波打たせて走るドルトンは、喜びに満ち溢れ、輝いているように見える。
自分では、あんなふうにビヴァリーを喜ばせることはできないだろうと自嘲の笑みを浮かべると、ギデオンに再び問われた。
「もしくは……そうなろうと努めているか?」
「……いいえ」
「ならば、今日から始めるんだな。レースは、いくら予想をしたところで、始まってみなくてはどんな結果になるか、わからないものだ」
少し離れたところで馬を降り、泥に塗れることを少しも気にせず歩いてくるビヴァリーの頬は薔薇色に染まり、赤い唇からは笑みが離れない。
冴えないハンチング帽を被り、擦り切れたジャケットにサイズの合っていないズボンを身にまとっていても、ビヴァリーは美しかった。
どうしてそんなふうに思うのだろうと考えかけたハロルドは、いたって簡単な答えに辿り着き、熱くなる頬をごまかすように手で口元を覆った。
「少佐」
呼びかけられて睨み上げると、テレンスはいけ好かない笑みを浮かべ、大げさな口調で診断を下した。
「重症ですな」
◇◆◇
丘を回り、小川を飛び越え、茂みを突っ切り、さんざん泥だらけになって満足したビヴァリーとドルトンは、ビヴァリーのお腹の虫が鳴ったのを合図に、駆け戻った。
馬場の柵の向こうにはギデオンだけでなく、ハロルドとテレンスもいたが、泥だらけのビヴァリーたちとは大違いの小綺麗な格好をしている。
「私たち、綺麗にしないと家に入れてもらえないかも」
当たり前だろうと言うように振り返るドルトンは、ビヴァリーが馬場には入らず、柵の手前で降りるとぐっと頭を高く上げてハロルドをひと睨みした。
尾を強く振り回して威嚇してから、待ち受けていた馬丁に「連れて行け」と言うように頭を振る。
「おねがいします」
「ドルトンもさんざん走ってすっきりしたでしょうから、素直に言うことを聞いてくれそうです」
できればビヴァリー自身の手で洗ってやりたかったが、自分も泥を落とさなくてはならないので、ギデオンたちを待たせてしまうだろうと思い、諦めて馬丁と共に去って行くドルトンを見送った。
「楽しめたかね?」
最短距離を行くために、馬場を横切って柵を飛び越えて戻ると、ギデオンが灰色の目を細めて尋ねた。
「はいっ! とてもいい状態でした」
「賢い馬は、自分で食べる量を調整し、運動もする。下手な乗り手や独りよがりの馬丁はお呼びではない」
そう言うギデオンは、なぜか隣にいるハロルドを一瞥した。
ハロルドは苦々しい表情をしていたが、ビヴァリーを見ると寄せた眉根を元へ戻した。
「もう、体調は大丈夫なのか?」
「ドルトンに乗ってすっきりしたから、大丈夫」
昨日までは眠くて仕方なかったが、すっかり調子を取り戻していた。
その証拠にぐぅぅっと盛大にお腹が鳴り、テレンスが吹き出す。
ビヴァリーが顔を真っ赤にしていると、ギデオンは眉一つ動かさず、「朝食の準備が整っているはずだ」と言って館へ向かって歩き出す。
ハロルドは、遠慮なく喉を鳴らして笑いながら手を伸ばし、ビヴァリーの頬に触れた。
「泥がついてる」
ウェストコートにシャツだけという砕けた恰好のハロルドは、髪もあげておらず、前髪も無造作に下ろしたままで、少年のようだ。
鳶色の瞳の鋭さも和らいで、形のいい唇は愉快そうな笑みをずっと浮かべている。
「その恰好で屋敷を歩き回ったら、家政婦長が悲鳴を上げるな」
再会してから初めて見るのではないかと思われる、上機嫌のハロルドにぼうっと見惚れていたビヴァリーは、自分の姿を見下ろして、指摘された通りだと思った。
いつもの擦り切れたジャケットに黄ばんだシャツ、だぶだぶのズボン。靴は、ハロルドがそろえてくれた乗馬用のブーツだが、あちこち泥だらけで、綺麗なのはハンチング帽だけという有様だ。
ゴミ一つ落ちていない屋敷の廊下はとても歩けそうにない。
「歩かせなければいいのでは? 少佐」
テレンスの言葉に、ハロルドは「それもそうだな」と頷いていきなりビヴァリーを抱き上げた。
「ひゃあっ」
思わずその肩に掴まり、慌てて手を離す。
「ご、ごめんなさい、泥が……」
「洗うか、乾くまで放っておけば落ちる」
そうは言うけれど、べたべたと泥をつけるわけにもいかない。
ビヴァリーが縮こまっているとハロルドは不審そうに見下ろす。
「ずいぶん軽いな。どこか悪いんじゃないのか?」
「え? それはないと思うけど……」
「普通、十八にもなればもう少し……」
ハロルドの視線が何となく胸の辺りをさまようのを感じ、ビヴァリーは顔を赤くしながらも睨んだ。
「これは……もともと、小さいのっ!」
「……っ!」
びっくりしたように鳶色の瞳を見開いたハロルドは、失言だったと気付いたらしく、気まずそうに謝った。
「いや、そういう意味では……悪かった」
男の人は、マーゴットみたいな豊かな胸やお尻が好きなのだと知っているけれど、明らかに足りないと言われたら、いくら自覚していても傷つく。
(ハルは、すくすく立派に成長したかもしれないけれど、私はずっと満足に食べられなくて栄養も足りていなかったし、馬に乗るには軽いほうがいいし、テレンスさんみたいには食べないんだから、仕方ないじゃない)
ビヴァリーが、さすがにむっとしていると、ハロルドが機嫌を伺うように覗き込んでくる。
「ビヴァリー?」
目が合い、「気にしていない」と言おうとしたビヴァリーは、突然唇にキスされて驚くあまり、ハロルドの腕から転げ落ちそうになった。
「馬鹿っ」
しっかりと抱きかかえられ、ビヴァリーもしっかりとその首にしがみついた。
二重の驚きに心臓がバクバクして喘ぐように息をすると、ハロルドがビクリと震える。
どうかしたのかとしがみついた腕を緩めて覗き込むと、怖いくらいに真剣な眼差しに出会う。
うっとりしちゃだめだと思いながらも、引き寄せられるようにしてハロルドと唇を重ねようとしたところで、テレンスの咳払いが聞こえた。
「あー、少佐。わかっているとは思いますが、現在朝です。早朝です。朝食もまだであり、先ほどから……グラーフ侯爵がこちらを睨んでおりますことをご報告いたします」
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