第30話 花嫁は、馬に乗って逃走中 1

「本当に、綺麗だわ」


「ええ、本当に……見てください、この繊細なレース。もう、神業としか思えません」


「品があるけれど、古臭くはないし……さすが王都の仕立屋は違うわね」


 口々に花嫁衣裳を褒める侍女やお針子に、ビヴァリーは引きつった笑みを返すだけで精一杯だった。


(なんでこんなことになってるの……)


 昨夜はなかなか眠れなかったせいで、今朝侍女が起こしに来てくれたとき、ビヴァリーは半分寝ぼけていた。


 言われるままに入浴し、王都のタウンハウスに滞在していた時のように隅々まで香油で手入れされ、やけに凝った髪型に結い上げられたものの、着せられたドレスは脱ぎ着しやすいワンピースだったので、さほど不思議に思わず「あちらに朝食を用意していますので」という言葉に従って歩いていったら、なぜか馬車に乗せられた。


 さすがに何かおかしいと思って、どこへ行くのかと訊ねたら「侯爵家の敷地内ですからご心配いりません」と言われた。


 きっと、温室とかそんな感じのところで食べるのだろうと思っていたら、着いたところは教会だった。


 驚くビヴァリーに、侍女はにっこり笑って「グラーフ侯爵領は、すなわち侯爵家の敷地ですので」と言った。


 確かにその通りなので反論できずにいると「神様に祈ればきっと気持ちも落ち着きます」と言われ、そうかもしれないと案内されるままになぜか教会の裏手側に案内され、「司祭さまがこちらでお待ちくださいとのことです」と言われて小部屋に入ったところ、お針子と侍女二名、そして花嫁衣装を着たトルソーが待ち受けていた。


 引き返そうとしたビヴァリーの背後で案内役の侍女は部屋の鍵を閉め、その前に椅子を持ってきて座り込み、にっこり笑って絶対に嘘に違いないことを告げた。


「司祭さまが、準備ができるまでは、出てはなりませんとおっしゃっています」


(確かに、すごく綺麗なドレスだけれど……)


 見たこともないほど繊細な模様で編まれたレースが胸元と裾に、長いヴェールの縁にもあしらわれている。


 サイズの直しはほとんど必要なく、少し緩めに作られていた胸元も背中部分を少々詰めるだけで済んだ。


 最後に侍女は、白粉を少したたいて青ざめたビヴァリーの頬を薔薇色にした。


「昨夜は緊張して眠れなかったんでしょう? ハロルドさまも旦那さまも、あまり派手なお化粧はお好きではないのですけれど、目の下の隈はいただけないわ」


 確かに、昨夜は眠れなかったけれど、それは緊張のせいなんかではない。


 ビヴァリーには、ハロルドが何を考えているのかさっぱり理解できなかった。



◇◆



 昨日、ギデオンにハロルドとキスをしているところを目撃されるという、何とも気まずく恥ずかしい思いをした後、朝食をしっかり食べたビヴァリーは再び厩舎へ向かい、ドルトンの子である一歳馬たちの様子を見たりして過ごした。


 午後には、ドルトンとハロルドと一緒に散歩へ出かけようと思っていたのだが、生憎昼から雨が降ってきてしまったので、諦めざるを得なかった。


 ハロルドとテレンスは、使用人たちと話したり、雨などものともせずに近隣の村へ出かけたりと何やら忙しそうで、ビヴァリーはギデオンと血統書を眺めて今年の競馬予想をしたり、チェスをしたりして過ごしていた。


 ギデオンは、ハロルドとの結婚については何も言わず、ハロルドにまだ競馬の件を打ち明けられていなかったビヴァリーも、何も言えなかった。


 結局、ハロルドとテレンスが戻って来たのは晩餐の時間ぎりぎりで、その後ハロルドはギデオンと長い時間話し込み、ビヴァリーがようやくハロルドを確保できたのはだいぶ夜も更けてからだった。


 春とは言え、まだ朝晩は冷える。


 暖炉に赤々と燃える炎を見つめながら、ほんの一口分だけワインが注がれた杯を手にしていたビヴァリーは、暖炉は目の前にあるはずなのになんだか左半身が熱い、と思った。


 先延ばしにはできないと思って、勇気を振り絞ってハロルドを書斎に呼び出したのだが、前に二人きりになってお酒を飲んだ際に起きたことを思い出し、テレンスにも居てもらえばよかったと後悔したがもう遅い。


「ビヴァリー?」


「ひっ……は、はい?」


 二人掛けのソファに並んで座っていたハロルドが、いつまで経っても空にならないビヴァリーの杯を覗き込む。


 その拍子に、ハロルドの身体が近づき、ほんのり熱かった左半身が「じゅっ」と音を立てて燃え上がりそうになった。


「飲めないなら、果汁に換えてもらおうか?」


「え、だ、大丈夫。の、飲めるから……」


「無理はしなくていい」


 そう言ったハロルドは、ビヴァリーの手ごと杯を自分の唇に持って行き、ひと息に飲み干した。


 そのまま杯をテーブルに置くと、居心地悪そうにしているビヴァリーに気付いたのか、ソファの向こう端へ退却した。


 それでも、ハロルドの長い足はビヴァリーの膝にくっ付きそうで、触れていなくともじわじわと熱を感じる。


 そもそも、どうして二人掛けのソファしかなかったのか謎だ。


 ギデオンといた時には、ちゃんと一人掛けのソファがあったはずなのに。


「ドルトンの子どもたちは、いい馬になりそうか?」


「え? う、うん」


「アルウィンを見た人たちから、欲しいという申し込みが殺到するだろうな」


「でも、あと一年くらいはレースに出せないし、それまでには……」


 ビヴァリーは、その先に続く話をする前に言わなくてはいけないことがあると、一旦言葉を切り、深呼吸してから思い切ってハロルドに向き直った。


「あの、ハル……ハルに、言わなくちゃいけないことがあるんだけど」


 目を逸らしたくなる気持ちを堪え、鳶色の瞳を見つめて口を開いたものの、喉がカラカラに渇いて、つっかえそうだ。


 ハロルドは、促すように軽く首を傾げてじっとビヴァリーを見つめているが、暖炉の炎に照らされて鈍く光る金の髪や彫の深い顔に落ちる陰が、昼間の眩い美しさとは正反対の暗く妖しい美しさを醸し出している。


 時折、目を伏せ、手にしたグラスを弄ぶように揺らしながら、ビヴァリーの次の言葉を行儀よく待ってくれているが、なぜか脳裏には伏せながら獲物にじわりじわりと近づいていく猫の姿が思い浮かぶ。


「わ、私がしている仕事なんだけど……」


 ピクリ、と眉が動き、眉間に皺が寄る。

 ぐっと引き結ばれた唇は、不服そうにへの字になっている。


 かき集めた勇気が吹き飛びそうだと思いながらも、ビヴァリーは敢えて距離を詰めた。


 ビヴァリーが近づくとハロルドは驚いて反射的に逃れようとしたが、既にソファの一番端にいるので逃げ場はない。


 ハロルドの足に手を置いて、しっかりと鳶色の瞳が見えるように顔を近づけた。


 怖いものを避けていては、いつまで経っても慣れることはできない。


 ハロルドが何を思い、どんなふうに感じるのか確かめるのは怖かったけれど、目を逸らして気付かないふりはしたくなかった。


「私……二年前から、競馬のレースで騎手をしているの」


 ハロルドの顔が歪み、鳶色の瞳に怒りや苛立ち、驚きや悲しみといった色んな感情が過るのを見つめながら、ビヴァリーは少しでもわかってもらいたくて言葉を続けた。


「ハルに王宮で会った日、レースがあった競馬場でテレンスさんに捕まったの。ハルが何か……その、娼婦のようなことしてるって誤解しているかもしれないとは思っていたけれど、ハルは賭け事が嫌いだから、競馬の騎手をしているって言ったら嫌われるんじゃないかって思って……それで、なかなか言えなくて……」


 しんと静まり返った部屋に、ハロルドのかすれた声が響いた。


「……ずっとではないんだろう?」


「港から逃げ出してすぐは、荷下ろしをして、そこでお金を貯めてから、父さんの知り合いの人の厩舎を訪ねたんだけど……雇い主の人が夜中に部屋に入ってきて、怖くて逃げだした。親切な馬丁の奥さんが銀貨とパンをくれて、近くの町まで歩いて……教会でしばらく手伝いをして、食事をもらったりして……でも、いつまでもそうしてるわけにはいかなかったから、農場とか工場とか、知り合った人の紹介や噂話を頼りに仕事を見つけて、少しずつ王都に近い方へと移動した」


「いつだ?」


「父さんが亡くなって、一年くらいかな。炭鉱で働こうかと思ったけど、危ないからやめたほうがいいって言われたから。王都ならたくさん仕事があると思っていたんだけど……パブとか給金がいいところで働こうとしても、子どもだと雇ってくれなかったり、大人の半分しかくれなかったり。家賃も払えたり払えなかったりしていた。そんなとき、競馬場でりんご酒を売る仕事をしている合間にレースを見たら、本当は勝てるはずの馬が負けているって気が付いた。それで、レースに負けて馬を売るって言ってた馬主に自分を騎手にしてくれたら次のレースで勝てるって売り込んだの」


「…………」


 沈黙を返すハロルドは、険しい表情でビヴァリーを見つめていた。


 唇が震えそうになるが、きちんと説明しなくてはとビヴァリーは先を続けた。 


「レースで勝てない馬でも、いい馬はいる。競馬場でこれはと思う馬を見つけたら、馬主に取引を持ち掛けて、次のレースに騎乗させてもらうことと、レースに勝ったら儲かった分の一割と馬を貰う約束をするの。そうやって、レースに勝って手に入れた馬はギデオンさまのところへ運んで、報酬は銀行に預けている。けっこう貯まっているんだけど、まだまだ足りなくて……」


「その金を……どうする気なんだ?」


「自分の厩舎を作りたくて。ギデオンさまに、もう一度父さんの厩舎があった場所に作りたいってお願いしたの。そこで、ドルトンとドルトンの子どもたちを育てようと思っている。ブレント競馬場のレースで、自分が繁殖から育成まで手掛けた馬を優勝させたいっていうのが父さんの夢だったから、それを叶えるのはもちろんなんだけど、私はその馬に自分で乗りたいの」


「…………い」 


「今のところ、レースで負けたことはないし、繁殖用に牝馬を探すのが目的だったから、あまり騎乗していなかったんだけど、これからはもっと乗って、もっとお金を稼いで、有名になればきっともっといい馬もドルトンのお嫁さんにできる。だから、ハルとは結婚できな……」


「もういいっ! ビヴァリー」


 ハロルドは、ビヴァリーが太股についていた手を無理やり引き剥がすとソファから立ち上がった。


「おまえが何をしていたかは、十分わかった」


 怒りを押し殺し、低く唸るように呟いたハロルドは、手にしていたグラスを呷ると暖炉に叩きつけるように放り投げた。


 グラスが割れ、一瞬炎が大きく膨れ上がったが、やがて何事もなかったかのように穏やかな揺らめきを取り戻した。


 大きく息を吐き、くしゃりと下ろしていた前髪をかき上げたハロルドは、ビヴァリーに背を向けたまま、ひび割れた声で告げた。


「もう遅い。早く寝ろ」


「ハル、だから……結婚はしなくても……」


「結婚するのは決定事項だ。そんなに馬に乗りたいなら、乗ればいい。別に止めはしない」


「でもっ! 結婚する必要なんかないのにっ!」


 そのまま部屋を出て行こうとするのを慌てて引き止めたが、腕を掴んだビヴァリーの手を引き剥がしたハロルドは、酷い痛みを堪えるように顔を歪めて呟いた。


「必要ない? 必要だからするんじゃない。結婚しなくてはならないから、するんだ」


「間違ってる……結婚もせずにあんなことしちゃったのは、間違っていたかもしれないけれど、こんなふうに、結婚するのは間違ってると思う」


「俺にとっては、間違いじゃない」


「ハルっ!」


「もういいと言っただろう? もう十分だ……ビヴァリー」


 聞く耳を持たないハロルドには、ビヴァリーの言葉は通じない。

 今まで、どんな馬でも最後には言うことを聞いてくれたのに、ハロルドにはビヴァリーの気持ちが伝わらないようだった。


 その証拠に、ビヴァリーの言葉には興味がないとでも言うようにふいっと顔を背けて、行ってしまった。

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