第48話 ゴールの先に待っているもの 2
マーゴットは、座るなりビヴァリーから帽子を取り上げると、内側に仕込んだハンチング帽の様子を確かめ、もうちょっとしっかり縫い付けるために位置を深めにすると言い出した。
ビヴァリーとアルウィンは第三戦に出場するのでまだ時間に余裕はあるけれど、マーゴットにやり直させるのは気が引ける。
「そこまでしなくても……」
取り敢えず、幸運のお守りであるハンチング帽の上に被れるようにしてくれればいいのだとビヴァリーが言うと、小さなハンドバッグから素早く裁縫道具を取り出したマーゴットは顔をしかめた。
「ビヴァリー。優勝して、国王さまに挨拶するのに帽子を脱いだら、その下にもう一つ帽子があるなんてことになったら、笑い話でしかないでしょ。あんた、喜劇役者にでもなるつもり?」
そんなことになったら、恥ずかしすぎて息が止まるかもしれない。
ビヴァリーが沈黙していると、マーゴットはさっさとハンチング帽を取り外し、位置を調整して再びシルクハットの内側に縫い付け始めた。
「そう言えば、偽物天使様は? 一緒じゃないの?」
「レースは観に来るって言っていたけれど、テレンスさんと一緒で忙しいみたい」
「そうみたいね。で、元気なのは見てわかっているけれど、火事では大怪我しなくて済んだのね?」
「うん。ハルが助けてくれて……見せてくれないけれど、ハルの背中には火傷の痕もあるみたい……」
怪我の具合を直接確かめられずにいるが、燃え盛る馬房の扉を背中で受け止めて、ちょっとした怪我で済むはずはない。
包帯を変えたり、必要な手当てを手伝おうかと言ってみたこともあるけれど、そもそもハロルドは夜遅く帰ってきて、朝早く出掛けてしまうので、着替える姿すら見られない。
王宮の医師がきちんと治療してくれているのに、ビヴァリーにはそれ以上のことはできなかった。
謝ったところでビヴァリーが魔法で傷を消せるわけでもないし、謝ってもハロルドは嬉しそうにしない。
「痛い思いをさせて、彫刻みたいに綺麗なハルの身体に傷を作るなんて、神様への冒涜のような気がする……」
マーゴットは「彫刻?」と首を傾げたものの、本人がいいと言うならいいんでしょと言った。
「名誉の負傷ってやつよ。あんたの偽物天使様だって、軍人で戦場にいたんだから、傷がまったくないわけじゃないでしょう?」
「じっくり見たことないけど……」
「でしょうね。あんたにそんな余裕があるとは思えない。とにかく……ビヴァリー。あんたがするべきことは、申し訳ないとメソメソ泣くことじゃなくて、ありがとうって感謝することよ。偽物天使様に醜い傷があるからって、嫌いになるの? もしも、あんたが偽物天使様のために醜い傷を負ったら、後悔するの?」
「ううん」
「だったら、うんと感謝して、優しくして、どんな傷があっても愛しているって、伝えればいいのよ」
「伝えるって……どうやって?」
「あのねぇ……それくらい、自分で考えなさいよ。偽物天使様が喜ぶ方法がいんじゃないの?」
ハロルドが喜ぶ方法と聞いたビヴァリーの脳裏を過ったのは、とても恥ずかしくて口に出せないようなことだ。
(怪我が治らないとできないけど、それまでハルは待てるかな?)
ひとりで顔を赤くしつつ、話しながらも黙々と作業するマーゴットの神業のような手の早さを見て、ビヴァリーは感心した。
「すごい……マーゴット。機械みたい」
「本当に機械でどんな服でも作れるようになったら、お針子は食いっぱぐれるわね」
「そんなことない。だって、機械じゃこんな細工できないもの」
「帽子の中に帽子を仕込むなんて、やろうと思う人間がそもそもいないわね」
「う……」
着々とシルクハットに縫い付けられていくハンチング帽を眺めていると、戸口ので呼ぶ声がした。
「あの、ビヴァリーさまはこちらに?」
振り返ると、従僕らしき恰好をした青年がこちらを窺っている。
「はい?」
「ああ、よかった。ブリギッド妃殿下が急ぎお話したいことがあるそうで、グランド・スタンドへお越しいただけますか? ご案内いたします」
「マーゴット……」
一人で置いて行くわけにはいかないとビヴァリーが言うより先に、マーゴットが答えた。
「行って来なさいよ。もうすぐ出来上がるし、大丈夫。こんなところで何かして、大金のかかっているレースをふいにする馬鹿はいないでしょ」
「すぐ戻れると思うけど……もし出来上がっても私が戻って来なかったら、アルウィンの世話をしているさっきの馬丁の人に預けてくれる?」
「わかったわ」
「それから、レースはギデオンさま――ハルのお祖父さんと一緒に観戦させてくれるように頼んだの。さっき、私がグランド・スタンドにいた時、隣にいた人なんだけど……」
「あら。あの素敵な紳士がそうなの? 偽物天使様がああなるまでには、遠い道のりが必要ね。ありがとう、ビヴァリー。助かったわ! 実は、テレンスが一緒じゃないから、ちょっと不安だったのよ。こんなに混雑しているとは思ってなくて……。あんな素敵な紳士と一緒に観戦できるなんて、感謝こそすれ、文句なんかないわ!」
「うん。ギデオンさまはブレントリーで一番の紳士だと思うから、きっと楽しい時間を過ごせると思う」
ギデオンは、誰に対しても失礼な態度は取らない。上流階級の人たちからも、ちゃんとマーゴットを守ってくれるだろう。
見送るマーゴットに手を振り、ビヴァリーは従僕の後に付いてグランド・スタンドの建物へ戻った。
ブリギッドが話したいことと言えば、アルウィンのレースのことしか思い浮かばない。
(何か心配なことでもあるのかな?)
ギデオンといたところへ続く階段は使わないようで、従僕に導かれるまま、さほど広くもなく人気もない廊下を歩いていると、向こう側からやって来る人影に気付いた。
従僕が立ち止まって軽く頭を下げたので、ビヴァリーも一緒に立ち止まったが、相手もまた足を止めた。
「あら。ビリーじゃないの」
鮮やかな黄色のドレスを纏い、飾りに過ぎない帽子を被った女性はコリーンだった。
「レースを前に逃げ出す準備かしら?」
「逃げ出しても、走っても、どっちにしろ負ける。無駄なことだ」
コリーンがしがみついていたのは、今日もまた黒一色の装いに身を包んだナサニエルだった。
第二戦に騎乗するはずだったから、これから厩舎へ向かうのだろう。
「賭け屋の予想には、根拠がある。目新しさや噂だけで判断する馬鹿はいない」
ナサニエルの言うことは間違っていないし、その通りだと思う。
でも、ビヴァリーはこれまで賭け屋の予想を覆してきた。
「その通りだとは思うけれど、私たち騎手は賭け屋の知らないこと――本当のその馬の実力を知っている」
自分の判断や感覚を信じられなかったら、勝てるはずがない。
ビヴァリーがまっすぐに暗い光に満ちた黒い瞳を見つめ返すと、ナサニエルは唇を歪めて舌打ちした。
「ふんっ……負け馬ほど、本来の力を発揮できなかったと言い訳をするものだ。勝負には、勝つか負けるかしかない。競馬では、勝つことがすべてだ。勝った者が正しいんだ」
「だから、勝つよ。勝って、正しいと証明する」
「レースが終わっても、同じことを言えるかどうか楽しみだ」
手にした黒い鞭でピシリと壁を叩いたナサニエルは、コリーンを引きずるようにして去って行った。
「あの、すみませんでした」
二人の姿が明るい光が溢れる外へと消えるまで見送ったビヴァリーは、待たせてしまって申し訳ないと従僕に詫び、先を急ごうと促した。
「では、ブリギッド妃殿下をお呼びしますので、こちらでお待ちください」
従僕は、廊下の突き当りにある部屋のドアを開けると、ビヴァリーを促した。
「はい、ありがと……」
一歩足を踏み入れたビヴァリーは、まるで物置のように馬具やロープや色んなものが積み上げられているのを見た。
ブリギッドを待つには相応しくない部屋に、間違いではないかと振り返ろうとした背を突き飛ばされる。
「きゃっ」
つんのめりながら、四つん這いになって倒れ込んだ背後で、バタンと扉が閉まる音がした。
「え……」
扉が閉まると、辺りは真っ暗闇に包まれる。
「ちょ、ちょっと待ってっ!」
慌てて扉に飛びついたが、押しても引いてもビクともしない。
扉を叩いて誰かに知らせようとしたとき、「わぁっ」という歓声が上がり、続いて華々しいファンファーレが聞こえた。
ファンファーレが途切れると、再び怒号と地鳴りのような歓声に包まれる。
(こんなんじゃ……とても、聞こえない)
いくら叫ぼうと暴れようと、レースの最中では声が届きそうもない。
(どうしよう……)
さすがに、レース開始間近になってもビヴァリーの姿が見当たらなければ、アルウィンの世話をしてくれている馬丁が異変に気付くだろうが、それではレースに間に合わないかもしれない。
(父さん……どうしよう?)
ビヴァリーは、なす術もなく、ずるずると扉の前に座り込んだ。
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