第47話 ゴールの先に待っているもの 1

 競馬日和でピクニック日和の快晴の下。

 ビヴァリーは、ブレント競馬場のグランド・スタンドから見る光景に、興奮と期待でドキドキし始めた胸を押さえた。


「広くて……綺麗ですね」


 見渡す景色は人工的ではあるが美しい緑に覆われている。


 馬場はきちんと手入れされた芝で、コースを囲う柵には折れているところもまだらに色が剥げているところもない。


 昔、何度か来たことはあるが、馬ばかり見ていたので競馬場自体の記憶があまりなく、グランド・スタンドで観戦したこともなかった。


 ラッセルとデボラは、ギデオンと一緒に上流階級や貴族、王族だけが入れるゴール前に造られた、この煉瓦造りのグランド・スタンドで観戦していたが、ビヴァリーは馬たちが駆け抜ける様を間近に見られるコース内側の平地で観戦するほうが好きだったのだ。


「地方の競馬場の状態は所有者にもよるから、こうはいかないのも当然だ」


 ビヴァリーをエスコートしてくれたギデオンは、ブレントリーには貴族や地主所有の競馬場のほうが多いため、ここほど手入れの行き届いたところはなかなかないだろうと言う。


 その通りだと頷きながら、ビヴァリーは眉をひそめた。


「グランド・スタンドだけ立派で、馬場が荒れているところもあります。馬たちが怪我をするので、ただ観ているだけの人間よりも、一生懸命走っている馬のためにお金をかけたほうがいいのに」


「ふむ。馬が怪我をして走れなくなれば、金儲けもできなくなるということに、気付いていない愚か者は多いようだな」


「大事にされなければ、馬だって言うことを聞きたくなくなるのに……」


「金に執着するものほど、価値がわからなくとも高価なものを手にしたがる。値が付けられないほど価値があるものを知らぬままに生きるのは、悲劇だ。が、まったく金に執着しないままでは、生きていけないのも事実だ。名馬の条件と同じで、もっとも大事なものはバランスだろう」


 瞬発力だけではダメ。持久力だけでもダメ。

 両方兼ね備えた馬こそが、強い。


 ただし、完璧なバランスを持つ馬はそうそういない。


「ハロルドは可愛げがない馬だが、素質はある。騎手と馬でバランスを取れば、いいレース展開に持ち込めるとは思わんかね? ビヴァリー」


 まるで、馬主が自分の馬を売り込むようだと思いながら、ビヴァリーはくすりと笑った。


「はい。お互いに助け合えると思います」


 ギデオンは、灰色の瞳をわずかに細め、目尻に笑い皺を刻んだ。


「見たところ、なかなかいい感じに仕上がってきているようだ」


 三日前に王都へ入ったギデオンは、王宮で色々と面倒事を片付けなくてはならなかったらしく、ハロルドとも会っているようだったが、ビヴァリーとアルウィンに会いに来たのはその翌日となる二日前だった。


 アルウィンは、自分を調教した恩師を忘れておらず、別の馬かと思われるほど行儀よく振舞って、ブリギッドや馬丁たちを驚かせた。


 軽くアルウィンを走らせたギデオンは、気になる癖や特徴についてビヴァリーが尋ねると、的確なアドバイスをくれた上で、些細な欠点はどんな馬にもあるし、アルウィンにはドルトン譲りの度胸と闘争心があるから大丈夫だと言ってくれた。


 ギデオンはジェフリーとブリギッドと共に晩餐を楽しんだ後、侯爵家のタウンハウスへ帰って行ったが、帰り際にラッセルが一度も被ることのなかったシルクハットを手渡してくれた。


 レースで絶対に被ると約束したが、サイズがやや大きかったので、テレンス経由でマーゴットに直しを頼むことにして、ちょっとした細工をお願いした。


 今日は、マーゴットもレースを観戦に来るというので、できあがったものを競馬場で渡してもらう約束になっている。


「ところで……本当に、その恰好で乗る気かね?」


 テーラードジャケットにロングスカート、さらにスカートの下に専用の男性用ズボンというビヴァリーの恰好を見て、ギデオンが顔をしかめる。


「レディの装いではあるが……騎手の装いではないだろう? ハロルドがうるさく言ったのでは?」


「いえ……あの……」


 グランド・スタンドにも人の姿が増え始めているのを見て、ビヴァリーは爪先立ちになるとギデオンの耳元で囁いた。


「……本番は、脱ぎます」


 ギデオンは僅かに目を見開いたものの「それが賢いやり方だろう」と頷いた。


 午後からのレースを前にして、ぞくぞくと増えて行く観戦客の様子を見下ろし、この混雑の中、マーゴットを見つけられるだろうかと不安になっていると、ギデオンが唐突に尋ねた。


「後悔しているかね? ビヴァリー」


 振り返ると、珍しく灰色の瞳を不安そうに翳らせている。


 何に対しての後悔か、ギデオンは言わなかったけれど、結局ハロルドが強引に結婚式を行うのに加担した形になってしまったことを気にしているのだろうと、ビヴァリーは感じた。


「いいえ。少しも、後悔していません」


 ビヴァリーがきっぱり言って微笑むと、ギデオンもほっとしたように微笑んで約束してくれた。


「もしも、後悔するようなことがあったなら、遠慮なく私に知らせるように。引退しても、駆け出しの若造を懲らしめるくらいはできる」


「はい」


 二人で頷き合っていると「ビヴァリーっ!」と呼ぶ声が聞こえた。


 見れば、グランド・スタンドの下でマーゴットが大きく帽子を振っている。


「友人かね?」


「はい。父さんの帽子を少し直してもらっていて……あの、できればギデオンさまと一緒に観戦させてもらってもいいですか? 人が多いし、テレンスさんが一緒じゃないので……」


 この混雑の中、マーゴット一人で観戦するのは危険なような気がしたビヴァリーは、ギデオンと一緒なら大丈夫だろうと思い、お願いしてみた。


「もちろんだとも。美しいレディと観戦する栄誉にあずかる機会を断るはずがない。しかし、テレンスとは……あの、テレンス・ロウワー軍曹のことかね?」


「はい。二人はもうすぐ結婚する予定なんです」


「ほほう。まさに美女と……」


 ギデオンは礼儀正しくその先は口にしなかったが、「軍曹は趣味がいい」と呟いた。


「私、そろそろ行きますね。ブリギッドさまたちは別行動だし、アルウィンが寂しがっているかもしれないので……」


 現在の国王一家は、レース開催前に馬車で入場することになっており、ブリギッドとジェフリーはアルウィンとビヴァリーには同行していなかった。


「厳しい戦いであればあるほど、勝利の喜びは増す。走ることを楽しみたまえ。負け馬のビリー」


 ギデオンが手を差し出したのでぎゅっと握るとぎゅっと握り返される。


(こんなマナーってあった……?)


 ビヴァリーが戸惑いながら見つめていると、手を離したギデオンは涼しい顔で告げた。


「キスは、勝利の女神がすべきものだ。楽しみにしているよ、ビヴァリー」


 

◇◆◇



 王家主催のレースが開催される四日間は、貴族や上流階級の人々が集うだけでなく、賭けにも競馬にも興味がない王都に住む労働者階級の人々もブレント競馬場にピクニック気分で押しかける。


 競馬場周辺には屋台が王都のメインストリート並みに建ち並び、大道芸人やにわか画家、占い師に食べ残しを狙う狐や犬猫なども出没し、静かな郊外の風景は一変、賑やかで騒々しいお祭り騒ぎが毎日繰り広げられる。


 グランド・スタンドを出て、マーゴットがいた場所へと向かったビヴァリーは、ごちゃごちゃと集まっている人の群れを見て一瞬怯みそうになったが、勇気を出して叫んだ。


「マーゴットっ!」


 人波が何かのお話のように割れるなんてことはなかったが、ひょこっと黒い帽子が人の頭を越えて突き出て、ヒラヒラと揺れた。


「ここよっ! ビヴァリーっ!」


 マーゴットがビヴァリーに応えて叫んだ瞬間、周囲の人々が一斉に振り向いた。


(な、なに……?)


「あんた、アルウィンの騎手か?」

「何だって? 女騎手か?」

「本物かっ!?」


 わっと取り囲まれ、揉みくちゃにされそうになって立ち竦んでいると、群がる人々を蹴散らして救いの主が現れた。


「ちょっと、どきなさいよっ! 野次馬どもっ! 散れっ!」


 マーゴットは、お尻の部分を膨らませた鮮やかな青のドレスを身に纏い、長い白の手袋をしていた。閉じてはいたが白い日傘なんかも手にしてちょっとした貴婦人といった装いだったが、その迫力はまるで場末の酒場の女将だ。


「ま、マーゴット……」


 半泣きになったビヴァリーがほっとしかけると、マーゴットは周囲の人々を睨みつけ、堂々と宣言した。


「ところであんたたち、ビヴァリーに賭けているんでしょうね?」


 馬鹿正直に首を振った男を見つけるなり、びしっと日傘の先を突きつける。


「ビヴァリー以外に賭けるのは、金をドブに捨てるようなものよ! ビヴァリーは――負け馬のビリーは、今まで一度もレースで負けたことがないのよ?」


「でも、一番人気はナサニエルの……」


 反論しかけた男を、ふふんと鼻で笑い飛ばしたマーゴットは、胸を張って言い返す。


「あら。でも、その『死神』はビヴァリーに負けているんだけど?」


 ざわめきが広がり、みんな慌ただしくポケットを探り始める。


「さっき、国王陛下たちの先触れの近衛兵の姿が見えたわ。そろそろ賭け屋も締め切るんじゃないかしらねぇ……?」


「ま、まだ間に合うだろ」


「急げば何とか……」


 一人がその場を離れると、数人が後に続き、なんとなく不安顏で顔を見合わせていた人々も各々が贔屓の賭け屋へ向かって走り出す。


 あっという間に野次馬たちを追い払ったマーゴットは、ビヴァリーの頭に手にしていたシルクハットを被せた。


「あら……ちょっと直したほうがいいかも」


 赤い唇に指を添え、「どこか邪魔にならない場所はあるかしら?」と尋ねる。


「アルウィンたちがいるところなら……」


 出走馬を待機させる厩舎の傍には、騎手たちが控え室として使える小さな小屋がある。


 馬主自身が騎乗する場合は、そこではなく貴族たちが食事やお茶、ワインなどを楽しめるレストランで優雅にのんびり過ごすため、さほど混み合わないと聞いていた。


「それにしても、すごい人出ねぇ……まぁ、目の前で国王さまたちを見られるというのもあるんでしょうけど……」


 グランド・スタンドのちょうど裏手側にある厩舎から、第一戦へ向かう馬たちが曳き出されて行くのが見えた。


「先に、アルウィンに会ってもいい?」


「私も会いたいわ。大金賭けたんだから!」


 ずらりと並ぶ馬たちの中、ビヴァリーの姿を見つけたアルウィンが「撫でろ」と言うように顔を突き出すのを見て、マーゴットが苦笑した。


「何だか、偉そうなところが偽物天使様みたいね?」


「ふふ……たぶん、お互い似ていると言われるのが嫌だと思うけど」


「自分を見ているようだからでしょ」


 マーゴットの指摘に、アルウィンは不服そうに鼻を鳴らしたが、ビヴァリーが落ち着かせるために角砂糖を差し出すとすぐに機嫌を直す。


「餌に弱いところもそっくりね……」


 否定できないと思いつつ、ビヴァリーはまたあとで来るとアルウィンに約束して、離宮から付き添ってくれている馬丁に引き続き、世話を頼んだ。


 騎手用の控え室には、第二戦へ出る騎手の数名がいたが、気軽に話しかけられるような雰囲気ではない。


 小屋のドアは開け放たれたままだが、念のため二つあるテーブルのうち、入り口近くに座った。

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