第49話 ゴールの先に待っているもの 3
テレンスと共に、雑事を片付けて何とかビヴァリーのレースが始まる前にブレント競馬場に向かったハロルドは、天蓋を開けられるタイプの馬車にしてよかったと心の底から思った。
どう考えても、テレンスの体積は馬車の中に収まらない。
膝を突き合わせるどころか、交互に足を入れなければ座席に横になって乗るしかない状況だった。
しかも、軍服ではないテレンスは異様な迫力がある。
黒のモーニングコートにグレーのタイ。グレーのズボンに鮮やかな青のウェストコート、黒のトップハットという正装姿だが、上流階級の装いというより裏社会の元締めのような有様だ。
「少佐。すべてのレースが終わるまで待って、本当によろしいのですか?」
さっさと片付けたほうがいいのではないかと言うテレンスに、ハロルドはニヤリと笑った。
「ああ、その方が劇的だろう? 有頂天になっているところを叩き落とすほうが、すっきりする」
マクファーソン侯爵とバルクール担当官を拘束する手筈は既に整っているが、実行するのは三日後。王家主催のレースがすべて終わった後の祝賀会前となった。
もちろんハロルドの独断ではなく、国王、コルディア担当大臣、陸軍大臣が検討した結果だ。
王宮にのこのこやって来たところを捕えるほうが、手間も少なく効率的。王宮警備にかこつけて、兵士を多めに配置しても不自然ではない。
侯爵領まで出向いたり、タウンハウスに踏み込んだりするより、逃げられる可能性は低い。
「しかし、レースで負けた者は納得しないのではないでしょうか。買収の有無を抜きにしても、マクファーソン侯爵の馬はほとんどが一番人気です。その上、『死神』の出るレースでは事故も多い。何かあった場合、着順に異議が出るのでは?」
テレンスは、最初からマクファーソン侯爵の馬が出走していなければ、優勝できたかもしれないと文句が出るだろうと太い眉をしかめた。
「買収されていようがされていまいが、勝てなかったという事実に変わりはない。文句を言えば負け犬の遠吠えと思われるだけだ。小細工については、『死神』の噂を知っている者なら警戒しているはずだし、王家主催のレースで走行中に不自然なことがあれば調べられる。地方競馬のようなわけにはいかない。それに……優勝するのは別の馬だ」
「は? 少佐…………お告げでもありましたか?」
ハロルドは、声を潜めて顔を寄せてきたテレンスを押し退けた。
「そんなものはないっ! マクファーソン侯爵の馬は血統も成績もいいもの揃いだが、ほとんどナサニエルが騎乗している。騎手が変わっても同じように勝てるとは限らない」
「少佐が、一度敵と認定した相手には、容赦なく悪どい手をお使いになることを知らない人間が多すぎますな。しかし、少佐の命令とあらば、必ずや完遂してみせましょう。で……いつヤりますか? 『死神』を」
ボキボキと白い手袋をした手を組んで指を鳴らすテレンスこそ、極悪非道に見える。
ハロルドは、声を押し殺して叫んだ。
「誰も殺すとは言ってないだろうっ!」
「では、締め上げるのでしょうか? 指ではバレますので、足の指を二、三本折れば……」
「そんなことをしなくとも、ナサニエルを降ろすことはできる」
ハロルドは、王宮の地下牢で次から次へとマクファーソン侯爵家の秘密を暴露している従僕夫妻から聞いた、ある興味深い話を利用するつもりでいた。
「マクファーソン侯爵とナサニエルの接点を見つけた」
「は? 接点ですか?」
現在から過去まで、知りうる限りのマクファーソン侯爵家での出来事を喋り続けていた二人は、今日からブレント競馬場でのレースが始まると聞くと、馬と聞いて思い出したことがあると言い出した。
「今も昔も、赤ん坊を抱えて侯爵家の屋敷を訪ね来る若い女は珍しくもないようだが、冬の夜、厩舎に赤ん坊を置き去りにした女がいる」
「……つまり」
「女は、侯爵家で働いていてた使用人の一人だ」
「知っていて……利用しているということですか?」
「マクファーソン侯爵のほうは知っているだろうが、ナサニエルはどうだろうな?」
「少佐。……時々、少佐が悪魔のように見えます」
「黙っていても、マクファーソンとバルクールの運命は変わらない。沈みゆく船から逃げ出すか、心中するかを選ばせてやるんだ。悪魔じゃなく天使と言え」
ハロルドに睨みつけられたテレンスは、背筋を伸ばして敬礼した。
「はっ! 慈悲深い天使の少佐は、なぜ敵にそんな情けをかける気になったのでしょうか?」
「厩舎に置き去りにされた赤ん坊を見つけたのは、ビヴァリーの父親だ」
テレンスは目を見開くと、大きく頷いた。
「なるほど……少佐は、確かに天使ですな。ビヴァリーの前だけでは」
◇◆◇
ブレント競馬場周辺は、馬車や人でごった返していたが、すでにレースが始まっているためか、身動きが取れなくなるほどではなかった。
馬車を降りたハロルドは、一旦テレンスと共にギデオンがいるはずのグランド・スタンドへ向かおうとしたが、その入り口前で、血相を変えたマーゴットに出迎えられた。
「遅いっ!」
「いや、十分間に合っているだろう?」
賭け屋が結果を叫んでいたのは終わったばかりの第二戦。次の第三戦までは、しばらく猶予があるはずだと言い返すと、「間に合ってない!」と噛みつかれた。
次は引っかかれるような気がしたので、テレンスに目配せして黒猫の対応は任せることにした。
「どうしたんだ? マーゴット。ビヴァリーに何かあったのか?」
「いないのよ」
「いない……?」
「気取った従僕に呼び出されて、それっきり、戻ってこないのよっ! 馬丁に帽子を預けてたんだけど、第二戦が始まってもビヴァリーが来ないと知らせにてきて……」
マーゴットは手にしていた日傘で地面を滅多刺しにした。
「何であのとき、止めなかったのかしらっ!」
「すでに探させているんだろう?」
念のためテレンスが確認すると、当たり前だと睨まれる。
「ギデオンさまが妃殿下たちに知らせてくれて、今、近衛兵に命じて探させているんだけれど、あまり大っぴらにすると騒ぎになるから……」
聞き込みをしようにも、人が多すぎて逆に誰もはっきりと見ていないのだとマーゴットは項垂れた。
「マーゴットは、従僕の顔を覚えているか?」
「覚えているけれど、服を着替えれば簡単に従僕じゃなくなるわ。一体この競馬場に何人いると思っているのよっ!?」
泣きそうな顔で叫ぶマーゴットに、テレンスがその手を取って優しく宥める。
「落ち着いて、ゆっくり考えるんだ。何か思い出せることはないか?」
「グランド・スタンドに来てほしいと言っていたことしか……」
「とにかく、あらゆる場所を探すしかないな」
ハロルドは、予想以上に愚かなことをしでかす相手に、舌打ちした。
国王も観戦する競馬場で、あからさまにビヴァリーに手を出してくるとは思っていなかった。
こんなことが発覚したら、真っ先に疑われるのはマクファーソン侯爵だろうと思いかけ、ふと本当にそうだろうかと考え直した。
替え玉を使ってまでラッセルたちの殺害を巧妙に隠蔽し、複雑な手順を踏んで競走馬たちを輸送したことなどを考えると、マクファーソン侯爵にしては計画がやや粗い。
そもそも、ビヴァリーとアルウィンが出走しなかったところで、自分の馬やナサニエルが故障すれば、勝てない。
買収しようが、脅迫しようが、必ず優勝できるとは限らないことは、わかっているはずだ。
レース前日までに何か仕掛けてくるならまだしも、今日、このタイミングでこんな愚かな真似をするだろうか。
「少佐?」
「あ、ああ……とにかく、探すしかない。まだ時間はある」
テレンスに、マーゴットと共に不審な馬車の出入りがないかを確かめるよう頼み、ハロルドはまず厩舎へ向かった。
厩舎には、ブリギッドとジェフリーが来ており、馬装を整えたアルウィンを曳き回し、ゆっくり歩かせていた。
「ブリギッド妃殿下!」
「ハロルド!」
「マーゴット……ビヴァリーの友人から話は聞きました」
「アルウィンの準備は私がします。とにかく、早く探し出すしかありません」
第三戦へ向かう馬たちが軽く走ったりしている様子を見て、ブリギッドがきっぱり言うと、ジェフリーが目を見開いた。
「え、いや、ブリギッド……その恰好では……」
ブリギッドは、動き回るのにも差し支えのないシンプルなロングスカート姿だったが、乗馬用の服装とは言い難い。
「大丈夫です。履いていますから」
「ブリギッドっ!?」
ひらりとアルウィンに跨ったブリギッドは、裾を持ち上げてみせた。
乗馬ブーツに男性用ズボンをしっかり履いている。
「……今日は、観戦に来たんだと思っていたんだが?」
ジェフリーが額を押さえて目をつぶると、ブリギッドは肩を竦めた。
「観ていたら乗りたくなるかもしれないと思ったのです」
「乗りたくなっても乗らないでほしい……」
ジェフリーがぼぞっと呟くのを完全に無視して、ブリギッドはハロルドを見下ろして冷ややかに告げた。
「ビヴァリーがどうしても見つからなければ私が乗りますが……ブレントリーの英雄は、そんな役立たずではないと信じています」
一緒に見下ろすアルウィンも主そっくりの眼差しで、「さっさと見つけろ」と言っていた。
とにかく、何か手掛かりはないかと、ハロルドは馬房や騎手たちの控え室などを覗いてみたが、それらしきものは何もない。
騎手たちにも話を聞いてみたが、マーゴットと同じく従僕が呼びに来たことしかわからないと言う。
グランド・スタンドへ連れて行かれたのなら、誰かに会っている可能性は高いが、ギデオンもジェフリーたちもそれくらいは確認したはずだ。
競馬場から連れ去られていたら、レースまでに見つけるのは難しくなる。
「……ビヴァリー」
厩舎からグランド・スタンドを見上げてぽつりと呟いたとき、低い笑い声が聞こえた。
「負け馬が消えたそうだな? 逃げ出すほうを選んだんだろう」
振り返ると、第二戦で勝利を収めたナサニエルがいた。
黒一色の装いは『死神』の名にふさわしく、黒い瞳は敗者を見下す暗い喜びに満ち溢れている。
「ビヴァリーは、逃げ出したりしないし……おまえのように卑怯な手を使わなければ勝てない腑抜けでもない」
ハロルドの言葉に、ナサニエルの笑みが消えた。
「卑怯な手? 言い掛かりはやめてもらいたいものだ。レースでは、何が起きても不思議ではない。少なくとも、俺は場外で相手を刺し殺したり、殴り倒したりしたことはない。常に、馬場の中でだけ、戦っている。勝つために手段を選ばないのは、お互い様だ」
「そんな世迷言を信じているとは、おめでたい男だな」
ナサニエルはさっさと背を向けようとしたが、ハロルドが嘲ると足を止めた。
「今まで、自分の実力だけで勝ち続けていたと本気で思っているのか? 接触や落馬は事故かもしれないが、買収は事故じゃない」
「何が言いたい……?」
「このまま、マクファーソン侯爵の犬として心中するか、鎖を噛み千切って野良犬の自由を味わうか、よく考えたほうがいい」
「犬だと……?」
怒りに顔を歪めるナサニエルに、ハロルドは畳みかけた。
「レースにまつわる不正をなすり付け、ただの捨て駒として利用するような父親に義理立てする必要がどこにある?」
怒りで赤らんでいた顔から血の気が引き、ナサニエルは大股にハロルドへ歩み寄ると襟を掴み上げた。
「……一体、何の話をしている? いくら伯爵でも、滅多なことを口にすれば相応の報いを受けるぞ」
押し殺した声で脅すナサニエルに、ハロルドはあざけりの笑みを返した。
「おまえの母親とおまえを探し回っていたとでも言われたか? 詫びのしるしに金でも積まれたか? 義妹は身分など関係ないと口先だけの優しさを見せたか?」
「黙れ……」
「冬の夜、ある女が赤ん坊を抱いてかつて働いていた侯爵家を訪ねたが、門前払いを食らい、赤ん坊を厩舎に置き去りにした」
怒りと憎しみで燃え上がっていた黒い瞳に、わずかな揺らぎが見えた。
ハロルドは、マクファーソン侯爵家に潜り込ませた諜報員が、先代から侯爵家に仕えている家令から聞き出した話を続けた。
「御者をしていた男が見つけて家令に報告したところ、侯爵は『処分しろ』と言ったそうだ。だが、御者の男は命令に従わずにこっそり赤ん坊を孤児院へ連れて行き、家令にだけ真実を話し、死ぬまで沈黙を守った」
緩んだナサニエルの手を引き剥がし、ハロルドはその胸を拳で叩いた。
「その御者の男は……ビヴァリーの父親だ」
青白い顔をして立ち尽くすナサニエルは、『死神』ではなく、ただの人間だった。
「この先、ブレントリーを離れ、ただ馬と一緒に生きたいというのなら、コルディア行きの船に乗れるよう手配してやる」
「……そんな話を信じられるか」
ナサニエルが自嘲の笑みを浮かべる。
「信じようが信じまいが、おまえの好きにすればいい。だが、グラーフ侯爵の名にかけて、約束は守る。決心がついたら、知らせろ。ただし、どんなに早くとも次のレースを戦ってからにしてくれ。ビヴァリーは不戦勝を喜ばない」
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