第19話 必要なものは、馬車じゃなく馬です 1

 目が覚めたとき、ハロルドはまだ夢の中にいるのではないかと思った。


 腕の中に柔らかい身体があり、見下ろすとチョコレート色の髮が見えた。

 しかも……抱きかかえていた手を這わせると滑らかな肌を直に感じる。

 裸だった。


 ビヴァリーも、ハロルド自身も。


 心の底にある願望が見せる幻かと思ったが、カーテンの隙間から差し込む光と静けさに朝の訪れを知り、昨夜の嵐のようなひと時を思い出して、呻いた。


「…………」


 いつ眠りに落ちたのか記憶はないが、ほの暗いベッドの上に浮かび上がる白い裸体は脳裏に焼き付いている。


 キスをして、それから……。


 すすり泣くビヴァリーの姿を思い出したところで、ハロルドはベッドから起き出した。


 士官学校時代の習慣で、機械的に床やソファに散らばっていた服を拾い上げて素早く身に着け、テーブルの上に転がる空になったワインの瓶を睨みつけて、震える拳を握りしめた。


(最悪……最低だ)


 ジェフリーに偉そうに説教した自分を殴り倒したかった。


 士官学校では、いずれ軍の機密、国の機密にかかわる地位に就くことを想定し、世間に出回っている怪しい薬の主だったものは味を覚えさせられる。


 いわゆる『色仕掛け』についても訓練があり、媚薬やその効果と対処法についても学ばなくてはならなかった。


 昨夜、ビヴァリーが用意したワインを飲んだハロルドは、一杯目で何かがおかしいと確信し、二杯目で媚薬ではないかという疑いを抱いた。


 ただ、さほど強力なものではなかったので、ビヴァリーを部屋から追い出して、時間が経つのをじっと待っていればそのうち治まっただろう。


(でも、そうしなかった……しかも……)


 愚かな自分に腹が立って、壁を殴りつけようとしたとき、控えめなノックの音がした。


「……ハロルド?」


 ジェフリーの声だった。


 拳を下ろして深呼吸してから扉をわずかに開く。


「どうかしましたか? 殿下」


 昨夜泥酔していたとはとても思えぬすっきりした表情のジェフリーは、琥珀の瞳に鋭い光を浮かべ、顎を上げて命ずる。


「どうかしたのは、おまえだろ。入れろ」


「今、起きたばかりなんです。あとで部屋に行きます」


「いいから、入れろ」


「…………」


「入れたくない理由でもあるのか?」


 ジェフリーは、有無を言わせぬ眼差しでハロルドを睨んだ。


 知られていることに驚いて固まったハロルドを押し退けようとしたジェフリーは、「おはようございます」と呼びかける声に手を止めた。


「昨夜はひどい嵐でしたが、お二人共よくお休みになれましたか? 殿下に寝酒をお届けするよう侍女に命じたものの、眠れないのではないかと心配だったのです」


 形だけは清楚に見える淡い水色のドレスを纏い、侍女を従えてギャラリーのあるほうから歩いてくるコリーンは、美しい笑みを浮かべていた。


「おかげですっかり熟睡したよ。ただ、ブリギッドは昨日雨に打たれたせいか、疲れが抜けていない。朝食は私の部屋で一緒に取りたいのだが、運んでもらえるだろうか?」


 ジェフリーは先ほどまでの剣呑な雰囲気をガラリと変え、王子様らしい美しい笑みを返した。


「もちろんですわ。妃殿下の身支度をお手伝いする侍女も向かわせますわね? ところでハロルドさま。昨夜、私の侍女が妃殿下の騎手にどうしてもと頼まれて、よく眠れる薬を用意したようなのですけれど、効果のほどはいかがでしたか?」


 ジェフリーからハロルドへ視線を移したコリーンの赤い唇には、歪んだ笑みが浮かんでいる。


 その後ろに付き従う侍女は、青い顔をして視線をさまよわせていた。


 ハロルドは、『よく眠れる薬』の出どころを知り、歯ぎしりしたくなるのを堪えてどうにか返事をした。


「とてもよく眠れました。お礼を申し上げたいくらいです」


「ワインと一緒にお楽しみいただけましたか?」


「……」


「コリーン嬢。ハロルドの分も私の部屋へ運んでもらえるだろうか。給仕は必要ない。寛いで食べたいのでね。ブリギッドの身支度だけ頼みたい」


 ハロルドが何か言う前に、ジェフリーが話をまとめた。


「畏まりました、殿下」


「ブリギッドの体調も心配なので、我々は朝食後すぐに発つつもりだ。そのように準備してもらえると大変ありがたい」


「はい。父にもそのように伝えます。では……失礼いたします」


 わずかに開いた扉の向こうを見透かすような目で一瞥したコリーンが、ゆっくりと階段を下りていき、視界から消えるなり、ジェフリーはハロルドを突き飛ばすようにして部屋へ踏み入った。


 後ろ手にしっかり扉を閉め、毛布から覗いているチョコレート色の髮を見遣り、溜息を吐く。


「今朝、さっきの侍女がビヴァリーが割り当てられた部屋に戻っていないようだと教えてくれた。自分が昨夜、ビヴァリーに渡したものについても」


 マクファーソン侯爵家よりも、ジェフリーやブリギッド、ビヴァリーのことを案じてくれた侍女には感謝するが、昨夜運んだワインをビヴァリーに渡さず、どこかに捨ててくれればよかったのにとハロルドは思わずにいられなかった。


「今すぐビヴァリーを叩き起こして身支度を整えさせろ。ブリギッドには、私が話す。誰にも、何も言わないよう十分言い聞かせてから、連れて来い。抵抗するようならば、おまえではなく私に媚薬を盛ろうとしたかどで処分すると伝えろ。いいな?」


「……ジェフっ!」


 反論しようとしたハロルドに、ジェフリーは声を落として続けた。


「コリーンは、俺に眠くならない寝酒を運ばせ、あとから夜這いするつもりだった。だが、俺が部屋にいなかったので、侍女は困り果ててビヴァリーに相談し、ビヴァリーはすでに酔いつぶれていた俺ではなく、おまえに飲ませた。マクファーソン侯爵の耳に入ることも計算済みだろう。おまえに言い逃れされても、間違いなく醜聞を広めるだろうからな」


 ハロルドが否定できずにいると、ジェフリーは床に落ちたままのビヴァリーの質素なワンピースを見下ろして、命じた。


「せっかくブリギッドが心を許し始めていたことを思えば手放すのは惜しいが、信用のおけない人間を傍におくわけにはいかない。ある程度の口止め料を支払うのは仕方がないとしても、おまえの未来まで支払う必要はないだろう。王都へ戻り次第、当初の予定通り契約は終了させて、二度と関わり合いになるな」


 ジェフリーの考えは、ブレントリーの貴族にとっては当たり前の考えであり、未来に起きる面倒事を回避するためにはそうすべきだった。


 だが、そんな無責任なことはハロルド自身到底許せることではなかったし、祖父ギデオンもまた許さないだろう。


「そんなことは、できない」


「ハロルド。『ビリー』はもういないんだ。目を覚ませ」


「……結婚する」


「は? 何を馬鹿な……」


 あり得ないと呆れた表情をするジェフリーに、ハロルドは自嘲の笑みを返した。


「馬鹿なのは、俺だ。酒に酔っていたとは言え、自ら罠に飛び込んだんだ。責任は取るべきだ」


「ハロルドっ!」


「ん……ハ……ル……」


 ハロルドの肩を掴んで揺さぶり、大きな声を上げたジェフリーは、ビヴァリーが身動ぎする気配でハッとしたように口をつぐんだ。


 そのまましばらくじっとしていたが、ビヴァリーが起きる気配がないことを確かめて、押し殺した声で叱責する。


「冷静になれ、馬鹿っ!」


「嫌と言うほど、冷静だ」


「侍女は、俺にワインを運んできたとビヴァリーに告げているし、どういう効果があるかも教えたと言っている」


「……媚薬入りだってことは、途中で気が付いた」


「だったら……」


「ビヴァリーは、多分わかっていなかったと思う」


「は?」


「初めてだったんだ」


「…………」


 昨夜の一部始終を話す気にはとてもなれなかったが、ビヴァリーに誘惑するつもりなど欠片もなかったことだけは、確かだ。


 自分が何をしようとしているのかわかっていたら、あんなにうろたえることはなかったはずだ。


「真相がどうであれ、自分がしたことに言い訳はしたくない」


 ハロルドは、ブレントリー王国において、大概の無理は通せる立場にいる友人に今最も必要としているものを頼んだ。


「特別結婚許可書を用意したい。融通を利かせてくれないか? ジェフ」


 ジェフリーは、大きく息を吸ってゆっくりと吐き出した後、驚きや怒りや失望や、色んなものをすべて整えられた無表情の下にしまい込んで問い返した。


「……いつ?」


「王都へ戻ったらすぐに。グラーフ侯爵領でと考えているが、祖父が万が一反対した場合は、別の場所で式を執り行う必要がある」


 ギデオンは、身分や年齢を超えた親友であったラッセルの娘を粗末に扱うなど、絶対に許さないだろうが、次期侯爵夫人として迎え入れる気があるかどうかはわからない。

 

「侯爵領で式を挙げられなければ、どこか近隣の教会で頼むつもりだ。王都では目立ちすぎる」


 ビヴァリーの存在を隠し通せるとは思わないが、何の根回しも準備もできていない状態で、猛獣の巣食う社交界に放り出すわけにはいかなかった。


「戻り次第、大司教に頼もう」


「恩に着る」


「それから……仕立屋も必要だな」


 なぜ仕立屋が必要なのだとハロルドが問うような眼差しを向けると、ジェフリーは溜息を吐いた。


「まさか、乗馬服で祭壇の前に立たせる気か? まぁ……おまえが馬の恰好をするというのなら、お似合いだとは思うがな」

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