第2話 危険な馬には、近づかないで 1
春から初夏へと移る一歩手前。ブレントリー王国の王都ルドカールのやや北西にあるギーニー競馬場の周辺は、日々温もりを増す日差しに誘われ、戸外へ繰り出した人々でごった返していた。
着飾った上流気取りの資産家を乗せた二頭立て馬車(キャリッジ)やつぎはぎだらけの服を着て、穴の開いた靴を履いた落ちぶれた人々などが、競馬シーズンの始まりを告げるレースを観戦するためにぞくぞくと詰めかけている。
王族がお出ましになるような由緒正しい競馬場ではなく、しかもどちらかというと中流階級や貴族にはなれない地方地主などの、いわゆる貴族ではないが金はあるという資産家たちが馬主のレースが主体とあって、客層はあまりよろしくない。
ビヴァリーは、擦り切れた薄茶色のツイードのハンチング帽を目深にかぶり、つぎはぎだらけの色あせたジャケットのポケットに手を突っ込んで、早くも酔っ払っているギャンブル狂やしつこく手を伸ばしてくる賭け屋の呼び込みを避けながら、足早に歩いていた。
呼び込み合戦を繰りひろげる賭け屋のほかにも、ビールらしきものや何の肉かわからない串焼きを出す屋台に怪しげな占い師までが店を連ねる通りの中ほどでは、異国情緒漂う衣装に身を包んだ女性が身をくねらせて踊る様子に、男たちが鼻の下を伸ばしている。
通りの一番端までやって来たビヴァリーは、髪も髭も生やしっぱなしの痩せた男が、咳き込みながらどの馬に賭けるべきかと売り子に尋ねているのを見て、後ろから肩を叩いた。
「ねぇ。買うなら、『エンプレス』にしなよ」
「……?」
ぽかんとしている男に、にっと笑って見せる。
「絶対勝つから」
「でも、負けて……ばかりの馬だろう?」
黄ばんだハンカチで口元を押さえながら男は、眉をひそめた。
エンプレスは、今までレースで優勝したことはなく、しかも今回が最後のレースになるという噂もあるせいで、倍率が高い。他の賭け屋も似たようなものだ。みんな負けるだろうと見ている。
でも、ビヴァリーはエンプレスが必ず勝つと知っていた。
「乗るのは『負け馬のビリー』だからね。必ず勝つよ」
初心者に違いない男も、その名は聞いたことがあるらしく目を丸くした。
二年ほど前から、ブレントリー王国の競馬界ではレースに勝てない馬ばかりに乗る『負け馬のビリー』と呼ばれる一風変わった騎手の存在が囁かれるようになっていた。
ビリーは、勝てない馬を持つ馬主や厩舎にふらりと現れては、次のレースで勝ったら儲けの一割と馬を貰う約束で、自ら騎乗させてくれと言う。
馬主や厩舎の所有者たちは、うさんくさいと思いながらも、最後にひと儲けできるかもしれないとダメもとで要求を呑み、次のレースに出走させるのだが、今までさんざん勝てなかった馬が優勝するという奇跡を目の当たりにすることになる。
これならその次もと馬主が欲を出しても、ビリーは決して頷かない。金と馬を貰って、あっさり姿を消してしまうため、その正体は謎に包まれたままだ。
「だが、単なる眉唾ものの噂じゃ……」
疑いの眼差しを向ける男に、ビヴァリーは苦笑して自分を指さして見せた。
「本物がここにいるよ」
「え?」
「大金持ちになったら、あんたの娘に美味しいケーキやきれいなドレスを買ってやりなよ」
再び咳き込みだした男がまるで特効薬であるかのように握りしめる、黄ばんだハンカチの隅に刺繍されたいびつな薔薇を見て、ビヴァリーは微笑んだ。
「誰だって、人生で一度くらいは幸運に恵まれてもいいはずだからね」
◇◆◇
「そいつは、神経質で馬込みを嫌がるから」
「最初から飛ばしたほうがいい」
「慣れない乗り手は振り落とすぞ」
馬場へ向かう途中、馬主や調教係などがあれこれ言うのを聞き流し、本日の相棒である美しい葦毛の牝馬――エンプレスの首筋をゆっくり撫でて、ビヴァリーは黒いつぶらな瞳を覗き込んで囁いた。
「あいつらの言うことは聞かなくていいよ。準備はいい?」
エンプレスは、少し落ち着きがないようだが、状態は悪くなかった。
のんびりと穏やかな性格でも、競走馬として生まれた以上、闘争心はあるはずだ。競り合うのを嫌がるように見えるのは、思うように走らせてもらえないからかもしれない。
『乗り手は、馬がうまく走れるようにちょっとだけ手助けする存在だ。間違っても、思い通りに操ろうと思ってはいけない』
馬場への入り口で、馬へ注ぐ愛情よりも要求のほうが多い馬主の手を離れると、心に刻んでいる亡き父の言葉を思い出し、ビヴァリーはいつものように呟いた。
「今日で勝ったり負けたりの勝負は終わりだからね。存分に楽しもう」
大きく頷く馬の首筋を軽くさすり馬場へ入ると、既にロープ前でうろつく数頭の馬たちの姿があった。
各騎手は事前に登録した色鮮やかな服を纏っており、ビヴァリーも馬主が用意した赤いジャケットを着ている。普段はとても着れない派手な色は、気分を高揚させてくれる。
しかし、目に鮮やかな色ばかりの中、一点の染みのごとく全身真っ黒な装いの騎手を見つけて、ビヴァリーは眉をひそめた。
ナサニエルは、昨年いくつもの大きなレースで優勝をかっさらったが、常に黒い衣装を身に着けていることと、ナサニエルが出るレースでは落馬や転倒による死者がよく出るということから、「死神」と呼ばれていた。
今日ナサニエルが騎乗する馬は、先日のレースでも勝っていて、一番人気だ。最大の敵と言ってもいいが、序盤から競り合うつもりはない。
出走馬が出揃うのを待って、一番後から大外へ位置を取る。
いつものように深呼吸して、息を止めた瞬間。
馬たちの胸元にピンと張られていたロープが跳ね上がった。
やや出遅れたが、つまずいたわけでもないし、焦る必要はないと判断し、馬なりで最初のコーナーを曲がる。
二つ目のコーナーに差し掛かるころには先頭との距離はだいぶ開いていたが、ナサニエルの馬も二馬身ほど前を走っており、抑え気味だ。
今までのレースで最後尾を走ったことのないエンプレスは、「いいの? まだいいの?」と言いたげに耳をピクピクさせて指示を待ちながらも、気分よく走っている。
コースは、一見平坦に見えるが最初は上り、途中緩やかに下ってゴールまでの直線を再び上り続けることになる。三つ目のコーナーを回って、徐々に勾配がきつくなり始めると先頭の馬たちのペースが落ちてくる。
四つ目のコーナー手前でナサニエルが鞭を入れた。
「付いていくよ」
ビヴァリーが一声かけると、ナサニエルたちの左後方にぴたりと付いたエンプレスの歩幅が、ぐんぐん伸びていく。
しきりに鞭を入れながら前の馬をかわしていくナサニエルの背を追い、様子を窺っていたビヴァリーは、ナサニエルたちが先頭の馬を捉えた瞬間、手綱を絞った。
ハミを噛ませて、一度だけ手綱をしごくともう一段加速する。
「抜けっ!」
力強く躍動する『エンプレス』の動きにぴたりと身体を合わせ、ナサニエルが馬体をこちらへ寄せる前に抜き去ると、目の前にはもう誰もいない。
遮るものが何もない、広い空間を全身に風を受けて走る快感に堪え切れない悦びが溢れ、思わず笑みがこぼれる。
爽快な気分を味わいながらゴール板の横を駆け抜け、手綱を緩めた。
エンプレスは、すっかりご満悦の様子で軽快に馬場を巡り、観客の称賛を楽しんでいるようだ。
「やったね!」
軽く首を叩き、狂喜乱舞している様子の馬主たちの元へゆっくりと戻る。
降りるなり、ビア樽のような馬主に抱きしめられ、窒息寸前になりながら苦笑していたビヴァリーは、突き刺さるような視線を感じた。
振り返った先には、少し離れた場所からじっと見つめているナサニエルがいた。
青白い顔には何の表情も浮かんでいなかったが、その眼差しには単なる嫉妬では片付けられない暗く激しい炎が燃え上がっている。
もしも、視線だけで人を殺せるなら、間違いなくビヴァリーは滅多刺しにされていただろう。
「いやぁ、それにしても素晴らしかった! あの『死神』に勝つとは!」
しばし凍り付たビヴァリーだったが、上機嫌の馬主に揉みくちゃにされている間に、ナサニエルの姿は消えていた。
(できれば、二度と会いませんように……)
競馬に関わる場所にいる限りは無理だとわかっていても、ビヴァリーはそう願わずにはいられなかった。
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