第4話 可愛げのない馬は、天使だった 1
木々の葉が緑を濃くする真夏の昼下がり。
退屈な家庭教師の授業を終えるなり、ビヴァリーは黄ばんだシャツに接ぎの当たったスボンを履き、長い髪をツイードのハンチング帽に押し込めると、よく手入れされた乗馬用ブーツに足を入れ、館を抜け出した。
母に見つからぬよう、小さな庭の茂みを全速力で突っ切って、息を切らしながら父のラッセルが働く厩舎へ辿り着き、お目当ての馬の姿を馬場に見つけて微笑んだ。
(とっても綺麗……)
昨日の夕方やって来たばかりの牡馬は、想像以上に美しかった。
額に白い星があり、細い脚の先だけが白い。輝くような黒鹿毛の馬体は動くたびに美しい筋肉が波打っている。
体高は、十三歳にしては背の高いビヴァリーより、少なくとも頭一つ分は高いだろう。
競走馬として育てられるはずだったが、あまりにも気性が荒くて調教すらできないと言う地方地主から安く貰い受けたらしい。
でも、ビヴァリーの目には気性が荒いというよりも、気位が高いだけのように見えた。
警戒する素振りはみせないものの、漆黒の瞳は値踏みするようにビヴァリーの様子を窺っている。
「ビヴァリー。ちゃんと勉強は終えたんだろうな?」
ひらりと柵を飛び越えて、足を止めたラッセルの元へとゆっくり歩み寄るとビヴァリーは肩を竦めた。
「何を言っているのかよくわからない詩を二十回も暗誦したよ。父さん」
顔をしかめて確認する父は、曳き回すだけでもかなり手こずったのだろう。すっかり汗まみれで、シャツには藁だけでなく泥まで付いている。
貴族らしくしなさいと、身だしなみにうるさい母デボラが見たら卒倒しそうだ。
今朝も、これからは社交界での付き合いも必要だからお茶会を催すべきだと詰め寄るデボラに、ラッセルはうんざりした様子でぼやいていた。
『貴族ねぇ……ちょっと競馬で儲けただけで、うっかり貰ってしまった爵位だ。どんなに気取ってみても、しょせん中身は馬好きの平民なんだけどなぁ』
自由奔放に過ごしていた日々から一転して、窮屈な毎日を送らなくてはならなくなったビヴァリーも、父と同感だった。
ビヴァリーの父ラッセルは、生粋の貴族ではない。
五年前までマクファーソン侯爵に御者として仕え、厩舎で馬の世話をしたり、侯爵が所有する競走馬の調教をしたりして暮らしていた。
祖父の代からマクファーソン侯爵に仕えていて、何事もなければラッセルも同じように一生仕えるはずだった。
ところが、先代のマクファーソン侯爵が亡くなり、跡を継いだ嫡男のチャールズがレースで勝てない馬を処分するよう命じたことに従わなかったせいで、クビになってしまった。
職を失い、住む場所も追われ、家族共々路頭に迷いかけたところをグラーフ侯爵ギデオンに拾われたのは、幸運な偶然以外の何物でもない。
ギデオンは、ラッセルが調教した馬がレースで勝つのを何度も見たと言い、ぜひとも自身が所有する競走馬専用の厩舎の責任者になってほしいと言ってくれた。
ラッセルは深くギデオンに感謝し、種付けや訓練などあらゆることに試行錯誤を重ねて常に技術を向上させ、次々と優秀な競走馬を送り出した。
昨年、そのうちの一頭が王家主催の由緒あるレースで一着を取り、ラッセルはようやくギデオンに恩返しが出来たと喜んでいたのだが、そのことがきっかけで、ビヴァリーたち家族の日常は変わってしまった。
国王から直々に祝福を受けた馬主のギデオンは、賞金とは別に国王から与えられる褒賞として、勝利に貢献したラッセルに爵位を賜るよう求めたのだ。
しかも、自身が所有していた競走馬の厩舎をラッセルに譲り渡した。
ラッセルは貴族になりたいなどとは微塵も思っていなかったが、国王と大恩ある侯爵がくれるというものを断るわけにもいかず、厩舎とその周辺の土地を形ばかりの領地として受け取った。
その日からラッセルはクレイヴン準男爵となり、ビヴァリーも馬好きなお転婆の「ビリー」ではなくクレイヴン準男爵令嬢として貴族らしい毎日を送るため、朝から晩まで馬と一緒に走り回ることはできなくなってしまった。
(ねぇ、ずっと曳き回されたいの? 思い切り走ってみたくない?)
心の中で馬に話しかけながらしばらくじっと見つめ合った後、斜め前からゆっくりと近づいて鼻梁やうなじ、背を優しく撫でると「悪くないな」という声が聞こえた気がした。
「ねぇ、父さん。この子の名前は?」
「ドルトンだ」
「ちょっと一緒に歩いてもいい?」
「ちょっとだけだぞ」
父親から手綱を預かったビヴァリーは、ハミも鞍もしっかり装着されていることを素早く確かめると、しばらく歩いてからくるりと振り返った。
「ねぇ、乗ってもいいでしょ? 走りたいって言ってるわ!」
「え、おい、こらっ! ビリーっ!」
父がいいと言う前に鐙に足をかけ、ひらりと馬上へ乗り上げるとドルトンの耳がビヴァリーの方を向いた。
(どれくらい走れるのかしら……)
ワクワクしながら、ウォークからトロット、キャンターへと歩を早め、「ドルトン」と小さく名を呼んだ途端、飛ぶように走り出した。
風になびくたてがみを撫で、躍動する馬体に身を任せるビヴァリーは、叫び出したいくらいの喜びと興奮に包まれた。
風を感じ、土の匂いをかぎ、力強く躍動する生命力の塊のような馬から立ち上る熱に包まれると、視界に映る景色はより鮮やかに、より細やかになる。
五感を目いっぱい使い、自然がくれるあらゆるサインを読み取り、馬と一体となって走っているときが、ビヴァリーは一番幸せだった。
ビヴァリーにとって、この世で一番美しく、完璧な生き物は『馬』だった。
どんな馬も好きだが、特に競走馬として繁殖されている優雅な馬体と長い脚をもつサラブレッドは一番のお気に入りだ。
いつの日か、王家所有の競馬場で開かれる由緒正しいレースに自分が育てた馬に乗って参加し、優勝したいというのがビヴァリーの密かな夢だ。
馬場を二周して爽快な気分を存分に味わった後、柵に寄りかかっている父の元へと馬を進めようとしたビヴァリーは、新たな見物客が増えていることに気付いた。
一人は、遠目からでもわかるほど姿勢が良く、銀色の髪と髭をきちんと整えているギデオンだったが、もう一人は初めて見る少年だ。
太陽を反射して輝く金の髪と鳶色の瞳に、すっと通った鼻筋。貴族らしい品の良さと尊大さを滲ませているが、まだ十四、五歳だろう。
少年は、柔らかそうな頬をこわばらせてビヴァリーたちをじっと見ているが、とても友好的とは言い難い雰囲気を滲ませていた。
興奮が治まりきっていないドルトンが不快そうに歯を剥き出しにするのを見た少年が、肩を揺らして後退りする。
「落ち着いて、ドルトン。大丈夫よ」
優しく言い聞かせながら、ビヴァリーは素早く馬を降りて首筋を撫でてやった。
しばらく、撫でてやっているうちに馬も落ち着きを取り戻す。
「いつ見ても、惚れ惚れするような乗馬の腕前だ」
もう大丈夫と振り返ったビヴァリーに、いつも厳めしい顔つきのギデオンがわずかに灰色の眉を引き上げて称賛の言葉を口にした。
「そんなことはありません、馬がいいからです」
面と向かって褒められるのは恥ずかしくて、頬が熱くなる。
「確かに。ラッセルとビリーにかかれば、どんな馬もいい馬になるだろう。ところで、ハロルドとは初対面だったと思うのだが……ハロルド」
ギデオンに促された少年は、強張った表情に相応しく硬い声で名乗った。
「リングフィールド伯爵ハロルド・レノックスだ」
自分と二つ、三つしか違わないだろう少年が伯爵とは信じられず、ビヴァリーは目を見開いた。
「あの……ビリーです。よろしくお願いします」
「ハロルドは、私の孫だ。先日亡くなった息子に名乗らせていた爵位を引き継がせた」
父親の死に少年が打ちのめされているかと思うと、ビヴァリーの胸は痛んだ。
「前リングフィールド伯爵の訃報は伺っております。心よりお悔やみ申し上げます」
ラッセルが、一人息子を亡くしてさぞ気落ちしていることだろうと気遣うと、老侯爵は髭に埋もれた唇を歪めて吐き捨てた。
「放蕩の末、酒と博打におぼれて喧嘩沙汰に巻き込まれて死んだ愚息だ。悔やむほどの価値もない」
滅多に感情を露にしないギデオンの冷淡な様子にビヴァリーは驚いたが、亡き父を非難されても、ハロルドは表情一つ変えずにじっとドルトンを見つめていた。
「息子とは長らく疎遠にしていたせいで、ハロルドには何もしてやれずにいた。学校の休暇中に領地やその周辺を見せるため、こうして連れ回している」
「そうでしたか……。ハロルドさま、私で何かお役に立てることがあれば、何なりと仰ってください」
ラッセルは、少し腰を屈めてハロルドに目線を合わせて微笑んだ。
ハロルドはしばらくじっとラッセルを見つめ、ぽつりと呟いた。
「ああ……ありがとう」
「どうでしょう? せっかくですから、馬に乗ってみませんか?」
ラッセルの誘いに、少年はあからさまに怯えた表情をしたが、ギデオンが了承してしまった。
「ぜひ、乗せてやってほしい。走らせるのは無理かもしれないが」
貴族の子弟の教育がどういうものかビヴァリーは知らないが、ブレントリー王国では村に住む平民でも男性であれば、ほとんどが馬に乗れる。
馬に乗れないということはないだろうに、何か理由があるのだろうかと首を傾げた。
「わかりました。今、馬を用意しますので……」
きちんと調教した馬を馬房から引き出して来ると言ったラッセルを止めたのは、ハロルドだった。
「いや、いい。その馬で……その、ビリーが乗っていた馬でいい」
「え……いや、しかし、このドルトンは……」
視線を寄越すラッセルに、ビヴァリーは頷いてみせた。
もしも、何か理由があって乗れないのだとしたら、乗りたいと思う馬に、乗せるべきだと思った。
「頼めるかな? ビリー」
灰色の瞳には、気遣わしげな色がある。
ギデオンがここに立ち寄ったのは、少年を馬に乗せるのが目的だったのだろうと気付き、ビヴァリーは大きく頷いた。
「もちろんです、ギデオンさま」
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