第25話 花嫁は、逃げ出す準備をする 2
テレンスによって、グラーフ侯爵家が王都に所有するタウンハウスに運ばれたビヴァリーは、落ち着かない日々を送っていた。
部屋を見つけて早く出て行かなくてはと思ったけれど、玄関や一階の脱出できそうな窓に近付こうとするたび、妙に勘のいい執事とやけに親切な家政婦長に発見されるというのを何度か繰り返し、「ハロルドさまがお戻りになったとき、ビヴァリーさまがいらっしゃらなかったら、私共全員がクビになります」と言われて諦めた。
ハロルドが来たら、ちゃんと話して穏便にここから出してもらおうと考え直したがなかなか現れず、どうにも落ち着かなかったところへ、突然ドレスや靴、日傘や帽子などが大量に届いた。
明日にはグラーフ侯爵家に旅立つから荷造りするようにとハロルドから伝言を受け取っても、何を持って行けばいいのかすらわからなかった。
執事と家政婦長、若い侍女二名の協力により、何とか十日分の衣服をトランク三つに詰め込んだ。
ビヴァリーの感覚からすると、引っ越しでもするのかという荷物の多さだ。
寝心地はいいけれど広すぎて落ち着かず、ついつい端っこで寝てしまう天蓋付きの豪華なベッドに潜り込んだのは真夜中近くだったが、明け方になってお腹に鈍い痛みを覚えて目が覚めた。
慌てて浴室に駆け込み、シルクと思われるシーツを汚さずに済んだことにほっとした。
(喜ぶべきなんだけど……)
ハロルドの懸念は杞憂に終わったとわかり、ビヴァリーは少し顔色の悪い鏡の中の自分を見つめて力ない笑みを浮かべた。
(ハルが帰ってきたら、すぐに言おう。そしたら、結婚はしなくていいって言うかもしれないし……)
ハロルドはビヴァリーにここへ滞在するよう命じてから、自分自身は一度も帰って来なかった。
仕事の途中だというテレンスが立ち寄って、おそらくグラーフ領へ発つぎりぎりまで戻れないだろうと教えてくれた。
コルディアでちょっとした衝突があったことは、贅沢にも毎朝食堂に用意されている新聞で読んで知っていた。
コルディアに軍人として派遣されていたハロルドは、担当大臣よりもコルディア国内の事情に詳しいため、国王にも頼りにされているらしい。
しなくてもいい結婚で王都を離れている場合ではないのだ。
ハロルドと会えなくなるのは寂しいけれど、毎日忙しいハロルドはきっとすぐにビヴァリーのことなど忘れてしまうだろう。
そして、賭け屋が予想するような素敵な令嬢と正しい貴族の結婚をする。
無駄にドレスを作ってもらい、たくさんお金を使わせてしまったけれど、売ればそれなりの額になると思う。
幸い、宝石の類はなかったので、万が一支払うことになったとしても、レースで二、三回勝てばなんとかなるだろう。
返すべきものは返し、あとは前と同じ生活に戻るだけだ。
「ビヴァリーさま?」
侍女の声がし、ハッとしたビヴァリーは鏡の中の自分に微笑みかけた。
(間違ったことは、しちゃいけないよね)
もう必要ないとは思いつつも、侍女が用意してくれた比較的動きやすそうな若草色の飾りが少ないドレスを着ることにした。
ハロルドも朝からみすぼらしい恰好の女性に会うより、美しく装った女性に会いたいだろうし、あとで、ここを出て行くときにいつもの恰好に着替えればいい。
ここ一週間ほど、毎晩香油で髪や手を手入れされていたので、肌からはほんのりとオレンジのいい匂いがしている。
靴はおしゃれだけれどそのまま馬にも乗れそうな、しっかりした編み上げのブーツ。髪もうなじの上でまとめてもらうと、少しだけ大人っぽくなった気がした。
ハロルドと一緒に出かけても、じろじろ見られたりしないくらいには、ちゃんとした恰好だ。
(ハルとタウンハウスの裏手にある綺麗な庭を散歩してみたかったな……)
ゆっくり、誰にも邪魔されずに二人で昔のように過ごせたら、言えなかったことも全部正直に打ち明けられる気がした。
(結婚しないなら、言う必要もないかもしれないけど……)
「よくお似合いです。きっと、ハロルドさまもお喜びになりますわ」
「ありがとう。そうだといいけれど……」
侍女と二人で仕上がりに満足し、広すぎる食堂で、美味しく量もたっぷりの朝食を取った。
お腹の鈍い痛みは相変わらずだが、少し気分もよくなり、何杯でも飲めそうな美味しいお茶を飲んでいると、突然ハロルドが現れた。
「ビヴァリー、準備はできているか?」
「お、おはようございます、ハ……ハロルドさま」
慌ただしく食堂へ入ってきたハロルドは疲れた顔をしていて、目の下に隈まであるけれど、相変わらず美しかった。
「ビヴァリーさまとハロルドさま、お二人分の荷物はまとめてありますので、後は積み込むだけです」
何事も抜かりなく準備する執事の返答に、ハロルドは軽く頷くとビヴァリーに手を差し伸べた。
「それなら、すぐに発てるな。行くぞ」
ビヴァリーが突っ立ったまま反応できずにいると、ぐいっと手を引いて腕を組ませる。
「あの、ハルっ……は、ハロルドさま、お話ししたいことがあるんです」
急に縮まった距離にドキドキしながら足を踏ん張って引き止めると、苛立ったような眼差しを向けられる。
「話なら、馬車の中で聞く」
そのままずるずると引きずられそうになり、ビヴァリーは恥ずかしさを堪えて必死に訴えた。
「あの、き、きたのっ」
「何が?」
ハロルドの腕にぎゅっとしがみつき、前に回り込むようにして見上げる。
「だから、その…………してなかった」
朝から食堂で叫ぶような内容ではないし、執事やら従僕やらもいる。
ビヴァリーは顔から火が出そうだと思いながら、ぼそぼそと申告した。
「に、妊娠……してない、と思う。その……は、始まっちゃったから」
ちらりと上目遣いに様子を窺うと、ハロルドは鳶色の瞳と口を見開いて固まっている。
「は、ハル……?」
小声で呼びかけるとハッとしたように目を瞬き、怒っているような、それでいて悲しそうな、なんとも言えない顔をした。ほんの少しだけ、青白い顔が赤くなっているようだ。
ハロルドは、急に居心地悪そうに縋りついているビヴァリーを腕から引き剥がし、上から下まで確認するように眺めた。
「具合は? その……身体が辛いんじゃないのか?」
「ちょっとお腹が痛くて、ものすごく眠くなるくらいで、寝込むほどじゃないから……二、三日はあまり動き回れないけれど」
ビヴァリーが恥ずかしながらも説明すると、ハロルドはほっとしたように呟いた。
「馬車に乗っている間は寝ていればいいし、問題ないな」
「え」
「三日はかかる計算で、途中町にも何度か立ち寄るから、何かあればすぐに言え」
「あのっ……けっ、結婚はっひゃっ……」
結婚しなくてもよくなったはずだと言おうとしたビヴァリーは、いきなり足元を掬われて驚いた。
ぐらりとゆれる上体を支えようとしがみついたのは、ハロルドの肩だ。
「話は、馬車の中で聞く」
先ほどと同じ言葉を繰り返し、ハロルドはビヴァリーを横抱きにしたまま廊下を抜け、玄関から外へ出る。
「無事、捕獲に成功したようで何よりです。少佐」
直立不動で敬礼するテレンスは、ハロルドに抱かれているビヴァリーを見るとニヤリと笑った。
「ビヴァリーはあまり体調がよくない。途中、なるべく休みを入れるように」
「はっ! 承知いたしました! グラーフ侯爵領まで無事辿り着けるよう、案内はお任せください!」
「頼む」
実用一辺倒の質素な箱馬車ではあったが、御者はテレンスに負けず劣らず屈強な体付きをしている。
その横に、馬に跨ったテレンスが付き従えば、護衛というよりは護送といった雰囲気だ。
馬車の中は、外観の素っ気なさとは裏腹に柔らかそうな座面はもちろん、触り心地の良さそうなクッション、滑らかな毛布などが用意されていて、快適に過ごせるよう配慮されていた。
しかも、片隅にはお菓子の詰まった駕籠が置いてある。
「道中、好きに食べるといい。足りなくなったら、途中の町でその土地の名物を買い足す」
どれも一口大に整えられた焼き菓子たちは、美味しそうな匂いを漂わせている。
(美味しそう……)
ビヴァリーが菓子に釘付けになっている間に、馬車が動き出した。
(お、降りないとっ!)
慌てて向かいに座るハロルドを見ると、いつの間にかフロックコートを脱ぎ捨てて、シャツとウェストコート姿で横倒しになっている。
「は、ハルっ!?」
具合でも悪いのかと慌てて呼びかけると、目を伏せたままはっきりしない口調で答える。
「少し、寝かせろ……ずっと……寝てなくて……起きたら、話を……」
あっという間に眠りに落ちたハロルドは、安らかな寝息を立てている。
(ど、どうしよう……でも、起こすのも可哀相かも……)
長い睫毛の下にはくっきりとした隈があり、金色の髪もブラッシングされていないのか、艶がなくてパサパサしている。
(寝ていると……子どもみたい)
熟睡しきっているハロルドの寝顔は実に安らかで、自然と笑みが浮かんでしまう。
普段はきりっとしている眉も下がり気味で、引き締まった唇は微かに開き、緩んでいる。
その唇が肌に当たる柔らかな感触を思い出し、ビヴァリーはじわじわと頬が熱くなってくるのを感じて視線をさまよわせ、お菓子の詰まった駕籠に目を止めた。
甘いものでも食べれば落ち着くかもしれないと、駕籠からごつごつしたロックケーキをひとつ取り出して齧ってみる。
ドライフルーツがたくさん入っていて、とても美味しく食べ応えがあり、朝食を食べたばかりだったけれどやめられずに、三つほど食べた。
他にも、スコーンやパイなど選り取り見取りで、一日では食べきれそうもない。
ふと、サンドイッチやスコーンを持って、ハロルドとピクニックに行った日のことを思い出した。
(昔のように、ハルとピクニックしたかったな……)
ハロルドとは、何度かピクニックがてら、グラーフ侯爵領内にある見晴らしのいい丘まで馬で競争した。
美味しそうな料理はグラーフ侯爵家の料理人が作ってくれていて、デザートにはギデオンが温室で栽培しているオレンジが入っていた。
ハロルドは、甘いものはあまり好きではないと言って、ビヴァリーに全部くれたけれど、ビヴァリーは必ずひと欠片はハロルドにあげていた。
口ではあまり好きじゃないんだと言うものの、ハロルドの好物だということはバレバレだった。
オレンジ、ロックケーキにチェス、女の子はあまり読まないような海賊と戦うヒーローの出て来る本など、ハロルドは自分が好きなものをビヴァリーにくれようとする。
ビヴァリーが、自分が好きな馬たちのことを好きになってほしいと思うのと一緒だった。
(今だと、オレンジひと欠片じゃ足りないって言うかな……)
心地よい馬車の揺れに身を任せ、窓からぼんやりと青い空を見上げていたビヴァリーは、襲って来る眠気に欠伸を噛み殺した。
(ハルが起きたら、ちゃんと話して……そこで馬車を降りよう)
向かい合うようにして横になり、少しだけ微睡むつもりで目を伏せた。
それきり、その日宿泊する予定の宿屋に着くまで、ビヴァリーは熟睡した。
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