第26話 花嫁は、逃げ出す準備をする 3

「ビヴァリー? 朝食は馬車の中で取る。今日中にグラーフ侯爵領へ入りたいから、すぐに出発する」


 積み上げられたトランクから濃紺色のドレスを引っ張り出していたビヴァリーは、ドアの向こうにいるハロルドに、慌てて返事をした。


「は、はい! いま、行きます……」


 一人でも着られるようにと簡易なコルセットと前開きのシンプルなドレスを選んでくれた家政婦長と侍女に感謝しながら、項垂れた。


(うっかり寝てる場合じゃなかったのに……)


 昨日、目が覚めたらすでに宿屋に着いていた。

 しかも、ベッドの上だった。


 慌てて起き上がって部屋を出て、賑やかな声が聞こえるほうへと階段を下りて行くと、そこは宿屋が経営する食堂だった。


 わざわざ探さなくともひと目で発見できたテレンスは、ビヴァリーに気付くと手招きし、テーブル一杯に並んだ美味しそうなパイや鶏肉などを食べさせてくれた。


 テレンスの説明によるとここはベリーという町で、ビヴァリーとハロルドが馬車の中で眠りっぱなしだったため、途中の休憩も最低限しか取らず、予定していた旅程以上の距離を進んだ。


 当然、日が暮れる頃には宿泊を予定していた高級宿はとっくに通り過ぎており、食事の美味しそうな宿屋をテレンスが急遽手配したらしい。


 ハロルドと話したいと言うと、夕食を取るなり寝てしまったと言われ、話し合いは翌朝へ持ち越すしかなかった。


(それなのに、寝坊するなんて……)


 ビヴァリーは、夜明けと共に起き出してハロルドと話そうと思っていたのだが、馬車に揺られ続けて疲れていたせいもあり、すっかり寝過ごしてしまった。


 髪をなんとかまとめ、身支度を整え終わったところでドアを開けるとテレンスがいた。


「昨日よりはマシな顔色だが、今日も馬車で寝てるだけでいいぞ」


「……ハル……ハロルドさまは?」


「馬車で待っている」


 急がなくてはと、トランクを引きずろうとしたビヴァリーを押し止めたテレンスは、部屋へ入ってくると窓を開け、いきなりビヴァリーから取り上げたトランクを窓の外へ放り投げた。


「ええっ!?」


 何をする気だと慌てて窓に駆け寄ると、下には御者がいた。


「運ぶより早い」


「確かに……」


「テレンスっ! ビヴァリーはまだかっ!?」


 ハロルドの声が聞こえ、次々とトランクを放り投げたテレンスがビヴァリーを見下ろして太い眉を引き上げる。


「て、テレンスさん、私、階段で下りますっ!」


 ビヴァリーは転げ落ちるようにして階段を下り、宿を飛び出したところで待ち構えていたハロルドに捕まり、馬車へ押し込まれた。


「あの、ハルっ! 話が……」


「出せ」


 ハロルドが御者に命じ、馬車が動き出す。


「待って、ハルっ! 話があるのっ」


 立ち上がり、馬車の扉を開けようとするビヴァリーをハロルドが引き戻す。


「俺も、話がある」


 がっちり腰に腕を回され、ハロルドの膝の上に座るはめになったビヴァリーは、固い声に何か大事なことを話そうとしているようだと気付き、鳶色の瞳を見下ろした。


「グラーフ侯爵領へ行くのは、結婚するのに祖父の了承を得たいということだけでなく、もう一つ別の理由がある」


 結婚式のためだけに行くのではないと言われ、ビヴァリーは目を瞬いた。


「それだけじゃないって、ほかに……」


「グラーフ侯爵領に……おまえの父親が住んでいた場所に立ち寄りたいんだ。教会ではなく、そこに墓があるだろう?」


 焼け落ちた厩舎の跡に横たわるラッセルの遺体を思い出し、ビヴァリーの喉が締まる。


「火事の原因やその時の状況を知りたい。おまえの母親は葬儀を執り行った司祭にすら何も説明せずに、いなくなった。司祭はショックのあまりだと思っていたようだが……」


 父の死を悼む間もなく再婚すると言い出した母の歪んだ笑みを思い出し、ビヴァリーは忘れたはずの怒りと悔しさで声を震わせながら問い返した。


「……知って、どうするの? 知ったところで、父さんも馬たちも帰って来ないのに」


「間違ったことが行われたのなら、正さなくてはならない。罪は消えることなどない。償いはできても、犯した罪がなくなるわけではない。もし償うこともしなければ、犯した罪はより大きく膨らみ、飛び火し、あらゆるものをひとつ残らず燃やし尽くすだろう」


 まるでラッセルの死が、誰かの犯した罪のせいであるかのように言うハロルドに、ビヴァリーは首を傾げた。


「どういうこと? あの火事は……ただの火事じゃないの?」


「わからない。だから、聞きたいんだ。何があったのか、その目で見たビヴァリーの口から聞きたいんだ」


 ビヴァリーは、五年前の冬に起きた出来事を詳しく誰かに話したことはなかった。


 火事のせいで父と厩舎を失い、名前だけの貴族から平民に戻ったことはマーゴットにも話したが、実際何が起きたのかまでは話していない。


 火が消え、朝日に照らされた静まり返った雪原に散らばる、焼け焦げた厩舎の残骸を思い出すだけでも、胸が抉られそうな痛みを覚える。


「ビヴァリー?」


「……私が、本当のことを話しているかどうか、わからなくても聞きたいの?」


「俺の知っている『ビリー』は、言わないことはあっても、わざわざ嘘を吐いたりはしない」


 目を逸らすことなく見つめるハロルドは、ビヴァリーがずっと胸の奥にしまい込んでいた、隠し事が苦手で、馬だけでなく家族やギデオンやハロルドが大好きだった頃の『ビリー』をしっかり捉えていた。


「馬のように、『ビリー』の気持ちをちょっとした仕草ではくみ取れないから、言葉で聞きたい。一応、人間の話す言葉は馬より理解できるつもりだ」


 ふざけているのか、真面目なのかイマイチわからないハロルドだったが、鳶色の瞳はじっとビヴァリーを見つめ、話したくないなら話さなくてもいいとは決して言いそうもなかった。


 馬みたいにわかりやすくはないけれど、ビヴァリーの言葉を聞こうとしてくれているハロルドの形のいい耳に触れる。


 ハロルドはしばらくじっとしていたが、そのうち居心地悪そうに顔をしかめた。


「……ビヴァリー」


「あ! ご、ごめんなさい……」


 ハロルドは、ビヴァリーの手を耳から引き剥がすと、そのままぎゅっと握り締めた。


 いつの間にか冷たくなっていた指先が、徐々に温まるにつれ、ビヴァリーの気持ちも落ち着いた。


「あの冬はとても寒くて……」


 話し始めた声は小さく震えていたけれど、ハロルドは微かに頷いた。


「ああ。雪も多かったな。帰国して驚いた」


「うん。だから、父さんはいつもより多めに馬房に寝藁を敷いたり、馬にはちょっとした服みたいなものを着せたりしてあげていたんだけど、一頭妊娠している馬がいたから、夜中でも時々、様子を見に厩舎へ行ったりしていたの」


 できるだけ、春に生まれるように調整していても、すべてを人間がコントロールすることはできない。

 春に初産を迎える予定だった牝馬は少し神経質なところがあり、ラッセルはとても気にかけていた。


「父さんは早産になるかもって思っていたみたいで、あの夜は厩舎に泊まることにするって言うから、あとでスープを持って行くねって約束したの」


 ラッセルは、馬たちの出産に備えていつでも泊まり込めるように、馬房の一角を改造して寝泊まりできるようにしていた。


 小さな暖炉もあり、ビヴァリーも出産を手伝うために狭いベッドに一緒に潜り込んで、いろんな馬の話を聞いたり、時にはラッセルのいびきで目が覚めて、ちっとも眠れなくなったりしたこともあった。


 厩舎に泊まるとき、ラッセルは絶対に酒は飲まず、温めたミルクやほとんどお湯でしかないお茶を飲んでいた。


「それで……夜寝る前に、温めたスープを持って行こうとしたら、母さんが今日は自分が持って行くって言ったから、私はそのまま眠ることにしたの。母さんはあまり馬が好きじゃなかったから、厩舎に近付くこともなかったんだけど、きっと父さんも喜ぶだろうって思って……。母さんがなかなか帰って来ないなって思っているうちに眠くなって……夢の中で馬が鳴く声を聞いて、目が覚めたら、窓の外が真っ赤になっていた」


 慌てて家を飛び出したビヴァリーは、同じように飛び出して来たらしい母が茫然と立ち尽くすのを見た。


 赤々と燃え盛る厩舎を見つめる母の顔からは、表情という表情が抜け落ちていて、ビヴァリーは自分がラッセルを助けなければと思った。


 火の手がまだ回っていない方から馬房に繋がれていた馬たちをとにかく外へ放し、二十頭ほどいた馬の三分の二ほど助け出したところで、炎の向こうにラッセルを見た。


「父さんは、生まれたばかりの仔馬を助けようとしていたんだけど、母馬が邪魔をして……」


 ビヴァリーに気付いたラッセルは、自分よりもドルトンを助けろと叫んだ。


 怯えるドルトンをどうにか馬房から厩舎の外へ連れ出して、再びラッセルのところへ戻ろうとした目の前で、奥の方から屋根が崩れ始めた。


 振動と驚きで尻もちを着いたビヴァリーも、雪崩を打って崩れてくる屋根の下敷きになりかけたが、ドルトンがビヴァリーの服に齧りついて厩舎から引きずり出してくれた。


 屋根が落ちた衝撃と周囲は雪に埋もれ、飛び火するようなものもなかったことから、夜が明ける頃には炎はほとんど消えていた。


 煤だらけで、髪や腕や足に少し火傷を負ったりはしたけれど、どこにも大きな怪我をせずに済んだビヴァリーは、黒焦げの厩舎の残骸から、母馬の下敷きになって、仔馬を抱えた状態で息絶えたラッセルを見つけた。


 半狂乱になった母デボラが泣き叫んでいるのを背に、ビヴァリーは逃した馬たちを探し出し、家の裏手にあった様々な馬具や農機具を入れていた広い小屋へ入れた。


「夏ならよかったんだけど、かなり雪が深くて、埋もれている草も食べられそうになかったから、どうしても捕まえなくちゃならなかった。逃した馬の中にはそのまま行方がわからなくなったものもいたんだけど、ほとんどが近くをウロついていたから……」


「……それで……その後、グラーフ侯爵家に?」


「火事に気付いた誰かが知らせてくれたみたいで、すぐに侯爵家の人たちが来てくれて、司祭さまを呼んで父さんを埋葬してくれたおかげで、お墓も用意できたの」


 その後のことは、ビヴァリーにはよくわからなかった。


 失った馬の中には、馬主がいるものもいたため、先払いで貰っていた金を返したり、残された馬たちをどうするかといった、金銭がらみのことについては子どもだったビヴァリーが口を挟むことはできず、また何がどうなったのかを知らされることもなかった。


「厩舎がなくなったら、馬は飼えないってことはわかっていたし、父さんがいなくなったから手放さなくちゃいけないってこともわかっていたんだけど……」


 ラッセルの死からひと月後、突然母のデボラがひとりの男を連れてきた。


 ビヴァリーは、仮の厩舎にしていた小屋でどうすれば馬たちが快適に過ごせるのか、日々頭を悩ませていたのだが、母が連れてきた男はひと通り馬を見て回ると、大した金額にはならないが、すべて売れるだろうと言った。


 ビヴァリーは、ラッセルが育てた馬にはとても価値があることを知っていたので二束三文なわけはないと思ったし、そんなことを言う人物には売るべきではないと思った。


 ラッセルは馬を大事にしない馬主には決して売りたがらなかった。


 ビヴァリーは、何度もデボラにやめるよう訴えたが、デボラは聞き入れなかった。


 だから、デボラから近々男が馬を引き取りに来るから準備するように言われた日の夜、グラーフ侯爵家へドルトンを預けに行った。


「どうして、ドルトンを選んだんだ? レースに出たこともなかっただろう?」


「ドルトンは、父さんが持っていた馬の中で、一番優秀で一番強くて、一番美しい馬だから。父さんは、将来ドルトンやドルトンの子どもは絶対にブレント競馬場で優勝するって……」


 王家所有の競馬場で行われる王家主催の由緒正しいレースは、国王や王族が観戦に訪れる。


 一度、ラッセルの育てた馬が国王の観戦するレースで優勝しているが、ギデオンから厩舎を譲り受ける前の話だ。


 いつか、自分の厩舎で繁殖から育成まで手掛けた馬で優勝したいというのが、ラッセルの夢であり、ビヴァリーの夢でもある。もっとも、ビヴァリーの場合は、そこに『自分が乗る』というのが加わるけれど。


 滲みそうになる涙を瞬きで散らし、ビヴァリーは明るく問いかけた。


「アルウィンを見たら、ハルもそう思うでしょ? 誇り高いけれど人のことは好きだし、言うことを聞いてくれるいい子だよ。すぐにコツを呑み込んで、勝負どころをちゃんと理解してくれるし、勇敢で闘争心もある。ブリギッドさまみたい。やっぱり、馬は持ち主に似るんだって思った」


 ハロルドは、にこりともせず先を促した。


「……その後、母親と一緒に国外へ出なかったのか?」


「馬たちがみんないなくなった翌日、馬を売った商人が来て、父さんの遺したお金を増やしてくれるし、面倒をみてくれるというから結婚するって母さんが言い出して……私は、ドルトンがいるブレントリーを離れるのは嫌だったから、乗船客で混雑する港でわざとはぐれて、逃げ出したの」


 もしかしたら、母が思い直して探そうとしてくれるかもしれないと思ったけれど、そんなことはなかった。


「その後は、父さんの知り合いの厩舎とか、農場とか工場とか……働けそうなところを転々として……」


「どうして、グラーフ侯爵領に戻らなかった? ドルトンを預けたとき、家令は俺たちが戻るまで滞在するよう引き止めただろう? 港から戻っていれば……」


 港は、王都よりずっと南にあって、グラーフ侯爵領まではとても遠かった。 


 馬に乗れば、馬車に乗れば、そのお金がある者にとっては大したことのない距離かもしれないが、あの時のビヴァリーにとっては、別の国じゃないかと思われるほど遠かった。


 そこには、幸せな思い出と同じくらい辛い思い出があって、それを分かち合える人は、どこにもいなかった。


「だって……いなかった……」


 ハロルドのせいではないし、八つ当たりだとわかっていたけれど、我慢していたものが涙と一緒に溢れ出す。


「だって、ギデオンさまも……ハルも、いなかったっ! 父さんが死んだときも、母さんが勝手に馬たちを売ってしまったときも、真夜中にドルトンを預けにいったときも、港で逃げ出したときも……ハルは、いなかったじゃないっ!」


 酷い目にも遭ったけれど、それ以上に親切な人は何人もいた。


 でも、その誰もビヴァリーにとってラッセルやギデオン、ハロルドのような存在にはならなかった。


 嘆くことはしたくなかった。

 振り返っても仕方がない。目指すべきゴールは、いつでも今より先にあって、通りすぎた過去にはない。

 必要なのは、ラッセルの夢と自分の夢を叶えるために、走り続けることだけだった。


 止まらない涙を手の甲で拭っていると、ハロルドの腕が背に回り、胸に顔を埋めるように引き寄せられた。


 一定の速度でゆっくりと背をさする手の大きさや、頬に感じる規則正しい鼓動。

 時々、頭のてっぺんに落ちるキス。馬車が揺れても絶対に転がったりしないよう、しっかりと支えてくれる腕。


 そのどれもが、ずっと欲しくて得られなかったものだと思い知る。


 しばらく、涙が止まるまで広い胸の中で蹲っていたビヴァリーだったが、落ち着くと今の態勢が恥ずかしくなってきた。


(抱っこされて、子どもみたいに泣きじゃくって…………このシャツ、シルクかも……)


 涙と鼻水で濡らしてしまったシャツの染みを目にして、現実が蘇った。


「あの、ハル……シャツが……」


 顔を上げ、謝ろうとしたビヴァリーは、いきなりいい匂いのする白いハンカチで涙や鼻水を拭われた。


 小さな子どものような扱いに、恥ずかしいやらちょっと腹が立つやらで、ビヴァリーが顔をしかめると、ハロルドが呟く。


「すまなかった……」


 乱暴に顔を拭ったことかとビヴァリーが寄せた眉根を元へ戻すと、触れるだけのキスをして、掠れた声で囁いた。


「……そばにいてやれなくて」


 いつもの尊大さはどこにもなく、まるで重大な罪を犯したかのように沈痛な面持ちをしたハロルドは、ビヴァリーを力任せに抱きしめて呟いた。


「ドルトンには、これから一生最高級の餌をやる」

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