第41話 馬も走る前には、準備運動をする 3
「やっぱり、夜はこうでなくちゃ……」
闇に浮かび上がる、煌びやかな明かりに包まれた王宮を振り返り、ビヴァリーは肩を竦めた。
騒がしい王宮から少し離れている夜の厩舎は、足音さえも響き渡りそうで、何となく忍び足になってしまうくらいとても静かだった。
社交シーズンを迎えた王宮では、毎日のように何かしらの難しい会議が開かれると同時に、夜会も頻繁に催されるため、朝から晩まで人の出入りが多く、寝静まることがない。
しかし、料理人や侍女、従僕などが忙しく立ち働くのとは対照的に、朝が早い馬丁たちは急に備える不寝番を除き、みんな早々に寝てしまう。
厩舎からは、時々馬たちの声がするけれど、きっと自分たちを世話する人間について、あれこれ話しているのだろう。
落ち着いた馬たちの様子から、ここで待つとメッセージを寄越した人物は、まだ現れていないのだろうと思い、ほっとした。
(会いたいような……会いたくないような)
昨夜の夜会で受け取った、小さな紙片に記されていたイニシャルの人物が、予想している人物であってほしいという気持ちと、そんなはずはないという気持ちを行ったり来たりするビヴァリーの胸の中はざわめき、絶え間なく揺らぎ続けている。
(イニシャルが同じ名前はいくらでもある)
貴族でもない人間は、王宮にそう簡単に出入りできないはずだし、こんなふうにコソコソ会おうとすることも、不自然だ。
そう頭ではわかっていても、もしかしたらと思ってしまう。
(期待したくない……でも、驚きたくもない)
騎手が怯えたり、動揺したりしていると馬にも伝わってしまう。
だから、できる限り平常心を保たなくてはならない。
心細さを補うように、ハンチング帽をぎゅっと目深に被り直す。
結局、昨夜から今に至るまで、ハロルドにはメッセージを受け取ったことは言えなかった。
(ハルならきっと、罠だって言うよね……私もそう思うけど。もしかしたらって……本当に母さんが、ただ会いたいだけかもしれないって、どうしても思ってしまう。だって……母さんが父さんを殺したなんて、信じたくない)
昨夜から、マーゴットの助言に従って王宮に泊まっていたが、厩舎に泊まるという案は却下された。
結局ハロルドの執務室の隣の部屋で、ハロルドと一緒に眠り、羽交い絞めにされた状態で夜明けを迎えた。
寝入ったところで抜け出すなんてことは無理だ。
運よく、ハロルドがコルディア担当大臣と共に出席している会議が長引いていなければ、こうして一人でうろつくことは許されなかっただろう。
新聞が出る前に接触してきたことから、メッセージを寄越した相手がデボラではない可能性も十分考えられる。
ハロルドに伝えて逆に罠を仕掛けるのが賢いやり方だとわかっているけれど、まずは自分の目で確かめなければきっと後悔すると、ビヴァリーは思った。
(後悔するようなことは、してはいけない)
ぎゅっと唇を引き結んでまっすぐ馬房へ向かいかけたビヴァリーの耳に、ふとラッセルの声が聞こえた。
『後悔するようなことはしてはいけないが、愚かな真似をしてもいけない』
ふと、視界の端に、昼間馬丁たちが休憩するために使っている部屋から明かりが漏れているのを見て、何も知らせずに厩舎に入ったりしたら、不寝番を務める馬丁を驚かせてしまうかもしれないと思った。
「こんばんは……」
わずかに開いた扉の隙間から漏れ出る光に、誰かがいるだろうと思いながら、何気なく扉を開けたビヴァリーは、めちゃくちゃに荒らされた部屋を見て驚いた。
二階建ての厩舎の端にある部屋は、馬の手入れをするための道具なども置かれてごちゃごちゃしているが、馬房と一緒で常に掃除が行き届き、綺麗に保たれているはずだった。
「え……?」
嵐の後のような部屋の惨状に声もなく立ち尽くしていると、呻き声のようなものが聞こえた。
声のした方を見ると、大きなテーブルの向こう側に二本の足が見える。
「あのっ」
慌てて駆け寄ると、顔見知りの馬丁が額から血を流して倒れていた。
「ど、どうしたのっ!?」
「……び、ビヴァリー……?」
「どうして、何が……」
テーブルの上にあった布で額を押さえながら問いかけると、ぼんやりしていた瞳の焦点が合う。
「ああ……誰かに……突然、殴られて……馬は……馬たちは無事か?」
自分のことよりも馬のことを心配する見上げた馬丁魂に感激しながら、立ち上がるのを手伝う。
「私、確かめて来るね」
「ああ、頼む……」
椅子に座らせ、すぐに戻ることを約束して、ランタンを手に部屋を飛び出したビヴァリーはまっすぐ馬房へ向かった。
相変わらず外は静かで、何の異変もないように思われる。
厩舎には、直接外へ繋がる大きな木の扉がいくつもあり、中央のアーチで左右に分かれてはいるものの、それぞれ中は一続きの廊下のようになっていて、外へと出る扉とは逆側に設けられた馬房で何頭もの馬が仲良く暮らしている。
近いほうの厩舎から確かめたビヴァリーは、うとうとしていたり、寝転んでぐっすり眠っていたりと、何の異変もなさそうな馬たちの様子を見て安堵した。
ただ、何かあって馬が騒いでもすぐ聞こえるように、念のため外へと続く扉は開けたままにしておいた。
続いてアーチの向こう側――アルウィンがいる方の厩舎へと足を踏み入れると、アルウィンがビヴァリーを見るなり、目をむいて嘶いた。
「アルウィン?」
どうかしたのかと一歩踏み出そうとしたビヴァリーは、いきなり誰かに腕を掴まれた。
「ひっ」
「大人しくしろっ!」
押し殺した声で脅した男は、冷たいものを首筋に押し当てた。
鉄のような感触に、銃だと気付いてビヴァリーが固まると、男はランタンを置けと命じた。
ゆっくりと床へ下ろすと、男はランタンを蹴り飛ばし、ビヴァリーを壁へ放るように投げつける。
「きゃっ」
額を打った痛みに悲鳴を上げると、「大人しくしろと言っただろうっ!」と怒鳴られ、こめかみに銃を突き付けられる。
男の手はぶるぶると震えており、いつ男がうっかり銃を撃つかわからないと思うとビヴァリーの恐怖はあっという間に膨れ上がったが、馬たちは異様な雰囲気を感じているせいなのか、アルウィンを除いて意外なほど大人しい。
「これから俺がする質問に、『はい』か『いいえ』で答えろ。それ以外喋ったら、ぶち抜く」
荒い呼吸の下で囁く男の声に、何となく聞き覚えがあるような気がするが、振り返ったら間違いなく撃たれるだろう。
「ここへ来ることを、誰かに言ったか?」
とっさに、ビヴァリーは「いいえ」と答えた。
ビヴァリーがなかなか戻らなければ、この男に殴られたに違いない馬丁は、きっと助けを呼んでくれるはずだと思った。
「本当だろうな?」
「はい」
「手短に行こう。今度のレースで負けろ」
「………?」
「ブレント競馬場のレースだ。おまえとあの馬に勝たれちゃ困るんだよ」
(八百長をしろってこと……?)
「そんなことっ……」
そんなことはできないと言おうとしたビヴァリーは、いきなり銃把でこめかみを殴りつけられた衝撃で、蹲った。
「ほかのことをしゃべるなと言っただろうがっ! 競馬はな、金儲けのためにあるんだ。お涙頂戴の美談なんぞ、必要ない」
こめかみを押さえた手に、ぬるりとしたものを感じる。
頭が割れるように痛く、グラグラと視界が揺れ、男の声がやけに遠く聞こえる。
「勝つべき馬が勝ち、儲けるべき人間が儲けるために、レースはあるんだ」
そんなことはないと言いたいのに、声が出ない。
「あいつは、おまえの死んだ母親の名を書けば絶対に来ると言っていたが、その通りだったな。悪く思うなよ、こっちも命がかかってるんでね。次のレースで勝てなきゃ借金取りに……なんだ……おい……」
(母さんは、死んでない……あいつって?……借金取り……?)
上手く考えをまとめられず、切れ切れに聞こえてくる単語をぼんやりとした頭で反芻していると、突然男が叫んだ。
「くそっ……なっ……ちくしょうっ! ちくしょうっ! しくじったら……殺されるっ!」
男が焦ったように叫ぶのを聞いて、壁に寄りかかるようにして振り返ると、明るい馬房の中ではっきりと男の顔が見えた。
(……この、ひと……御、者の……)
厩舎で働く仲間の一人だった、馬を愛しているはずの男は、暴れる馬たちに向けて狂ったように銃を撃っている。
「や……めて……」
幸いまったく命中していないようだが、発砲音だけでも馬が怯えてしまう。
しかも、赤々と燃え盛る炎が、冷え切っていたはずの空気を温め、蒸し熱さと黒い煙で馬房を満たし、逃げ場のない馬たちを追い詰めている。
「死んじまえば何も喋れない……」
男は振り返り、唯一の物言える目撃者であるビヴァリーを見下ろし、銃口を向けた。
その手はもう震えておらず、その顔には奇妙な笑みが浮かんでいた。
「全部燃えてしまえば、何もわからなくなる。銃で撃たれて死のうが、焼かれて死のうが、変わらない」
ビヴァリーは、ぎらつく黒い瞳をじっと見つめて問いかけた。
「馬が……好きじゃなかったの……?」
男は一瞬怯んだように見えたが、「馬が好きなだけじゃ、金持ちにはなれない」と呟いた。
確かにそうだとビヴァリーも思った。
父ラッセルは、馬が大好きで、馬のことにかけては世界一だとビヴァリーは思っていたけれど、お金持ちにはなれなかった。
なろうとも、思っていなかった。
でも、ラッセルは、自分がどうすれば幸せになれるのかを知っていて、その方法をビヴァリーにも教えてくれた。
「お金持ちにはなれなくても……幸せにはなれるんじゃないの? 大好きな馬と一緒にいられるなら」
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