第54話 偽物ではなく、本物の天使は翼をしまう 4
テレンスとマーゴットは、三日間ほど滞在した後、来春の再会を約束して王都へ帰って行った。
二人を送り出すと、賑やかだった空気はあっという間に消え、屋敷の中はしんと静まり返った。
寂しいと思ったのはビヴァリーだけではないようで、ハロルドがぽつりと呟く。
「
「でも、春からは凄く賑やかになると思うけど?」
「まぁ、それは間違いない」
テレンスは、侯爵家の広大な庭を見るなり、猪のごとく突進し、老齢の庭師を質問攻めにした。
弟子入りしたいと言われた庭師が頷いたのは、そのあまりの熱意と迫力に、命の危機を感じ取ったからだろう。
ギデオンも、テレンスならば身上調査の必要もないし、マーゴットのこともブレント競馬場で一緒に観戦していたため知っている。
庭師が弟子にしたいというのならと、あっさり認めてくれた。
かくして、春からテレンスとその母親メアリ、マーゴットの三人はグラーフ侯爵領の住人となることが決定した。
ハロルドだけは、陸軍大臣の嫌みに晒されると呻いたが、これまでのテレンスの献身に報いることができるのは嬉しいと思っているようだ。
「ハル。今夜はあっちの……クレイヴン厩舎に泊まってもいい?」
「かまわないが……」
「朝の散歩に行きたいの」
一緒に厩舎へ向かっていたハロルドが、一瞬足を止める。
「……ドルトンと?」
「ハルと」
ビヴァリーの答えを聞いた途端、ハロルドは嬉しそうな笑みを浮かべた。
(な、なんで急に笑うの……)
ハロルドが、通りがかった従僕に今晩と明日の朝の分の食料を適当に用意してくれと満面の笑みで頼むものだから、うろたえた従僕が舶来品の高級そうな壺にぶつかり、危うく割りそうになっていた。
(危ないから、事前にお知らせしてほしいんだけど)
その後は、幸いなことに誰とも行き合わなかったので、上機嫌のハロルドの攻撃で被害が発生することなく、厩舎へ辿り着いた。
ビヴァリーは厩舎からドルトンを、ハロルドはギデオンが競売で買った葦毛の牡馬を引き出した。
どちらも気位が高いため、仲良く顔を突き合わせるなんてことはしない。
適度な距離を保ち、時々競い合いながら、ちょっとした小川や茂みを越え、あちこち寄り道してクレイヴンまで走った。
厩舎前で井戸から汲んだ水を飲ませながらブラッシングしたり、蹄の手入れなどをし、厩舎に入れたときには、日暮れ間近だった。
真新しい厩舎に二頭とも少し落ち着かない様子はあったものの、慣れれば大丈夫だろう。
ハロルドが出がけに受け取ったバスケットには、パンやローストビーフ、スコーン、パイにプディング、そしてオレンジがぎっしり詰まっていた。
食堂で、ハロルドが淹れてくれた美味しいお茶を飲み、ちょっとずつ料理をつまむ。
ものすごい勢いでバスケットに入っていた料理の半分くらいを平らげたハロルドは、皿を洗い、お湯を沸かして入浴の準備をし、と実に甲斐甲斐しく働いてくれた。
ビヴァリーが入浴を終えて居間に戻ると、ハロルドはいつの間にかここにワインを常備していたらしく、ナイトガウン姿でグラスを傾けながら寛いでいた。
「ビヴァリーも飲むか?」
いつもならいらないと言うところだが、今日は色々と初めてのことに挑戦しなくてはならない。
パブでよく聞いた「景気づけ」とか言うのが必要だろうと、頷いた。
「甘くて飲みやすいから、飲み過ぎないよう……ビヴァリーっ!?」
パブの客がやっていたように、ハロルドがなみなみと注いでくれたワインをごくごくと飲み干す。
「……ハル。今日は、ハルにご褒美があるの」
ビヴァリーから、空になったグラスを取り戻したハロルドは「信じられない」とでも言うように鳶色の瞳を見開いている。
「……え? ああ、ご褒美? 何のだ?」
「たくさん……我慢してくれたでしょ」
「我慢……?」
「そう……だから、ハルが喜ぶことをしてあげようと思って」
なんだかくらくらする気がして、取り敢えずハロルドの横に座る。
「ビヴァリー……酔っているんじゃないか?」
「うん」
「果汁でも飲んで、寝たほうが……」
「まだ、眠くない」
「いや、横になれば眠くなるかもしれないから……」
「横になるのは、ハルでしょ」
「は?」
何となく逃げ腰のハロルドに、にじり寄り、暴れても制御できるようにしっかり跨る。
「び、ビヴァリー……?」
唇を指でなぞり、アルウィンのように大好きなもので釣られないよう目を背けている顔を覗き込む。
「ハル。今年はもう乗らないし、来年も乗らなくても大丈夫だから、繁殖が先のほうがいいかなと思うんだけど」
「繁殖……?」
ハロルドがぽかんとした表情になる。
「うん。今日だけじゃダメかもしれないけど、ひと月くらい毎日すれば……できるよね?」
「毎日……」
「たくさん我慢してくれたから、たくさんしていいよ。そのう……優秀な種牡馬でも、一回じゃ上手く種付けできないこともあるし……」
「種牡馬……種付け……?」
ハロルドの目が段々虚ろになっていくのを見て、ビヴァリーはその頬を両手で包んで、お願いした。
「ハル……いや?」
ハロルドは鳶色の瞳に光を取り戻し、呟いた。
「……嫌じゃない」
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