(34)最後の手紙
『聖良ちゃんへ
失恋以外の結末が存在しない恋をしました。
青井が聖良ちゃんのこと好きだって、私は他のだれよりも知ってます。きっと、当事者の聖良ちゃんよりも。
「好きで恋してるわけじゃない」って、いつだったか聖良ちゃんに言った気がするけど本当にその通り。
恋する相手を選べたら、私の人生はもう少し楽だったかもしれません。
この気持ち、聖良ちゃんにはわからないよね。
だって、聖良ちゃんは青井に好かれているだけじゃなくて、成績も、運動も、身長も、なにもかも私より上だから。
私はずっと負けっぱなし。
……そうです、ひがみです。
聖良ちゃんが涼しい顔してちゃんと努力してることは知ってます。涼しい顔が魅力だってこともわかってます。
それでも、私は聖良ちゃんのことが憎たらしくて、うらやましくてしょうがないんです。
青井に恋することにも、聖良ちゃんについて悩むことにも、いいかげん疲れてきました。
そろそろ終わりにしたほうがいいのかもしれません。
受験勉強も含めて思い通りにならないことばかりで、夜になるたび胸をかきむしりたくなって、「いっそ死んじゃおうかな」と頭に浮かぶこともあります。
私が死んだら、聖良ちゃんは泣いてくれるかな?
私から逃げ回ったこと、後悔してくれるかな?
……こんなことを考えるとか、馬鹿みたい。
くだらない妄想なんてしてないで、さっさと聖良ちゃんに向き合うべきでした。
これが最後の手紙です。
この手紙を読むことがあったら、どうか、馬鹿な私のことを笑ってください。
9月28日 菜々子』
胸に浮かんだことをそのまま文章にしているかのような、まとまりのない内容。
それでいて、大人びた文字は端正だった。
私は目頭を指の腹で揉みほぐす。涙がこみ上げてきたわけではない。ただ、眼底がじくじくと疼くのだ。
周囲に灯りのない薄暮の下、小さな文字を拾い上げる行為は思いのほか過酷だった。
私は一息ついてから、青井に顔を向ける。
青井は階段の最下段に座りこんでいた。膝の上で両手を組んで、祈るような体勢でこちらを打ち守っている。たった数歩分しか離れていないけれど、暗くなってきたせいで表情はうかがえない。
私は「ちょっと来て」と呼びかけた。
青井は「ええ……」と嫌そうな声を漏らしながらも、腰を上げて私へと歩み寄ってきた。
私は砂浜に尻をつけたまま、かたわらに立つ青井を仰ぐ。
「菜々子のスマホって、護岸のどこにあったの?」
「……消波ブロックの上」
「海の近く?」
「うん。消波ブロックから落ちるぎりぎりのところにあった。このままだと高波にさらわれると思って、とりあえず回収したんだけど……」
青井の語尾が消える。きょどきょどと周囲をうかがってから、その場にしゃがみこんだ。
「……スマホを警察に届けたら俺が遺書を抜き取ったことがバレるかもしれないって、怖くなって堤防に置いて逃げたんだ。そのあと、高波に飲みこまれて海に落ちたんだと思う」
青井は私の視線を避けるように顔を伏せながら、小声で続けた。
私は「そう」とうなずいた。
「スマホ、壊れてたんだっけ?」
「画面がバキバキに割れてて、電源も入らなかった」
「だから私が菜々子に折り返しても圏外だったんだね」
私は納得しながら、青井に教えてもらった情報を頭のなかで並べてゆく。
消波ブロックの上に残された、すでに壊れていたスマホ。
ぬいぐるみポーチに入っていた手紙。
手紙の文面は中学生のころのような奔放さは薄れていたけれど、いかにも菜々子らしくて――。
胸が苦しくなってきたから、私はいったん呼吸を止めた。
三秒数えてから、今度は深く息を吸って――声を、発する。
「――これ、遺書じゃないと思う」
不確定な憶測は舌に乗せた途端、確信に変わった。
青井がひっくり返りそうな勢いで顔を上げる。
「ど、どうして!?」
「なんとなく」
さらりと答えた私に、青井は「ええっ!?」と口を開けたり閉じたりを繰り返した。
私はさすがに言葉が足りなかったと反省しながら、菜々子の“習性”について説明する。
「菜々子にとって、手紙は特別なものじゃない。私と仲違いした後も、ことあるごとに私宛の手紙を書いて、だれにも渡さないまま机のなかに溜めこんでたから」
「でも、この手紙はポーチに入ってたんだよ?」
激しい剣幕で問い返してきた青井を、私は冷静に見返す。
「菜々子が去年の八月に書いた手紙も『お守りにする』とか言って、ポーチにしまいこんでたみたい。青井がスマホを拾ったときにはこの手紙が入ってたってことは、死ぬ前に入れ替えたのかも」
私の知っている菜々子を、青井と共有していく。
菜々子の素顔が私だけのものではなくなって、心に落ちた影がわずかに揺らいだような気がした。
「学校に行く前に、菜々子は最後の手紙を書いたんじゃないかな。古いほうの手紙は、菜々子の部屋にあったから」
「……『これが最後の手紙です』って書いてあったのに?」
「手紙を書くのはこれで最後にする、ってことだったんじゃないかな。八月の手紙に、『このまま出せない手紙を書き続けても意味ないから、春になったら私に話しかけよう』みたいなこと書いてあったし。だから、菜々子は青井に告白したあと、私に電話をかけてきたんだよ」
話しているうちに、菜々子の心の輪郭に触れられたような気がした。なのに菜々子の面影は揺らめき、おぼろげになってゆく。
「この手紙は私と仲直りするための台本で、筋書きだったんだと思う」
私はまぶたを下ろし、まなうらに菜々子を思い描いてみる。
学校の廊下で見送った、白い夏服の後ろ姿。
菜々子を最後に目にしたのは、いつだったろうか。
「菜々子は青井に告白して、計画通り振られて。落ちこんだ勢いで私に電話をしたけど留守電だったから、カッとしてスマホを投げちゃったんだよ。スマホは消波ブロックに引っかかったけど、叩きつけられたときの衝撃で壊れたんじゃないかな」
実際に目撃したわけでもないのに、自分でも驚くほどはっきりとした口調で語っていた。
青井は「……そんなことってある?」と愕然とした声を漏らす。
私は「ある」と力強く首肯した。
「菜々子は手当たり次第になんでも投げるから。大事なものまで壊しちゃわないように、ふかふかのポーチをあげたくらいだし」
青井は「……そうなんだ」と沈鬱な声を漏らした。
私は再び口を開く。
「菜々子は壊れたスマホを拾おうとしたんだと思う。それで、消波ブロックの上で足を滑らせて――」
海に落ちた。
そう言おうとした瞬間、ずっと意識の片隅にいた菜々子の影がなんの前触れもなく溶け流れた。喉の奥につかえていたものが消滅し、あばらの隙間にぽっかりと穴が空く。
私は猛烈な喪失感に襲われ、心臓のあたりを押さえた。
冷え切った胸に重たい海風がぶつかってきて、息ができない。
「……つまり、事故ってこと?」
青井が探るように訊いてきた。
私は「うん」と鈍い動作でうなずいた。
「だって、私たちよりずっと多くのことを把握してる警察のひとが、最終的に事故だって判断したんだし。伶子さん――菜々子のお母さんだって、『菜々子が自殺するとは思えない』って結論づけたんだから」
青井は「それは……まあ……」と歯切れのわるい返事をした。頭では理解していても、腑に落ちていないのかもしれない。
「青井は菜々子のこと、よく知らないんでしょ?」
青井は「うっ……」と顔をしかめた。
「菜々子のいとこで幼なじみの私は、この手紙を読んで『自殺じゃない』って直感した。そして青井の話を聞いて、直感は間違ってなかったって確信したの」
私は一息に言い切ってから、青井の両目をのぞきこんだ。
互いの息が触れ合いそうな距離まで顔を寄せると、相手の瞳が揺れていることをなんとか見て取れた。
「……認められないよ、そんなこと」
青井は私の両肩をつかんで、やんわりと押し返してくる。
「俺が勝手に勘違いして、空回りして、魚住さんを苦しめたなんて……」
手先は小刻みに震えていた。嗚咽をこらえているかのような息が、耳につく。
十数秒の間を置いてから、青井は大きく息を吸って――。
「お願いだから、俺のこと嫌いになってよ!」
夜を切り裂くような声で叫んだ。
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