(26)あの子に春は来なかった

 最初に手にしたのは、よりにもよって菜々子と仲違いした直後の手紙だった。



『せいらちゃん、なんで私から逃げようとするの?

 あのときはスマホ投げちゃったけど……でも、逃げるほどのこと?

 せいらちゃんだって、「菜々子はすぐに物を投げるから、大事なものを壊さないように」って、クマのポーチをくれたくせに。


 せいらちゃんがいなくても退屈じゃないけど、なんか落ち着かないよ。

 ママも気にしてるみたいだし、早く仲直りしないと。

 だから、せいらちゃん、逃げないでください。


 ……ってしおらしく書いてみたけど、やっぱりむかつく!

 せいらちゃんなんてもう知らない! この手紙も破って捨てるから!』



 覚えのある感情が紙面から溢れていて、手紙を持つ手指に冷や汗がじわりとにじんだ。


「このままではいけない」という焦燥感。

 相手の気持ちが理解できないゆえの煩悶。


 心臓を長い針で刺し貫かれたかのように胸が震え、手紙を放り出したくなった。

 今ならまだ戻れる。致命傷は負っていないのだから。手紙をかき集めて、箱にしまって、クローゼットの奥にしまいこんでしまおう。

 頭のなかで算段をつけながらも、私は手紙を手放すことができなかった。

 まばたきさえも困難で、どうすればいいのかわからないまま末尾に書かれた日付をにらみつける。

 ――中三の十一月末。

 箱に納められていた手紙の中で、一番古いかもしれない。


 私は手紙を拾い集めて日付を確認し、手もとで時系列順に並べてみる。

 肺の中の空気を吐き切って、それからまた吸って――腹をくくってから、次の手紙に目を通した。



『せいらちゃんが高校に入っても目も合わせてくれないなんて、さすがに思ってなかったよ。

 しかも、私のことしらんぷりするのが上手すぎてむかつくんだけど!

 私なんて、友だちに「どうしたの?」って言われるくらいあたふたしちゃうのに……。

 このままだと、私がせいらちゃんに片想いしてるってかん違いされ……はしないと思うけど、心臓によくないので、私から話しかけても逃げないでください!』



 手紙の日付は高一の四月だった。

 軽い文体とは裏腹に、神経質なまでに細い字が並んでいる。文字の隙間に焦りと不安の色が潜んでいるような気がして、気鬱さがふくらんでいった。


 私はゆっくりと紙束をめくる。

 次の手紙は、高一の九月のものだった。



『せいらちゃんが私を避けてる理由って、実は単純じゃないのかも。

 私がいやなこと、どうでもいいこと、せいらちゃんには関係ないことを片っぱしからしゃべってたから、うんざりさせちゃったのかな……。

 そういえば、せいらちゃんって自分からはそんなに話したりしなかったね。

 私が一方的に好きほうだい言っても、せいらちゃんが嫌な顔しなかっただけで。

 かといって、せいらちゃん、私の話をぜんぜん聞いてなかったわけでもなさそうだったし……。


 私、せいらちゃんに甘えてたのかな。

 ずっといっしょにいたけど、せいらちゃんにとっては、なにもいいことなかったのかも。

 せいらちゃんのこと、なにもわかってなかった。

 今からでも、ごめんって言いたい。

 でも、私とはもう話したくないよね。

 この手紙も、出さずに捨てようと思います。』



 手紙を読んでいるだけで息が詰まった。


 幾分か大人びた文字の裏にひそむ、「私が悪かった」という叫びが聞こえてしまったから。

「わかりたいのに」「わかってほしいのに」という心細さがよみがえってきたから。

 過去の菜々子の叫びが、私の抱える生々しい痛みを刺激したから。


 青井に拒絶されなければ、私は菜々子の心の声に気づくこともなかっただろう。恋を知ろうと必死になった過去は、菜々子を理解する上では決して無意味ではなかったのかもしれない。それは喜ばしいことではなく――むしろ皮肉なことだった。

 菜々子が私に向けていたまなざしなんて、知りたくなかった。


 胸が軋む音を無視しながら、不器用な手つきで次の手紙を開く。

 高二の六月に書かれた手紙だった。



『せいらちゃんのことどうでもよくなってきたのに、青井が混ぜ返してきやがった!』



 突然飛び出してきた青井の名前に、私は顔を跳ね上げた。

 破裂しそうな心臓をなだめながら、もう一度手紙に目を落とす。



『なーにが「魚住さんのこと好きだから、あんなこととかこんなこととか教えてほしい」だよ。

 せいらちゃんが青井のこと好きになるわけないじゃん! バーカバーカ!

 というか青井はなんで私がせいらちゃんのイトコってこと知ってるの? こわいんだけど。

 もしかして、せいらちゃんが教えたの?

 だとしたら、せいらちゃん、私が思ってるほど私のこと嫌いじゃない?

 私、せいらちゃんにまた話しかけていいかな?』



 私は菜々子の勢いに背中を押されるように、間髪入れずに次の手紙へと移る。

 今度は高二の十月に書かれたものだった。



『せいらちゃん、なんで青井と付き合ってあげないの?

 青井のやつ、いちいち私にせいらちゃんのこと聞きにきて、ウザいっていうか……つらいんだけど。

 こっちはできるだけせいらちゃんのこと考えないようにしてるっていうのにさ。

 誕生日とか、そんなこと本人に聞けばすぐにわかるじゃん!?

 そもそも私より青井のほうが、最近のせいらちゃんについてくわしい気がするんだけど。

 あいつ、ほんとなに?

 私の知らないせいらちゃんを知ってるとか、むかつく。

 せいらちゃん、この手紙を読んだなら、早く青井をどうにかしてください。』



 躍るような言葉が連ねられた文面だった。

 なのに、苦々しさは募ってゆくばかりだ。

 菜々子との関係性を掘り返そうとしたところ、青井に関する記憶までも刺激されてしまったから。青井に対しては、忘れる以外にできることはなにもないのに。


 私はすがるように最後の手紙を開いた。

 今までとは打って変わって、大人びた字で書かれた手紙。

 日付は去年の八月末――菜々子の死の一ヶ月前だった。



『聖良ちゃんが指定校推薦をとれそうだって、青井から聞きました。

 私は聖良ちゃんと同じ学校を目指していて、もうちょっと偏差値の低い学部が第一志望だけど、八月の模試の結果が出て、先生には渋い顔されるし、ママにも「考え直したら?」と言われました。

 でも、今年いっぱいはがんばります。

 そして、聖良ちゃんと同じ学校に行けても行けなくても、春になったら勇気を出して聖良ちゃんに話しかけます。

 出せない手紙を書いて満足しているだけでは、よくないと思うから。

 聖良ちゃんのことわかりたいし、私のこともわかってほしいんです。

 この手紙は聖良ちゃんからのプレゼントの中に入れておいて、受験のお守りにします。』


 ――読む前に燃やしてしまえばよかった。


 私は手紙をそっと折りたたむ。


「――菜々子」


 もうどこにもいない幼なじみの名前を呼んでみた。


「……春なんて来なかったじゃん」


 虚空に向かってささやき、目を閉じる。


 私は菜々子について理解しようともがいていた。

 けれど、なにもかもが遅すぎた。

 菜々子が死ぬ前に、彼女の想いに気づかなければ意味がなかった。その気になれば、いつでも菜々子のもとに行って、「仲直りしよう」と持ちかけることもできたのに。


 後悔に喉もとを締め上げられ、私は空咳を繰り返した。霞む目を手の甲で強くこすって、手紙の束をにらみつける。


『なぜ、菜々子は海で死んだのか』


 なによりも強く望んでいた真実は、断片さえも残されていなかった。

 それどころか、謎は深まる一方だった。

 菜々子は「春になったら私に話しかける」と誓っておきながら、どうして、秋の嵐の日に連絡してきたのだろうか。やっぱり、恋が原因なのだろうか。


 私は最後の手紙を握りつぶす。


 菜々子が恋をしなければ、私と仲違いせずに済んだ。

 菜々子が失恋しなければ、彼女は死なずに済んだ。

 私が恋に関心を示さなければ、青井とひどい別れ方をせずに済んだ。


 恋という不可解で理不尽な感情のせいで、恋愛以外の関係性まで崩れ去ってしまった。

 ――いっそのこと、だれの心にも恋なんて存在しなければよかったのに。


 私は菜々子の真似をして、スマホごとぬいぐるみポーチをベッドに投げつける。

 けれど、胸に充満したわだかまりはまったく薄れなかった。

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