(25)かさぶたを剥がす
まもなく二月が終わる。
私はスマホを片手に、自室のベッドに寝転がっていた。
センター試験が終わってから――正確には青井に「もう関わらないでほしい」と突きつけられてから、茫洋とした日々を送っていた。
一月は義務感で登校していたけれど、二月の自由登校期間になってからは家からほとんど出ていない。
高校最後の冬は空虚で、だからこそ穏やかだった。
学校に行かなければ、青井にばったり会ってしまう可能性も、不意に菜々子の噂話を聞いてしまう危険性もない。
最近は青井についてほとんど思い出さなくなっていった。
さすがに菜々子のことを頭から追い出すことはできなかったけれど。それでも、納骨が済んでからは、ふとした瞬間に感じる菜々子の気配が薄れつつあった。
きっと、時間がすべて解決してくれる。
どんなに生々しい傷口も、乾けばかさぶたができるように。そして、かさぶたが剥がれ落ち、かすかな傷痕を残しながらもふさがるのだ。
私は身を起こし、自分の左ひざを見やった。
広い範囲に及んでいた擦り傷は、跡形もなく消えていた。三原がすぐに傷の手当をするよう促してくれたから、きれいに治ったのだろう。
つるりとしたひざ頭をてのひらで撫でてみる。
あの日、三原に話を聞いてもらえて幸運だった。おかげで、私の「知りたい」という衝動は腹の底で膿むことなく、ゆっくりと冷めつつあった。
くすぶるような胸の鈍い痛みもじきに鎮まる。
大学生活が始まるころには、私は今までのように涼しい顔をして、だれにも深入りすることなく生きていけるようになるはずだった。
私がベッドから降りようとしたとき、シーツの上でスマホが震えた。
ディスプレイを確認すると、三原からメッセージが届いていた。
『本命の試験が終わった!』
『ごめん、返信しづらい内容送っちゃって。
家族以外には、魚住さんしか報告できる人がいなくて……。』
テンションの上がり下がりの激しさに、口もとがゆるんでしまう。笑うのは今年初めてかもしれなかった。
私は『お疲れさま。』とあたりさわりのない言葉を返しながら、窓の外に目を向けた。
――そろそろ身の回りを片づけようか。
レースのカーテン越しに射してくる陽光はぼんやりとしていて、けれど真冬に比べるとたしかに明るかった。
高校の教科書や大学受験の参考書を重ねて、ビニール紐で縛ってゆく。
すっかり身体がなまってしまったせいで、教科書の束をクローゼットに放りこむだけで重労働だった。
一通りの作業が完了してから、本棚をくまなく調べて参考書が残っていないか確認する。
身長よりも高い本棚の最上段に、横倒しになった単語帳を見つけた。背伸びをしながら小ぶりな冊子を引っ張り出そうとして――隣に置いてあった紙の箱に、単語帳の表紙を引っかけてしまった。
蓋の外れた小箱が落下し、数枚の紙片がカーペットの上にぶちまけられる。
「あ……」
私は紙片を見下ろし、思わず後ずさった。
それは、伶子さんに託された、菜々子からの手紙だった。
いつか読まなければと思いながらも、目立たない場所にわざと放置していた。そのままうっかり忘れてしまうつもりだったのだ。
なのに、こんなにも早く再発見してしまうなんて。
呆然と紙片を見下ろしているうちに、かつて菜々子に渡された無数の手紙の記憶がよみがえってきた。
手紙の内容は、いずれもたわいもないものだった。
かわいいメモ帳にカラフルな色のペンで、先生の悪口や勉強そのものがつまらないという嘆き、そしてときどき伶子さんの愚痴が、びっちりと書きこまれていた。
私が返事をしなくても、菜々子は気にしなかった。
『聖良ちゃんが読んでくれれば、それで充分だから』
中学生のころに手紙を書く理由を訊いてみたら、菜々子は珍しく殊勝に言った。
だれかに話すだけで気持ちが楽になる、と。
当時は「ふぅん」と流してしまったけれど、今ならわかる。他者に話を聞いてもらえるだけで、負の感情は紛れるものなのだ。
私は開きかけた紙片に目をやる。
「せいらちゃんへ」という宛名がちらりと見えた。
途端、心臓が雑巾のように締め上げられる。
箱のなかで眠っていた手紙は、菜々子が私に“聞いてほしかった”話で、私が菜々子から逃げなければ行き場を失うこともなかった言葉たちだ。
このまま見て見ぬ振りを続けるのは、あまりに不誠実な気がした。
私はその場にしゃがみこんで、床に片膝をついた。一番近くに落ちていた手紙に、ためらいながらも手を伸ばす。
手紙に指先が触れた瞬間、強烈な拒絶感が電流のように背骨を貫いた。
けれど、知りたいという渇望はいまだに私を支配していて――気づくと手紙を引っつかんでいた。
震える指で手紙を開く。
それがかさぶたを剥がし、生乾きの傷に爪を立てる行為だと、私は正しく理解していた。
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