(24)飢えと疼き

 私は足を滑らせ、前のめりに転んだ。

 とっさに腕を伸ばして、溶けかけの雪のなかに両手をつく。タイツ越しにひざの皮膚がこすれ、冷たい水がしみこんできた。

 じんわりとした痛みを感じた瞬間、耳栓を外したように世界に音が戻ってきた。


 視界の薄暗さ。

 耳の先がちぎれそうな寒さ。

 顔に塵のような雪がぶつかってくる感触。

 ありとあらゆる知覚が復活し、数秒遅れて思考がよみがえる。


 ――試験、もう終わったんだっけ?

 私は地面に膝をついたまま顔を上げる。

 すでに日はとっぷり暮れていた。

 街の灯りが路上に積もった青白い雪を照らし、タイヤにチェーンを巻いたトラックがゴリゴリと音を立てながら県道を走り抜けてゆく。

 雪で白んだ世界に浮かび上がる駅ビルを見上げ、ここはセンター試験会場の近くだと思い至った。知らず知らずのうちに試験を終え、帰路についていたようだ。


 呆然としていると、だれかが私の前で立ち止まった。


「……大丈夫?」


 かすれた鼻声がして、手袋をはめたてのひらが差し伸べられる。

 視線を上げると、傘をさした三原がいた。

 三原は気がかりそうに眉尻を下げる。


「あの、魚住さんが傘も持たないで歩いてたから、気になっちゃって……」


 私は差し出された手を無視して、自力で立ち上がった。

 上背があるとはいえ、並の男子よりもはるかに華奢な三原を支えにするのは気が引けた。


 三原は私の全身を見渡すと、「膝、痛そう」とつぶやいた。


「べつに痛くない」

「でも、そのまま帰るわけにはいかないよ……。コート濡れちゃってるし、ファミレスに入らない?」


 三原の提案に、私は黙ってうなずいた。




 互いに一言もしゃべらないまま、近くのファミレスに入った。

 私はびしょびしょになったコートと手袋を椅子の背もたれに引っかけ、改めて自分の身体を確認する。

 黒タイツの左膝が抜けてしまった以外は、特に問題はなさそうだった。剥き出しになった皮膚に血がにじんでいるけれど、ただのすり傷だ。


 私は椅子を引き、勢いよく腰かけた。思いのほか荒っぽい動作になってしまい、頑丈な造りの背もたれが軋む。


 三原が「あ、あの……」と遠慮がちに話しかけてくる。


「タイツ、新しいの買ってこようか……?」


 三原は私の態度に臆しているのか、学校で話しかけたときのようにびくびくとしていた。

 私は三原と目を合わせないようにしながら、「うん」と鈍い返事をした。

 今の自分がどんな面持ちなのかわからなくて、顔を上げられなかった。もしかしたら、三原をますます萎縮させてしまうかもしれない。


「あの! 和風ハンバーグのライスセット、注文しておいてくれたらうれしいなぁ……なんて」


 三原が控えめに頼んでくる。


「あと、ドリンクバーもお願い」


 さらりと付け足すと、財布と傘を手に席を立った。




 料理を注文してぼんやりとしていると、三原が息を切らしながら戻ってきた。


「お待たせ。絆創膏とアルコールティッシュも買ってきたよ」

「ありがと。いくら?」

「お金は後ででいいから、まずは着替えたほうがいいと思う」


 痛そうだもん、と三原は眉根を寄せる。

 沈痛な声音だった。

 私自身がどうでもいいと感じていることでも、露骨に心配されてしまっては大人しく従うしかなかった。




 トイレで堂々と膝のすり傷を処置して、新しいタイツを履く。

 ふと鏡に目をやると、青白い顔をした私が茫洋とこちらを見返してきた。

 細い毛髪は湿気を吸ってぐちゃぐちゃに乱れ、顔周りの髪が数筋、頬に貼りついていた。乾いたくちびるはひび割れて、血がにじんでいる。


「ひどい顔……」


 手ぐしで髪型を整えながらぼやいた。

 どうりで、三原が私に身なりを整えさせようとしたわけだ。




 テーブルに戻ると、すでに食事がそろっていた。

 私の席には、鉄板の上に置かれた巨大なステーキが置かれている。


「……こんなもの頼んだっけ」


 椅子に座って肉が焦げる音を聞きながら、凝り固まった眉間を指先で揉みしだく。たしか、季節メニューの表紙に載っていたおすすめ品を注文したような……。

 十数分前のことを思い出そうとし――青井が脳裏によぎって、頭のなかが真っ白になった。

 とっさにフォークをつかむ。記憶をかき消すように、ステーキの真ん中に突き刺した。

 靴底サイズの赤身肉に犬歯を立てる。


「いただきま――」


 三原の間延びした声が不自然に途切れた。


「う、魚住さん……?」


 三原が唖然としている気配が、ひしひしと伝わってくる。


 私は三原を無視して、犬歯でステーキを引き裂いた。くちびるの端からこぼれた肉汁が顎を伝い落ち、テーブルを点々と汚した。

 弾力のある肉を奥歯でかみしめると、コショウの香りを押しのけるように血なまぐささが口のなかに広がってゆく。

 味は――正直よくわからない。

 付け合わせのソースをかけ忘れていたけれど、どうでもよかった。


 ひたすらステーキをむさぼる。

 私を支配している苛立ちや恐怖を、食事という行為で追い払うように。


 あっという間に肉がなくなった。

 今度は鉄板の上に、セットのライスをぶちこんでやった。ステーキソースと肉汁と野菜といっしょにかき混ぜて、ほとんど咀嚼せずに胃に流しこむ。

 肩で息をしながらドリンクバーのウーロン茶を飲み、紙ナプキンで顔の下半分を拭って――それでも私の食欲は止まらない。

 飢えがひどかった。心に空いた穴を、食べ物で埋めようとしているのだろうか。


 ――こんなんじゃ足りない。

 私は衝動に駆られるまま、粗暴な動作でメニューに手を伸ばす。

 三原が「え、ええ……?」と戸惑ったような声を漏らした。


「ま、まだ食べるの……?」


 三原の目にはおびえたような色があった。

 私は息をのむ。赤く腫れ上がった胸の奥で、渇望感が急速にしぼんでゆくのがわかった。

 気づいたら、メニューを手放していた。

 空いた手で胃のあたりを撫でてみる。

 そして、ようやく悟る。


「……私、お昼ごはん食べてなかった」




 追加で頼んだガーリックトーストとフライドポテトと鶏の唐揚げが、ずらりとテーブルに並べられた。

 これだけあれば大丈夫だろうという安堵感に、さっきまでの焦燥はすっかり鳴りを潜めていた。


 私がガーリックトーストをちぎりながらゆっくりと食べていると、ようやくハンバーグを食べ終えた三原が箸を置いた。


「魚住さん、落ち着いた?」

「……それなりに」


 三原は「よかった」と控えめに笑った。

 私はガーリックトーストの最後のひとかけらを口に放りこんでから、ウェットティッシュで指先を拭く。


「三原」


 改めて名前を呼ぶと、三原は「うん?」と小首をかしげた。


「あの、私……」


 私はおっかなびっくり記憶を手繰り寄せる。

 いまだ消化しきれていない感情は、その片鱗に触れただけで胸がずきずきと痛んで、思考が痺れて、息が詰まりそうになる。


「……青井に『もう関わらないでほしい』って言われた」


 それでも、なんとか声にすることができた。


「おれもよく言われたよ」


 つらいよね、と三原は喉の奥から絞り出すような声で付け足した。慰めの言葉ではなくて、三原の本音のような気がした。


 会話が途切れる。

 けれど、決して居心地の悪い空白ではなかった。

 低い温度帯で感情が通じ合っている感覚に、鼻の奥がつんとする。

 いくら青井のことが好きでも、不理解は消耗するばかりだった。だから、私はあの日、理不尽な怒りを向けてきた菜々子から逃げ出して――。


 思考が過去に引き戻されそうになり、あわてて唐揚げを口に放りこんだ。

 今、菜々子のことを思い出したら、なにかが決壊してしまいそうだった。


 唐揚げを咀嚼しながら、舌の上に広がる風味に集中する。

 おいしいのかまずいのか、よくわからない。

 まだ、食事を楽しむ余裕が戻っていなかった。


「魚住さんはこれからどうするの?」

「青井が嫌な気持ちになるなら、言われたとおり、もう関わらない」


 毅然と答えたつもりだったのに、語尾が震えてしまった。


「……だって、青井のこと好きだから」


 揺らぐ心に言い聞かせるようにささやくと、腹の底にわだかまっている割り切れない感情が疼いた。


「怖いよ。これ以上嫌われるのは……」


 私は駄目押しのように言葉を重ね、想いに蓋をするように目を閉じた。

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