(23)透明な断絶
私は青井を伴って、人気のない場所――非常階段の踊り場に移動した。
壁を塗りなおしたばかりなのかツンとしたにおいの残る、灰白色の薄暗い空間。
建物そのものが冷え切っているらしく、壁からも床からも冷気がじわじわとしみ出てくる。制服の上にウールのカーディガンを羽織っただけの私は、歯をがちがちと鳴らしていた。
「ごめん、先にメールの返信だけさせて」
青井はよそよそしく断りを入れると、スマホをいじりだす。
スマホにぶら下がっている『受験合格御守』は、前に見たときよりも膨らんでいた。
――指輪でも入っているのだろうか。
期待混じりの推測を、「そんなはずがない」と心の声が否定した。
関係を終わりにしようと言ってきたのは青井だ。今でもペアリングを持ち歩くなんて未練がましいことをすると、とてもではないけれど考えられない。
私は平常心を取り戻すために、冷えた指先に白い息を吐く。てのひらを握ったり開いたりしていると、既知感に襲われた。
脳裏をよぎるのは――放課後の学校で、偶然耳にした男女の口論。別れ話に納得がいかないと食い下がる女子生徒と、感情の冷めきった様子の男子生徒。
恋愛感情の有無という違いはあれど、今の私と青井によく似ている気がした。
あるいは、仲違いした日の私と菜々子を思い出したのかもしれない。
青井がスマホをズボンのポケットにしまうのを見届けてから、私は口を開く。
「べつに、青井の考えを変えたいわけじゃないんだけど。どうして、私との関係を『もう終わり』にしようって思ったの?」
冷静になろうとするあまり、温度の低い声音になってしまった。
青井は気まずそうに頭を掻く。
「これ以上、魚住さんを俺の自己満足に付き合わせるのは悪いと思って……」
「どうして自分ばっかり悪いと思うの? 悪いのは私なんじゃないの?」
「そんなことは……」
青井は決して私と目を合わせようとしない。なのに、背筋は不自然なほどにぴんと伸びていた。怖気づいているというよりも、なにかを隠し通そうとしているように見える。
「私、デートに満足してた。青井がいろいろしてくれて、私の疑問にも答えようとしてくれたから」
「でも、俺ばっかり幸せだったから……」
「どうしてそんなふうに言い切れるの? 私が幸せかどうかなんて、青井にわかるの?」
早口で問いながら拳を握りこむと、切ったばかりの爪がてのひらに食いこんだ。その痛みに、私は奥歯を噛みしめる。
青井はゆっくりと顔を上げ、私を正視した。
「恋をすると、ものすごく幸せなんだよ」
諭すように言い聞かせてくる。
「相手がいるだけで胸が熱くなって、生きているんだって実感がわいてきて、他のことはどうでもよくなって、この子がいるだけでいいって思えて……会えなくなることが怖くなるんだ」
「だから、失恋は不幸でつらいことなの?」
「……鵜飼いちゃんが失恋のせいで亡くなったとはかぎらないよ」
青井の発言は、論点がずれているような気がした。
それでも、私は返す言葉を失ってしまう。
青井の言うとおりだ。
私は頭のなかで『菜々子は失恋して死んだ』と勝手にストーリーを作り上げてしまい、それにとらわれすぎているのかもしれない。警察の発表どおり、ただの事故だった可能性だってあるのに。
そんなふうに頭では理解していても、私は恋という未知の感情を恐れ、同時に焦がれ続けていた。
本心では菜々子を理解したくないのかもしれなかった。
菜々子に対する未消化の想いを抱えて、ときどき自分を責めながら恋ができないことを嘆き続ける――。そんな自傷めいた欲求を抱いていないと、言い切る自信がなかった。
私が思考の泥沼にはまりこんでいると、青井が「それじゃあ……」と立ち去ろうとした。
「待って!」
私は声を張り上げる。
「あの……私、生まれつき恋ができないのかもしれなくて」
気がつくと、隠しておきたかったはずのことを口走っていた。
青井の動作が止まる。
「……アロマンティック、っていうんだって」
私はどうにかして青井をつなぎ止めようと、急いで言葉を重ねた。
青井の視線が私に向けられる。
「生まれつき恋愛感情を持たないひとのこと。私、それみたい」
いつしか、私は全身びっしょりと汗ばんでいた。ついさっきまで、寒さに震えていたはずなのに。
「……初めて聞いた」
青井が私に向き直った。
「アロマンティックの場合は、同性も、異性も、恋愛感情の対象にならないけど。でも、少数派だってことには変わりないはず」
青井は「そうなんだ」と拍子抜けしたようにつぶやいた。
いつもの青井が戻ってきたような気がして、私はこっそりと胸をなで下ろす。
「いつ、恋愛感情が持てないってわかったの?」
青井はおっかなびっくり私に踏みこんできた。淡々と話そうとしているようだが、寄り添うようなやわらかさが滲み出ていた。
「キスしたとき、かな」
私は相手の反応をうかがいながら、言葉を選んでゆく。
「ぜんぜん嫌ではなかったんだけど……。心拍数が速くなったり、身体が熱くなったりはしなかったから、私は恋ができないんだって確信した」
「……そっか」
青井の表情がくもる。
私はあわてて「でもね」と続けた。
「キスをしてもなんとも思えなかったことが、すごく悔しかった。青井のこと、好きなのに。心の底から好きなのに」
すがるように「好き」を繰り返してしまう。いくら言葉にしたところで、私のほんとうの気持ちなんて伝わるはずがないのに。
「私なりに悩んで、どうにかしたいと思って。そんなとき、たまたま三原からアロマンティックについて教えてもらったんだけど……」
青井の表情が凍りついた。
「三原くん?」
すべての色が消え失せた青井の声に、私は頭から氷水を浴びさせられたような衝撃を受けた。
「つまり、魚住さんは三原くんと連絡とってたってこと?」
青井は怒っているような、泣き出すのをこらえているような、ひりついた顔つきをしている。
「……菜々子について、三原と話さないといけないことがあったから」
我ながら卑怯な言い訳だった。死んだ身内の名前を出したら、良心的な人間なら追及してこないとわかっていた。
案の定、青井は激情をこらえるような硬い面差しのまま、押し黙ってしまう。
私は胸の前で合わせた両手をしきりに揉みながら、上目遣いで青井の顔をのぞきこんだ。
「青井と付き合ってるのに、他の男子と連絡とってたのが駄目だったの?」
「そんなこと、ないけど……」
私は青井との距離を詰めた。
「私に悪いところがあったならぜんぶ教えて」
自分に落ち度があるのはたしかだけれど、かといってどう振る舞えばいいのかわからなかった。
「恋をしてるひとがなにをされたら嫌なのか、なにを言われたら傷つくのか、ぜんぜんわからない。知らないうちに無神経なことをしてたらどうしようって、怖くてしょうがないのに」
必死に言葉を連ねながら、青井の腕にしがみつく。
「ねえ、私、青井のこと傷つけた? 嫌われるようなことした? なにがいけなかったの? 三原と連絡をとっていたから? 青井といるときも菜々子のこと考えていたから? 青井と手を繋いだとき、楽しそうにできなかったから? それとも……キスしていても平気な顔をしてたから?」
問を重ねるたび、青井は苦しそうな顔をした。
私は胸を強く殴られたような鈍痛を覚えた。恋の幸福感は共有できないのに、息苦しさはたやすく伝播する。
きっと、私がしゃべればしゃべるほど、青井を傷つけてしまうだろう。
「私、どうすればいい……?」
自分のものとは思えないほど、心細い声音が漏れた。
青井がはっとしたように肩を引きつらせた。
異常なものを前にしたかのような目つきで私を凝視した後――深くうつむいてしまう。
「好きなのに恋できないって言われても……俺にはその気持ちを理解できないよ」
青井は消え入りそうな声でうめき、黙りこんでしまう。
私は青井の腕にかじりついたまま、相手との間にある透明な断絶を見つめていた。
自分とありとあらゆる他者との境に横たわる、埋めようのない隔たり。
一度はくちびるの触れ合う距離まで近づいたからこそ、溝の深さを身をもって知ってしまった。
「……限界なんだ」
青井はため息をつくと、私の手を引き剥がそうとする。吐き捨てるような台詞とは裏腹に、私に触れる手は温かい。
「魚住さんに付き合っていると、罪悪感に絞め殺されそうになるんだよ」
青井は一歩退いて、静かな目つきで私を見下ろしてくる。突き放すような冷徹さと、薄氷の上に立っているような危うさが、同時に存在するまなざしだった。
「もう、俺に関わらないでほしい」
私は内臓が冷たくなってゆくのを感じる。
「嫌だ」と叫ぼうとして、できなかった。
相手の関係を絶ちたくなければ、恥も外聞もなく泣きわめけばいいだけのこと。青井はやさしいから、私を見捨てることができない。
それがわかる程度には私はずるいのに、「うん」とおとなしくうなずいてしまった。
菜々子が言った通りだった。
私はしらけた顔をして、なにも知らないふりをして生きていくことしかできない。
傷つき傷つけながら求めるものに手を伸ばす強さを、私は持ち合わせていなかった。
「さよなら、魚住さん」
途方に暮れる私を置いて、青井が去ってゆく。
私は青井の上着の裾をつかもうとして――指一本、動かせなかった。
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