(27)恋人と友人

 なにごともないまま三月に突入し、卒業の日を迎えた。


 最後のホームルームが始まる前の、休み時間。

 トイレへ行った帰り際、廊下で友だちとじゃれ合っている青井とすれ違った。

 私は青井と目を合わすことなく、他人同士の距離を保ったまま早足で通り過ぎてゆく。

 きっと、私は平然とした顔をして、なにひとつ不自然さのない動作をできていたのだろう。青井がこちらに意識を向けてくる気配もなかった。


 ――嫌だ。


 心にささやかな波紋が広がってゆく。


 ――こんな結末、私は望んでいない。

 青井のことも、菜々子のことも、あきらめられるはずがないのに。


 下くちびるを噛みしめたまま教室に入ろうとすると、スカートのポケットでスマホが震えた。

 思考を切り替えるために、スマホを取ってディスプレイを確認する。三原からメッセージが届いていた。


『あとで会える?

 このままだと、だれとも話さずに卒業式が終わりそう……。』


 シンプルな文章は、涙の絵文字に彩られていた。「もしよかったら」みたいな前置きがないあたり、ふりではなく本気で私に泣きついているのだろう。

 私は『夕方でいいなら』と返信しておいた。




◇◇◇




 海辺のカフェで友だちと昼食をとって、デザートまで食べていたせいで、学校に戻ったころには十六時半を過ぎていた。

 私は放課後の校舎の階段を駆け上がり、三原のもとへと急ぐ。


 三年生の教室がある四階には、だれもいなかった。

 自分の存在を主張するように盛大に足音を鳴らしながら、待ち合わせ場所の教室に飛びこむ。


「来てくれたんだ」


 壁に手をついて息を切らしていると、窓際の最後列の席に腰かけた三原が微笑みかけてきた。

 私は近くにあった机にリュックを下ろし、コートを脱ぐ。西日の射しこむ教室は暖かかった。


「待った?」


 胸元のスカーフを整えながら、三原に歩み寄る。

 三原は小首を傾げると、机の上に置いたハードカバーの本をぽんと叩いた。


「ずっと読書してた」

「入試は?」

「昨日発表だったけど、合格してたよ」

「おめでとう」


 三原は「ありがとう」とはにかんだように笑みをこぼした。

 すぐに気を引き締めるかのように背筋を伸ばすと、「魚住さん」と私をまっすぐに見上げてくる。


「おれのところに来てくれてうれしい。魚住さんのおかげで、高校時代のことを思い出してもそんなにつらくならずに済みそう」


 三原の席の前にたどりついた私は、返事の代わりに窓を開けた。

 冷たくて少し湿った空気が、音もなく流れこんできた。

 新鮮な潮のにおいが、教室内に充満していた木の床のにおいとじわじわ混ざり合ってゆく。三年間慣れ親しんだ、この学校特有のにおい。


「あの……おれと付き合わない?」


 額に浮かんだ汗を乾かしていると、三原がぼそりと問いかけてきた。

 私は「は?」と三原を振り返る。


「付き合うって、恋人ってこと? 私も三原も恋がわからないのに?」


 三原は神妙な面持ちで顎を引いた。


「今日みたいな特別な日に、いっしょにいてくれるだれかがほしくて……」


 私は窓枠にもたれかかり、腕を組んだ。


「三原は恋人と友だち、どっちがほしいの?」


 純粋な疑問だった。

 三原は驚いたように顔を上げ、口を半開きにしたまま目をぱちくりさせる。

 やがて、ばつが悪そうに窓の外へと視線をそらしてしまった。


「……友だちがほしい」

「だったら今のままでいいじゃん。私、卒業してからも三原とは連絡とりたいし」


 三原がおどおどと私を見上げる。


「魚住さんはおれが友だちでいいの……?」

「むしろ友だちじゃないと思ってたの? あれだけ私の話を聞いてくれておいて?」


 三原は「友だちの基準がわからなくて……」と目を伏せてしまった。


「おれが相談に乗ったりすると、みんな『付き合おう』って言ってくるから……。恋愛感情があろうとなかろうと、話を聞いてあげる間柄って友だちというより恋人なのかなって」

「私以外の人間は三原に話を聞いてもらえたことがきっかけで、恋愛感情が芽生えたってこと?」

「たぶん……」


 三原は迷子のような表情をする。


「前に付き合ってくれた女の子には、『親身にしてもらえてうれしかった』って言ってもらえたし。菜々ちゃんも『三原、いいやつなのに避けられててもったいない!』ってぷんすかしてたよ」

「菜々子は三原になんの相談をしたの?」

「相談というか……。菜々ちゃんが校舎の隙間にスマホを落として困ってたから、おれから声をかけて、いっしょにスマホを回収しようとして……」


 三原は急に歯切れの悪い口調になった。

 私は窓枠から離れ、三原の顔をのぞきこむ。


「菜々子は三原が親切だったから恋をしたってこと?」

「どうだろ……?」


 三原はくちびるをいじりながら考えこんでしまう。

 私も同調するように首をひねった。


「菜々子が三原に惚れたのには、べつの理由があるの? 顔とか?」

「えっと、そうじゃなくて……」


 三原の困惑したような瞳が私を映す。


「菜々ちゃん、おれを振ったとき、なんだか晴れ晴れとした顔をしてたんだ。だから、おれと別れてせいせいしたのかなぁって……」

「つまり、菜々子は三原に恋してなかったってこと?」

「わからない。菜々ちゃんが自分に恋していたのか、違ったのか」


 私は「そう」とだけ応え、再び窓枠に寄りかかる。顎に片手を添えながら、壁に残されたままの「全員必勝」と書かれた掲示物をにらみつける。


 ひょっとして、菜々子が失恋した相手は三原ではないのだろうか?

 だとしたら、他にだれがいる?

 失恋したタイミングで私に電話をかけてきたということは……菜々子が中学のころに恋していた人間?

 それとも――。


「海、きれいだよ」


 思案にふけっていると、三原が窓の外を指さした。

 私ははっとして振り返る。


 熟しつつある斜陽が網膜に絡みついてきた。

 流れる雲が輝き、春霞で境目があいまいになった空も海も金色がかっていた。

 水平線近くに垂れこめた雲の隙間からは、対岸の山々がのぞいている。富士山の裾野も見えた。


 私は開け放った窓から身を乗り出してみる。

 県道の向こう側にあるリゾートマンションの陰になって、芝崎海岸は見えなかった。


「屋上に行けば、波打ち際も見えるかな」


 いつの間にか私の隣に立っていた三原が、ぽつりとこぼした。

 私は口のなかで「屋上」と繰り返す。

 やけに引っかかる単語だった。最近、どこかで耳にしたような――。


『屋上の鍵、貸してあげましょうか?』


 突然、西藤先生の言葉がよみがえった。

 たしか、青井と職員室の前で会話していたときに聞いた台詞だった。


 青井。

 その名前が意識に上るだけで胸がざわめき――ノイズのような揺らぎの彼方に、ガラス片に似た違和感がちらばっていることに気づいた。

 頭のなかで、いくつもの違和感を拾い上げ、繋ぎ合わせてみる。

 なにか像を結びそうになると、あと一歩のところで崩れてしまって、なかなかまとまらない。

 かといって、簡単にあきらめられるほどおぼろげな姿ではなく、組み上がったものの向こう側にこそ私が求めているものがあるような気がして――。

 そして、ひとつの可能性にたどりつく。


 ――台風の日、青井は屋上へ行き、芝崎にいた菜々子を目撃したのでは?


 だとしたら。

 私は青井のことをあきらめるべきではないし、菜々子を理解することをあきらめなくても済むかもしれない。


「ごめん、三原。ちょっと屋上に行ってくる!」


 私は手足に絡みついた諦念を振り切るように、教室を飛び出した。

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