(28)まだ間に合うのなら

 階段を駆け下りて、職員室に飛びこむ。机で書きものをしている西藤先生のもとへと、迷わずに走り寄った。


「すみません、屋上の鍵を貸してください!」


 私が単刀直入に頼むと、先生は四角い眼鏡の奥で目をしばたたかせた。


「珍しいですね、そんなにあわてて……。どうしたんですか?」

「あの、夕日が」


 私の雑な回答でも、先生は「なるほど」と納得してくれた。


「学校に来るのは、今日が最後ですもんね」


 立ち上がって、後ろにある鍵箱を開ける。


「この高校の生徒として特権を行使するには、ぴったりの日です」


 語りながら鍵を選び取って、手渡してくれた。

 私は鍵を握りしめながら、「あの」と口にする。


「九月の台風の日、青井に鍵を貸したりしましたか?」


 先生は視線を上のほうに向けながら、「どうでしたかね……」と腕を組んだ。


「前に青井くんに鍵を貸したのは……彼が『荒れた海の様子を見たい』と言ってきたときでしたね。そうです、台風が来てました。浜辺に行かれても困るから、屋上の鍵を貸し出すことにした記憶があります」

「それって放課後でした?」


 先生は「ですね」とうなずいた。

 私は「すぐに戻ってきます!」と勢いよく職員室を後にした。




 階段を一段飛ばしで駆け上がる。

 屋上の鍵を開け、塔屋の鉄の扉を押し開くと――橙色しか存在しない、ほのかにけぶった世界が広がっていた。

 淡い海のにおいをかきながら無人の空間に進み出て、空の広大さに圧倒される。四階建ての校舎は近隣で一番高い建物だから、遮蔽物が存在しないのだ。


 私は屋上の端にある高いフェンスの前に立って、金網に指を絡める。

 フェンスの向こう側に横たわる海は、熟した夕日に照らされ黄金色に輝いていた。

 それは、消えゆく炎の色に似ていた。

 菜々子の命も、私たちの青春も、ひとびとの営みも、やがて終わりを迎えて海の底へと沈んでゆく。その際に発せられる最後の光が、海面に集っているのかもしれない。


 私はフェンスにかじりついたまま、芝崎の埋立地を眺めた。

 沖に張り出した岩場は、平時ならざらついた波模様に囲まれている。でも、今日の海は鏡のように凪いでいた。


 菜々子が愛し、そして死んだ海。

 静かで、穏やかで、明るくて――死のイメージからはほど遠いと、改めて思った。


 芝崎を視界の真ん中に置いたまま、台風の日の青井に思いを馳せる。

 おそらく、青井は屋上ここから海を見て、芝崎にいた菜々子を目撃した。そして職員室へ屋上の鍵を返し、退室したところで私に会ったのだろう。

 菜々子からの伝言について話したとき、他人事のはずなのに顔をこわばらせた青井が脳裏によみがえる。

 いそいそと私の前から去った青井は、菜々子のもとへと走ったのだ。その後、菜々子に会えたかどうかはわからない。


 私は目を閉じる。

 網膜に焼け付いた夕焼けはあおぐろく、深海めいた色をしていた。

 一方で、まぶたを透ける夕日はあかあかとしている。

 まるで生と死のはざまに立っているかのようだった。


 死者ななこと向き合うことは、どんなに強く望んでも叶わない。けれど、生者あおいと対話することなら、まだ間に合うはずだ。

 青井のなかに残された菜々子の断片を拾い上げることだって、今ならきっと――。


 私はまぶたを上げ、深呼吸をした。まだ冷たい空気に頭が冷えてゆく。

 ポケットからスマホを取り出し、青井の連絡先を呼び出した。


『菜々子が死んだ場所に来て。』


 絵文字をひとつも添えていない、冷淡な文章。

 短いメッセージを何度も見直してから、意を決して送信ボタンを押した。

 すぐに「既読」になる。

 返事はなかった。


 私はフェンスにもたれかかりながら、太陽の位置がじわじわと低くなってゆく様をのぞんだ。

 指定した場所に青井が現れるか、私にはわからない。しつこく接触をはかろうとしたせいで、ますます嫌われてしまった可能性だってある。

 それでも、待ってみようと思った。青井が私に付き合ってくれる未来を、信じてみようと決めた。

 今の私は、青井が下した選択を受け容れることしかできないのだから。




 身体が芯まで冷えてきたころ、青井とおぼしき人影が後者の真下にある県道から芝崎の埋立地へ走り出てきた。人影は消波ブロックの積み重なった堤防沿いの道を中程まで進み、芝崎海岸に着く手前で立ち止まる。

 私はフェンスに張りついて、人影に目をこらした。

 人影との距離は、目測で三百メートル弱。

 生まれつき視力がいいおかげで、人影がうちの高校の制服を着ていることがわかった。


 人影――青井はあたりを見回し、すぐに屋上の私に気づいたようだった。いや、私が屋上にいると、最初から知っていたのかもしれない。

 青井の表情はわからなかった。屋上にいる人間は私だと、青井が認識していたかも不明だ。

 それでも、私たちの視線はたしかに重なっていた。


 私はスマホにメッセージを打ちこんで、青井に送信する。


『いま行く。待ってて。』


 十数秒後、青井が着信に気づいたようなそぶりを見せた。

 私はきびすを返し、青井のいる海を目指す。

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