第4章 芽生えぬ春にきみと
(29)ふたつの影法師
私は西藤先生に屋上の鍵を返し、三原に『ごめん、先に帰ってて!』と連絡を入れ、学校から飛び出した。
学校の前の県道を渡り、芝崎海岸に続くまっすぐな細道に飛びこむ。
前方に逆光で影になった青井の姿が見え、私は堤防沿いを全力で走り抜けた。
青井のもとに着いた瞬間、前のめりに転びそうになった。
とっさに青井の腕をつかんでしまう。
青井がしっかりと踏ん張ってくれたおかげで、なんとか膝をつかずに済んだ。
私は青井の手首をつかんだまま、頭を垂れ、喘いで、呼吸が落ち着くのを待った。
セーラー服の隙間に入り込んだ海風が、汗だくの身体にしみる。
一度息を吐き切ってから、酸欠でぐらぐらとする頭をもたげた。夕日を背にしてたたずむ青井を見据え、おもむろに口を開く。
「菜々子が失恋した相手って、青井でしょ」
ゆるく吹いていた風がやんだ。
代わりに、波音がやけに大きく聞こえてくる。
私の息も切れ切れな問いかけに、青井はなんの反応も示さなかった。
動揺のあまり固まってしまったのか、それとも否定できないのか。
いずれにせよ、真っ先に結論を口にして相手の関心をひくことは、成功だったようだ。
私は青井から手を引いた。
「……水、飲みたい」
気が緩んだのか、無意識のうちに欲望がこぼれ落ちた。
場違いすぎる発言に青井は我に返ったのか、困惑したように頭を掻いた。「自販機に行こうか」とゆっくりと歩き出す。
私は棒のようになった足を引きずり、青井についていった。
歩きながら、アスファルトに落ちた影を見下ろしてみた。
ふたつの長い影法師が、距離を保ったまま進んでゆく。
青井は県道沿いにある自販機の前で足を止めた。
私が「お金、学校に置いてきちゃったんだけど」と申告する前に、青井はポケットから財布を引っぱり出した。ミネラルウォーターを買って、さりげない動作でペットボトルを渡してくれる。
――青井は私を見捨てないでくれた。
ボトルの蓋を開けながら、泣きたいような衝動に襲われる。
涙の気配をごまかすために、ミネラルウォーターを一気飲みした。
ほてった身体に、冷たい水が染み渡ってゆく。肺の奥からさかのぼってきた血のにおいが薄くなって、思考に明瞭さが戻ってきた。
私は口の端からこぼれた水を拭いながら、上目遣いで青井を見やる。
「さっきの話の続き、していい?」
問いかけると同時に、小型犬を三頭連れた老夫婦が私たちの隣を通り抜けていった。
犬たちはしっぽを振りながらこちらに顔を向けていたけれど、おじいさんに引きずられて去ってしまった。
「……ここだと人通りがあって落ち着かないから、場所を変えようか?」
青井の提案に、私は犬の尻を見送りながらうなうずいた。
「一色海岸の磯に行ってみる?」
短い問いかけにもう一度うなずくと、青井は「よし」と南に向かって歩き出した。
私は右手に広がる金色の海を眺めながら、青井の半歩後ろに続いた。
「……菜々子は三原に恋してなかったんじゃないかな、って思ったの」
静かに切り出してみても、左隣にいる青井はなにも言わなかった。
ただ、ゆったりとしたペースで歩を進めてゆく。
「三原と別れたとき、菜々子はすっきりした顔をしてたんだって。でも、相手のことが好きなら、別れ際に明るい顔をするのって難しいんじゃないかな」
菜々子が青井に恋をしていたと考えた根拠を、私は淡々と整理する。
「センター試験の日、青井はつらそうな顔をしてたし、私もひどい顔をしてたと思う。ほら、菜々子は私たちよりずっと表情豊かでしょ? もし菜々子が三原相手に失恋したんだとしたら、別れ際にもっと泣くか怒るかしてたはず。関係が終わることって、すごく苦しいことだし……」
歩道をすれ違ったおばさんが、微笑みながら私と青井を眺めていた。私たちの関係について、いったいどんな想像をしたのだろうか。
「青井」
私は青井を見上げる。
「菜々子のお通夜のとき、菜々子が最後に会った人間は三原だって、私に教えてくれたでしょ?」
西日に彩られた青井の横顔が、かすかに強ばった。
「菜々子が三原に失恋したって、私に勘違いさせるためだったんじゃないのかなって。ああいう告げ口っぽい発言って、あんまり青井らしくないから……。あのときはまだ青井のことよく知らなかったから、違和感を覚えなかったけど」
私は正面に向き直って、ミネラルウォーターを口に含んだ。
一息ついた途端、「そういえば」が次々と頭に浮かんでくる。
青井が菜々子の通夜に出席したことも、高校生にしては高額の香典を包んだことも。どちらの行為も、青井にとって菜々子が『ただの同級生』じゃなかった証なのかもしれない。
「青井は、私が三原と話すのを嫌がってたよね。あれって、菜々子が三原に恋していたわけじゃないって、バレないか不安だったから? でも、私に三原について教えてくれたのは青井だから、それはないのかな……」
私がぶつぶつとつぶやいていると、青井が「着いたよ」と立ち止まった。
いつの間にか私たちは海辺の駐車場にいて、目的地である一色海岸北部へと続く階段の前に立っていた。
青井が私を見下ろしてくる。
笑っているような、泣いているような、憐れむような、慈しむような、様々な感情の入り混じった複雑な表情をしていた。
――ひょっとして、見当はずれの推測をしてしまったのではないか。
私は背筋に冷たいものを覚える。
本当は菜々子の好きなひとは青井ではなくて、私とは無関係なだれかだったのかもしれない。「三原じゃないなら青井かな」という推測方法は、やっぱり杜撰すぎたのだろうか――。
私が吐き気がするほどの不安に揺さぶられていると、青井は苦笑した。
「……まさか、魚住さんが鵜飼ちゃんのこと、あんなに知りたがってるなんて想像もしなかった。鵜飼ちゃんが生きてたころは、ずっと無関心な顔をしてたから」
青井の言葉が、私の胸に深々と突き刺さる。
嫌味を言ったわけではないのかもしれない。それでも、今の私にはなによりも辛辣な台詞だった。
私が立ちすくんでいると、青井は先に階段を下っていってしまった。
「鵜飼ちゃんは、俺が魚住さんのこと好きだって知ってたはずなのに……。なんで、俺に告白したんだろうね」
一足先に砂浜に立った青井は、目を細めながら私を仰いだ。
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