第2章 恋人ごっこ

(9)恋愛入門

 青井はなにも言わなかった。それどころか、蝋人形にでもなってしまったかのように微動だにしない。


 たっぷり数秒経ってから、なんの前触れもなく「……ええっ!?」とのけぞる。

 かと思ったら、勢いよくうなずいた。


「いいよ!」


 親指を立てて、満面の笑みを浮かべる。全身全霊で喜んでいるのが伝わってきて、大げさなはずなのにごく自然な動作のように感じられてしまった。


「いや~まさか魚住さんから告白してくれるなんて……って告白? よく考えたら、俺、告白されてないよね? あれ?」


 青井は頭を掻きながら混乱している。私の頼みが想定外だったのか、思考が感情に追いついていないようだ。


 しきりに首をひねる青井を眺めながら、私は張り詰めていた息を吐き出した。

 ゆるんだ胸の内に、すかさず黒ずんだもやのような心苦しさが膨らんでゆく。青井が明るすぎるせいで、自分の打算的な面を強く実感してしまったのだ。


「現時点では青井が好きってわけじゃないんだけど、それでもいいの?」


 息苦しさから逃れたくて、いつもより強い口調で訊いてみる。


「私の目的は『菜々子を理解すること』であって、『青井を好きになること』じゃないんだよ?」

「わかってるわかってる。魚住さん、好意がマイナスだったら俺に声かけないでしょ? それだけでも充分うれしいんだよ」


 気後れしてしまうほどに、屈託のない笑みだった。

 鼻歌を口ずさみ出した青井に、私は半歩退いてしまう。


「恋愛に突き合ってくれるのは、卒業までのあいだでいいから。無理そうだと思ったらいつでも言って」

「命あるかぎり付き合うよ!」

「重すぎる」


 私が間髪入れずに申し出を突き返しても、青井の上機嫌は崩れない。青井の性格なら、遊んでくれそうな女子はいくらでもいそうなのに。どうして私がいいのか、さっぱり見当がつかなかった。


 疑問は尽きないけれど、このまま考えあぐねているわけにもいかない。

 とりあえず、「よろしく」と口もとをゆるめてみた。

 たったそれだけで、青井は今にも泣き出しそうな顔をした。まるで、ありがたい仏像を前にした老人のようだった。


「こ、こちらこそ……」


 神々しいものに触れるような、敬虔な口ぶり。


「よろしく、聖良ちゃん!」


 悪寒が走った。

 ――“聖良ちゃん”。

 その呼び方は、あまりにも距離が近すぎる。きっと、恋を育む余地さえないほどに。


「まだあんまり仲よくないのに、下の名前で呼ばれるのは嫌かも……」


 私にしては控えめな拒絶に、青井の笑みが凍りついた。


「俺の二年分の愛が……響いてない……!?」

「いや、そういう問題じゃなくて。私を下の名前を呼ぶのは、同級生だと菜々子だけだったから」


 菜々子の名前を出した途端、青井は「そっか」といたましそうに目をそらした。


「俺に名前を呼ばれるたびに、鵜飼ちゃんのこと思い出しちゃうのか……。それは俺としても不本意かな」

「そうなの?」

「そりゃあね。いっしょにいるあいだは、俺のことだけ考えていてほしいし」


 青井は押しの強い台詞を発したくせに、視線を泳がせている。

 私は「ふぅん」と納得したふりをしつつも、相手の発言の意図をまったく読み取れなかった。

 どうして青井は、私に他の人間のことを考えてほしくないのか。

 その願いが恋愛に由来するものなのか、それともまったく別種のものなのか、それさえも判然としなかった。


 私が早くも“恋愛”につまずいていると、青井は眼鏡を中指で押し上げ、改まった態度で話を続ける。


「それに、魚住さんのこと下の名前で呼んでたら、俺たちが付き合ってるって周囲にバレちゃうもんね」

「質問。“付き合う”っていうのは、恋愛を前提とした交際のことでいいの?」

「そこから!?」


 青井はぽかんと口を半開きにしたまま固まってしまう。けれど、すぐに気を取り直したようにほほえんだ。


「……なるほどね。だから恋を教えてほしいってわけか」


 私はうなずく。初めて、青井が頼もしく思えた。


「それで、私たちが付き合ってるのがバレるのはよくないことなの?」

「よくない。めちゃくちゃよくない」


 青井は真面目な顔つきになる。


「鵜飼ちゃんが亡くなったばかりだし、顰蹙を買わないようにみんなには秘密で付き合ったほうがいいと思う。ほら、俺たちすでに進路が決まってる組だし……。他のひとたちが必死に勉強している前で、イチャついてたら鼻につくんじゃないかなって」

「人前でイチャつくつもりはないけど、わかった」


 “付き合う”ことの実体はピンとこないものの、それでも周囲に対して気遣かい――あるいは警戒が必要なことはわかる。

 他人の恋愛というものがやたらと楽しげで、幸せそうで、浮ついたものだという先入観は、私でさえも持っているのだから。


 ふと、青井が私の腰のあたりを見下ろしながら、目をしばたたかせた。


「あれ? それ、もしかして……」


 私は青井の視線をたどる。自分のコートのポケットから、菜々子のぬいぐるみポーチが飛び出していた。

 青井は「鵜飼ちゃんがスマホに付けてたやつ……?」と腫れものに触れるような口調で訊いてきた。

 私はうなずきながら、スマホごとポーチを引っ張り出す。


「菜々子の形見分けのときにもらったの。伶子さんおばさんに『欲しいものはありません』って言うのもなんだったから。元はといえば、私が菜々子にあげたものだし」


 私は弾力を失ったぬいぐるみポーチをてのひらで揉みしだく。

 海水に長時間浸かっていたせいか、それとも微細な砂粒が布目に残っているのか、ぎしぎしとした乾いた質感だった。


「形見だからって、大切にしまっておくわけじゃないんだね」

「菜々子の気持ちがわかるまでは、スマホにつけておこうかなって」


 実のところ、なんでぼろぼろのぬいぐるみポーチをもらってしまったのか自分でもよくわからなかった。

 感傷、なのだろうか。


「スマホに大きなキーホルダーがついてると、鞄のなかで見つけやすいし」

「俺もスマホにお守りをつけてるけど、意外と便利だよね」


 青井はスマホを取り出して、『受験合格御守』を見せてきた。

 名刺サイズのお守りは、ぬいぐるみポーチほどではないけれどたしかに存在感があった。


「森戸神社の? 私も同じお守り持ってる」

「つまりおそろい!? 運命じゃん!」

「は?」


 私は青井の感動を一蹴したあと、「そろそろ学校に行かないと」と駐車場へと続く階段を上った。

 最上段から青井を見下ろし、告げる。


「ねえ、青井。今日の放課後、付き合ってくれない?」

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