(21)苦いカフェオレ

 なにも進展せず、かといって後退することもないまま年が明けた。


 私は祖父母宅のリビングの隣室で、丸めた座布団を枕に寝転んでいた。まだ十五時過ぎで、まったく眠くはない。けれど、なにかをする気力がなかった。

 冬休みに入ってから、私は怠惰を極めていた。

 菜々子の部屋から持ち出した漫画や小説は手つかずのまま積んであるし、もちろん、机にも一度も向かっていない。青井に振られた瞬間から、なにもかもやる気がなくなってしまった。


『菜々ちゃんのことがあった上に、秋のあいだは受験で神経すり減らしていたんだから疲れが溜まってたんでしょ』


 年末にお母さんに指摘されて、私も納得した。

 菜々子の葬儀と自分の受験がほぼ同時に終わって、間髪入れずに青井と付き合いはじめ、あっという間に見切りをつけられて。ずっと張り詰めていたものが、ぷつんと切れてしまった。

 去年の十二月はなにもかもがめまぐるしく、すべてが夢だったような気さえした。


 私はぬいぐるみポーチを手のなかでもてあそびながら、青井に振られたときのことを思い返す。

 あの日、あの瞬間、ショックを受けながらもどこかほっとしている自分がいた。

「青井を好きになれなかったらどうしよう」という不安からの解放。

「がんばって恋をしなくてもいいんだ」という脱力感。

「生まれつき恋ができないんだからしょうがない」という居直り。

 恋をしようとする行為は、私には重荷でしかなかった。


 たぶん、これでよかったのだろう。

 私にとっても、青井にとっても。


 今まで以上に脱力した瞬間だった。


 ――なぜ菜々子は死んだのか?


 意識の狭間から、何度となく繰り返した疑問が浮かび上がってきた。

 火葬場の炉でひとが燃えるような、低い耳鳴りがする。

 気が触れてしまいそうな衝動が、身体中を暴れまわった。熱いような冷たいような情動の塊がこみ上げ、どろどろに溶けた料理が食道をさかのぼってきて――。


『どうして聖良ちゃんにはわからないの!?』


 耳の奥で、菜々子の声が炸裂した。

 私は飛び起きる。

 幻聴の余韻に、私は両手で耳をふさぎながら浅い呼吸を繰り返した。


「聖良ちゃん?」


 伶子さんが静かにふすまを開け、呼びかけてきた。

 私は額ににじんだ冷や汗を手の甲でぬぐいながら、伶子さんに顔を向ける。「なんでもないです」と返そうとしたのに、口内のなかがからからに乾いていて舌が回らなかった。


 伶子さんは私を見下ろしながら、思案するように目をすがめた。


「……今日、うちに寄ってから帰らない? 渡したいものがあるの」


 ――気をつかわれてしまった。

 私は「わかりました」とうめきながら、床についた手を握りしめた。




◇◇◇




 伶子さんの家は、今日もうっすらと線香のにおいが漂っていた。

 シンプルで現代的なインテリアにはそぐわない、重苦しい香気。菜々子の残り香と混ざり合い、ずっと吸い続けていたら肺を病んでしまいそうな気がした。


 伶子さんは菜々子の部屋には寄らず、私を食堂に連れてきた。私が席に着いてぼんやりしていると、カフェオレ粉末にお湯を注いだものをテーブルに置いてくれる。

 マグカップから立ちのぼるわざとらしいコーヒーとミルクのにおいに、線香の微香はあっさりと覆い隠された。


 反対側の席に、伶子さんが腰かける。


「聖良ちゃん、なにかあったの?」


 淡泊な問いかけだった。

 私は返事をせずに、カフェオレをすする。薄くて、安っぽくて、懐かしい味がした。

 昔、伶子さんが菜々子の学校生活について私に訊こうとするとき、いつも振る舞ってくれた偽物のカフェオレ。ぜんぜん甘くなくて、それどころか少し苦くて、一度たりともおいしいと思ったことがない。けれど、今はいつもどおりの風味が逆に落ち着いた。


「なんだか切羽詰まってるように見えたから……」


 伶子さんの遠慮がちな態度に、私はマグカップから口を離して首をかしげる。

 たしかに、私は切羽詰まっていた。

 青井のこと、菜々子のこと、そして私のこと。

 でも、なにから言えばいいのかわからないし、そもそも伶子さんに言うべきなのか判然としない。


 伶子さんは私が困惑していることを察したのか、苦笑いを浮かべる。


「菜々子が同じような表情をしてたときに、なにもしてあげられなかったから……。あせって聖良ちゃんに声をかけちゃったの」


 テーブルに肘をついて、小さなため息を落とした。


「言いづらいことだったらなにも言わなくていいから」


 私はカフェオレで苦くなった唾液を飲み下した。

 ――ここで胸の内を打ち明けてしまえば、少しは気持ちが楽になるかもしれない。

 三原はセンター試験直前だから声をかけるわけにもいかないし、家族に「恋ができない」ということを明かすのは抵抗がある。

 でも、伶子さんは距離感がほどよくて、恋愛経験もある冷静な大人で、そしてなにより変に同情的ではない。伶子さんの提案は、私にとっても都合のいい話だった。



「あの……」


 私はおそるおそる話してみる。


「菜々子が『失恋した』って私に言ってきた理由を知りたくて……恋をしてみようって考えたんです」


 伶子さんがどんな反応をするのか不安で、顔を上げられなかった。


「同級生に事情を話して、付き合ってもらって、いろんなことを教えてもらって……。でも、私、生まれつき恋愛感情がないみたいで」


 口を開くたびに胸が苦しくなる。あいまいな思考に輪郭が備わり、逃げ場がなくなってゆくから。

 でも、いったん流れ出してしまった言葉を止めることはできなかった。


「なにも返せなくて、相手を泣かせて、振られて、なにがいけなかったのか教えてもらえなくて。……結局、菜々子のこと、なにもわからないままなんです」


 私はしどろもどろながらも語り切って、カフェオレをあおった。

 火傷しそうに熱い。

 けれど、粘膜を焼くような痛みが、私の意識を過去から現在へと引き戻してくれる。


「私が変な話をしちゃったせいで……ごめんね」


 伶子さんは心底申し訳なさそうに眉尻を下げた。

 私は「伶子さんは関係ないです」と首を横に振った。

 半分嘘で、半分事実だった。


「どのみち、恋愛感情を理解する必要があったので……。私、恋がわからなくて、菜々子を怒らせて、怖くなって逃げて、それっきりになっていたんです」

「知ってる。本人から直接聞いたわけじゃないけど……ぜんぶ、あの子は書き残してたから」


 伶子さんは後ろめたさを押し殺したような、くもった笑みを浮かべる。


「菜々子の日記とか手紙とか、片っ端からあさってみたんだけど……遺書にあたるものはなにもなかった。それどころか、あの子が自殺するとは思えなくなっちゃって。手紙を書くことで、ちゃんと気持ちの整理をしていたみたいだから」


 吹っ切れたような言葉選びとは裏腹に、迷うような弱さをはらんだ口ぶりだった。

 私は伶子さんをじっと見澄ます。

 伶子さんが「菜々子の死は自殺ではない」と言い切れない理由を教えてもらいたかった。かといって、これ以上深入りするのも気が引ける。


 私が再び沈黙していると、伶子さんは「カフェオレ、おかわりいる?」と訊いてきた。

 もういらないと思いつつも、手持ち無沙汰なのも嫌で「お願いします」と頼んでしまった。



「……私、恋なんて知らなくていいと思う」


 伶子さんは電気ポットに水道水を注ぎながら、唐突につぶやいた。


「『恋をすると成長できる』とか言うけど、そんなの嘘。恋に限らずだれかと関われば自分も変わらないわけにはいかないし、恋だけが特別ってわけでもない」


 ひとり言のような口調で、淡々と続けてゆく。


「恋をしているときの多幸感って麻薬みたいで、その分、相手を失ったときの落ち込みがひどくて。たとえ成長できたとしても、ぜったいに割に合わない。……まあ、あくまでも私の考えだけど」


 伶子さんはお湯を注いだマグカップをかき混ぜながら、私に差し出した。

 私は「ありがとうございます」と頭を下げながら、カフェオレに浮かんだ泡が渦巻く様子を凝視する。


 伯父さんのお葬式のあと、伶子さんは仕事でほとんど家にいなかった。それは、心に空いてしまった穴を埋めるためにがむしゃらに働いていたから。

 そんなふうにお母さんが解釈していたことを、唐突に思い出した。

 伶子さんが伯父さんにどんな感情を抱いていたのか、私は知らない。でも、伶子さんは恋を失うことの苦しみを、身をもって知っているのだと思う。

 だからこそ、菜々子が失恋で自殺した可能性に気づいてしまい、「そんなはずがない」と疑惑を切り捨てることができずにいるのかもしれなかった。


 私が考えこんでいるあいだに、伶子さんは食堂からふらりと出て行って、すぐに戻ってきた。


「これ、聖良ちゃんが持ってたほうがいいと思って」


 伶子さんは私に小さな箱を渡してきた。

 贈答品のお菓子でも入っていたような、高級感のある厚紙で作られた箱。

 ためしに振ってみると、紙がこすれるような軽い音がした。


「なにが入ってるんですか?」

「菜々子の手紙」


 私は小箱の蓋に触れようとした手を引っこめた。


「聖良ちゃん宛のものだけ集めておいたの。菜々子には『余計なことしないで!』って怒られそうだけど……」


 まるで爆発物が目の前にあるかのように、身体が動かなくなってしまう。


「必要なかったら処分してくれてもいいから。菜々子だって、聖良ちゃんに読ませる気はなかったはずだし」


 伶子さんの言葉には相変わらず迷いがあって、だからこそ私を追い詰めるつもりはないのだろう。

 でも、私は息をするのもつらかった。

 恋愛を通して菜々子について理解をすることは、私には不可能だ。ならば、菜々子の遺した手紙を読むしか道はない。

 わかってはいるのに、箱の中身を目にする勇気がなかった。

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