(20)おしまいの日

 翌日、十二月二十五日は今年最後の登校日だった。


 終業式が終わったあと、私は青井に呼び出され、別館の三階にある空き教室へと向かった。


 海に面した窓を背景に、青井が立っていた。逆光で影になった笑顔は、心なしかくもっているように見えた。

 私は昨日の青井の涙を思い出し――心臓が跳ね上がる。口もとを引き結び、可能なかぎり平静を保とうとした。


「魚住さん、誕生日おめでとう」


 青井は私と対峙するなり、朗らかに祝ってきた。

 凪いだ海のような、にこやかな面差し。いつもと変わりないはずなのに、なぜか白々しいと感じてしまった。

 私は身構えながら、「ありがとう」と平坦に応えた。

 無意識のうちに、スマホにぶらさげたぬいぐるみポーチを握りしめていた。ポーチのなかに入れた指輪の感触が、てのひらを刺激する。


 ――指輪。

 さりげなく青井の左手に視線を向けてみた。

 私とおそろいの銀の指輪ははまっていない。

 同級生に見られたらなにか言われそうだから、学校には着けてこなかったのだろう。

 たやすく推測できるのに、鼓動は速まる一方だった。

 不穏さに胸をかきむしり、心配されてみたいような衝動に駆られて――なおも青井のやさしさに甘えようとしている自分にうんざりした。


 会話は途切れたままだった。

 遠くから聞こえてくる生徒たちの声が、幻聴のように淡く響きわたる。

 埃っぽい空き教室は、外の世界よりもゆっくりと時間が流れているように感じた。

 ――いっそのこと、このままお互いなにも言わず、なにも起こらず、なにも変わらなければいいのに。

 そう願ってしまうほどに、私は青井の一挙一動に敏感になっていた。


 もちろん、私の一方的な願いなんて、なんの意味も成さない。

 青井は意を決したように頭を挙げると、ゆっくりとくちびるを動かした。


「ごめん、もう付き合うのは終わりにしよう」


 青井のたった一言で、私のすべてが止まる。呼吸も、まばたきも、心音も、感情さえも。

 私という存在が肉体から乖離していくような錯覚に襲われ、体感覚が異様なまでに鋭敏になっていった。


 表情を押し殺そうとして失敗したのか、泣きそうな半笑いを浮かべる青井。

 その後ろに広がる、淡い水色の晴天。

 大空の受け皿のような青灰色の海は、水平線がぼやけていて――すべてが白昼夢のようだった。


 スピーカーがジリジリとかすかな音を立て、正午のチャイムが流れ出す。

 太い電子音に頬を打たれ、私は我に返った。


「ねえ、それって」


 自分が無表情であることを祈りながら、ずっと胸に詰まっていた言葉を舌に乗せる。


「……私が青井に恋心を返せなかったから?」

「違う!」


 青井が声を荒げた。けれど鮮烈な感情の表出は一瞬のことで、すぐに視線を逸らしてしまう。


「駄目なんだ。このまま魚住さんと付き合い続けるのは……」


 理由になっていない訴え。

 私は「そう」としか返せなかった。


 ――これは、なるべくしてなった結末だ。

 衝撃のあまり言葉を失う一方で、あっさり納得している自分がいた。

 当初、私は“菜々子を理解するために”青井に恋をする手伝いをしてもらうつもりだった。それなのに、いつしか“菜々子のことを忘れるために”青井に恋をしようと必死になっていた。


 ――最悪だ。

 無関係な青井を巻きこんでしまった時点で、私は間違っていたのだろう。そして、都合のいい存在である青井を振り回すだけ振り回した挙げ句、菜々子の死の影まで背負わせてしまった。

 私は菜々子の恋を否定しただけではなく、青井の恋心まで傷つけてしまったのだ。


「……俺が悪いんだ」


 凍りつく私の顔を、青井がためらいながらものぞきこんでくる。揺れる瞳は、怯えているようだった。


「魚住さんに好きになってもらえるよう、うまく振る舞えなかった。一方的に気持ちを押しつけて、俺がやりたいようにやってばっかりで、魚住さんの気持ちは置き去りのままで……」

「青井のせいじゃない!」


 青井の見当外れの懺悔に、自分でもびっくりするくらい大きな声が出た。

 ぬいぐるみポーチを破けてしまいそうなほど強く握りしめ、悪いのは私だと叫ぼうとして――声が出なかった。


 なんで、どうして。

 私は片手で自分の喉を押さえつける。息ができなくなるほど強く、乱暴に。


『私は生まれつき恋愛感情を持たない』


 簡単な言葉で、青井に非がないことは説明できる。

 なのに、言えなかった。

 魔法にかかってしまったように舌がしびれ、硬直した思考の隙間から伝えるべき台詞がこぼれ落ちてしまう。


 原因は単純で、どうしようもなく幼稚だった。

 自分が「普通じゃない」ことを明かして、青井に拒絶されたくないだけだ。

「好きだと言い続けてきたことは無意味だった」「付き合ったのは時間の無駄だった」と断じられてしまうのが怖かった。

 青井には、私のことを無価値だと思わないでほしかった。幸せな恋人ごっこは、もう終わってしまったのに。


『無理そうだと思ったらいつでも言って』

 青井に恋を教えてと頼みこんだとき、私はそう言った。ゆえに、私には終わりを拒絶する権利はない。

 わかっているのに、理性の及ばない心の奥底では、今もなお青井にしがみつこうとしていた。そうでもしないと、昏い淵に沈んでいってしまいそうで――。


「それじゃあ、よいお年を」


 特別さも親密さもない、あたりさわりのない挨拶。

 青井はつたない笑顔を浮かべると、足早に去っていった。

 まるで、私から逃げるように。

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