第3章 うしなわれたもの
(19)アロマンティック
どうやって家に帰ったのか、記憶になかった。
気がついたときには、私は家族でクリスマスの料理を囲みながら、十八歳の誕生日を一日早く祝ってもらっていた。
お母さんも、お父さんも、妹も、だれも私の態度に違和感を覚えていないようだった。つまり、私はいつもと変わりない態度で振る舞えていたのだ。
――私、意外と動揺してない。
胸をなで下ろしたのに、自室に戻った途端、床に座りこんだまま動けなくなってしまった。
死んだ菜々子が腰にしがみついているかのように、下半身が重たい。一日歩き通したゆえの疲労なのだろうけれど――あおぐろい死の影が脳裏にこびりついて離れなかった。
思えば、私の頭の片隅には常に死んだ菜々子がいた。青井に恋しようと必死で、一時的にその存在を忘れていただけだった。
気を紛らわさなければ、と思った。
床に転がっていたスマホを拾い上げ、メッセージ送信画面を立ち上げる。
青井に今日のデートのお礼を送るつもりだった。
なのに、いくら首をひねっても自然な文章が出てこない。私のなかには、今の青井にかけるべき言葉が存在しないのだ。
「ありがとう」も「好きだよ」も「大丈夫?」もぜんぶ不適切な気がして――なぜか三原の連絡先を開いていた。
『質問、いい?』
指が勝手に文章を打ち出し、躊躇なく送信ボタンを押していた。
――ひょっとすると、迷惑だったかもしれない。
そんな常識的な思考が復活したのは、メッセージを送って数秒たってからだった。
現在、三原がなにをしているのか、まったく見当がつかなかった。
当然だ。私は三原についてなにも知らないのだから。
今までに話した回数は、たったの三回。恋愛について踏み込んだ話をしたものの、「仲がいい」とはまだまだ言えない。
それでも、私が恋の相談をできる人間は、三原ただひとりだった。
五分後、三原から返信がくる。
『いいよ。どうしたの?』
文章の後には、ニコニコ顔の白ウサギのイラストが貼られていた。
私は食らいつくような勢いでメッセージを打つ。
『話、長くなりそうだけど大丈夫?』
『大丈夫だよ。』
『勉強は?』
『今日の分は終わった!』
文字しか送らない私とは違い、三原はちょっとした一文にも顔文字やイラストを付けてくる。
三原のほのぼのとしたメッセージに安心感を覚えながら、私は長くて愛想のない文章を量産した。
私が恋を知らなかったせいで菜々子の感情を逆なでしてしまい、仲違いしたこと。
いまだに菜々子を理解できずにいること。
恋を知ることで菜々子の気持ちがわかるようになるかもしれないと考えて、青井と付き合ってみたこと。
でも、結局恋はできなかったこと。
菜々子が「失恋した」とメッセージを遺したことは、三原が気に病んでしまいそうだから伝えなかった。
『魚住さん、通話できる?』
三原からの返信は、たった一言だった。
言われてみれば、たしかに口頭で話したほうが早い内容だった。
私が『できる。』と端的な言葉を返すと、すぐさま三原から電話がかかってきた。
「魚住さんは、今でも恋したいって思ってる?」
電話越しに聞く三原の声はひんやりとしていた。
腫れあがった胸のうずきが、じわじわと鎮静化してゆく。
「できることなら、恋をしてみたい」
本音だった。けれど、私に恋ができるとも思えなかった。
三原は「そっか……」とこぼしたきり、黙りこんでしまう。
スピーカーの向こう側から聞こえてくるのは、ささやかなノイズだけ。チリチリとした繊細なざわめきは、真冬の夜の冷気がそのまま音になったようだった。
「……おれ、魚住さんのことが好き」
突然、三原が言い放った。
私は眉をしかめる。
「どういう意味で?」
青井にさんざん好き好き言われてきたせいか、自分でも驚くほど心が動かなかった。
「もちろん、恋愛的な意味で」
「は?」
「……唐突すぎたかな」
三原の口調はどこまでもおっとりとしていて、私は「うん」としか答えようがなかった。
なぜか、三原の告白は本気ではないという確信があった。私は恋愛には疎すぎる。それでも、三原の情動は手に取るようにわかった。
――このひとは、私に対して強い感情を抱いていない。
「……ごめん、魚住さんのこと試した」
短い沈黙の後、三原が音を上げた。さっきまでの落ち着きが嘘のような、弱々しい声音だった。
「べつに。最初から本気じゃないことはわかってたから」
「やっぱりおれの台詞って、愛情こもってるようには聞こえないんだね」
「こめてたの?」
「ううん。……でもおれ、魚住さんをからかうつもりはなかったよ」
「それもなんとなくわかる」
三原は「よかった……」と心の底から安堵したような声を漏らした。
「ねえ、おれに告白されてときめいたりした?」
気を取り直したように、いささかしゃっきりとした調子で訊いてくる。
「ぜんぜん」
「嫌悪感はあった?」
「ない。純粋に意味がわかんないと思っただけ」
「じゃあ、魚住さんはほんとに恋がわからないんだ」
三原の声音が喜色を帯びた。
「……ただ単に、おれのことが好みじゃなかっただけかもしれないけど」
かと思うと、すぐにしゅんとしてしまった。
私は「はあ」とさえない声を吐き出した。
「好みとか、それさえもよくわからない。顔はきれいだと思うけど」
なんの気負いもなく三原の造形を褒めていた。三原とは感情の温度が近いのか、やたらと話しやすかった。
でも、「顔がきれい」や「話しやすい」が恋心に結びつく感覚は、さっぱりわからない。
「魚住さんの気持ち、すごくわかる」
三原がすがりつくように応じた。
「……おれもそうだから」
ひときわ低いささやき声は、今までで一番重たい響きを帯びていた。
三原との距離が一気に縮まる。
不思議なことに、私は拒否感も、息苦しさも、いっさい感じなかった。三原の生ぬるい温度感は、熱を受けつけない私の心にもよくなじんだ。
「魚住さんは、生まれつき恋愛感情を持たないひともいるってこと、知ってる?」
「知らない」
「アロマンティックっていうんだって」
聞いたことのない単語だった。
私は無言で続きをうながす。
「アロマンティックって一口に言っても、いろいろいるみたいで。性欲があるひと、ないひと。性に嫌悪感があるひと、ないひと。性欲がない場合は、アセクシャルって言ったりもするみたいだね」
性欲と言われてもピンとこないことに、十八年近く生きていて初めて気付いた。
「おれ、いろんなひとから告白されて、とりあえず付き合ってみて……というか断れなかっただけなんだけど……。高校三年間で十人と付き合ってみて、恋愛感情どころか性欲もわかなかった。それが相手にもわかっちゃうみたいで、毎回『私のこと好きじゃないでしょ』とか『冷たい』って振られて……」
私は相づちも打たずに、三原の話に耳を傾ける。今の私に必要なものを、三原は知っているという予感があった。
「菜々ちゃんがいなくなったあとになんか変だなって思って、ネットで調べてみたんだ。そしたら、おれみたいなひともいるってことがわかって、すごく気持ちが楽になった。生まれつきならしょうがないじゃんって」
三原は一気に話すと、「なにも解決してないんだけどね……」と気まずそうに付け足した。
私は「そう?」と切り返す。
「『自分は恋ができない』ってわかれば、もう同じ失敗はしないでしょ」
それは三原に対するフォローというよりも、私自身に向けた言葉だった。
三原は黙りこんでしまう。
やけに赤いくちびるを薄く閉じたり開いたりして、言いよどんでいる様子がありありと思い浮かんだ。
やがて、「あの、おれ……」と今日一番細い声音で返してくる。
「恋愛感情がわからないせいで、知らないうちに人間関係引っかき回してたみたいで。二年の終わりごろには、友だちがいなくなっちゃった……」
暗い声調で吐露する三原に、私はなにも言えなかった。
他人事とは思えなかった。私も恋愛感情を理解できなかったせいで、菜々子との関係性を壊してしまったのだから。
「……三年になってもひとりぼっちでいたら、菜々ちゃんが『かわいそうだから付き合ってあげる』って言ってくれたんだ」
三原はぽつりぽつりと語ってゆく。
「たしかにひとりはさみしいけど……でも、かわいそうなことなのかな」
痛みをはらんだ声音だった。
「菜々子の照れ隠しだったんじゃないかな」
私は三原を慰めるために、適当なことを言ってしまった。
直後、自己嫌悪に駆られる。
菜々子から逃げ続けていた私に、彼女のなにがわかるというのだろうか。
「ねえ、『アロマンティック』って死ぬまで恋をしないものなの?」
私は罪悪感から逃れようと、三原に問を投げかけた。
三原は「基本的には」と答えてくれる。
「でも、二十歳になるくらいまでは様子を見たほうがいいみたい」
「ということは、あと二年……」
成人するまでに、自分がだれかに恋するところを想像できなかった。青井に差し伸べてもらったてのひらでさえも、私には熱すぎたのだから。
私はきっと『アロマンティック』だ。だとしたら、菜々子のメッセージの真意をどうやって探ればいいのだろうか。
気づいてしまった瞬間、闇のなかに放りこまれたかのような錯覚に襲われる。それは実感を伴った絶望だった。
私はなんとか正気にかじりつこうとして――とっさに青井のことを考えていた。
青井には「恋を知るために」付き合ってもらっている。でも、たぶん、私は一生恋がわからない。
寄る辺なさがこみ上げてくる。
「恋のできない」私は、今後、青井との関係をどうしていけばいいのだろうか。
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