(18)そしてキスを

 鎌倉の海――由比ヶ浜に着いたころには、すでに陽は沈んでいた。手を繋いでいるせいで歩く速度が遅くなっていたのか、思いのほか時間がかかってしまった。

 私ひとりで進めば日没には間に合ったはずだし、青井だけならもっと余裕があったはずだ。


 ――もう無理かも。

 私はこっそりと息を吐き出した。

 手をつなぐという行為が、理にかなっているとはまったく思えなかった。普通の人間なら、そこに情緒的なつながりや深みを見出すことができるのかもしれないけれど。


 私は焦燥感を押し殺しながら青井の手を握りしめた。

 肌と肌とがぬるりとこすれ合う。

 青井のてのひらは生ぬるく、少し湿っていた。

 我慢できる程度の不快感が、胸の内で渦巻く。

 一刻も早く解放されたい。

 青井に恋をしなければならないのに、そんな衝動を抱えている自分に苛立ってしまう。


 私たちは会話がないまま歌碑の前を通り、海浜公園に足を踏み入れた。

 横目に見た歌碑には、さくら貝にちなんだ恋のうたが刻まれていた。

 世界は恋にあふれている。なのに、なんで私には存在しないのだろう。数組のカップルの背後を通り抜けながら、下くちびるを噛みしめた。


「このへんでいいかな?」


 私は青井の問いかけに顎を引いて、つないでいた手をゆっくりと抜き取った。

 空になったてのひらに海風が吹きつけてきて、汗も体温も一瞬で消えてしまう。やっと離れられた安心感と、行き場をなくしたような淋しさが同時に押し寄せてきて、足がすくんだ。


「魚住さん?」

「なんでもない」


 私はあわてて青井の隣に滑りこんだ。

 浜との境界線上にある手すりにも寄りかかり、沖をにらみつける。


 燃えるような残照が、空と海を真っ赤に染め上げていた。

 苛烈な夕焼けを前に言葉を失い――不吉な予感を覚える。


 私たちは無言で遠くを眺めていた。

 歩き通しだったせいで私は疲れていたし、青井はそれを察してそっとしておいてくれたのだろう。

 あたりが暗くなるにつれ、肌寒さが増してゆく。

 もう少ししたら、家に帰らなければ。お母さんがチキンを焼いて、お父さんがケーキを買って待っているから。


 私は「そろそろ帰ろう」と言い出すタイミングをはかるために、周囲に視線を走らせた。

 駐輪場のバイクのシート上でくちづける男女を視界に収めた瞬間、ひとつの考えが頭をよぎる。


「キス、してみたい」


 私はかたわらの青井を見上げた。

 今の自分がどんな顔をしているのか、まったくわからなくて怖かった。


「私、青井のことが好き。でも、この『好き』が恋なのかわからない。だから、確認したいの」


 嘘だ。

 青井に恋なんてしていないと、わかりきっていた。手を繋いでも、やさしくされても、相手との温度差に息が詰まる一方なのだから。

 それでも、キスという非日常的なことを――くちびるという粘膜の入り口を相手に差し出して、委ねてみれば、なにかが変わるかもしれない。無理にでも変えようとしなければ、私は一生恋を知らないままだ。


 青井は放心していた。頬を赤らめるわけでもなく、眉をひそめるわけでもなく、口をかすかに開いたまま硬直している。

 私はあわてて「嫌だったらいいよ」と付け足した。


「キスって、特別なことだもんね。それくらい、私だって知ってるから……」

「嫌じゃない!」


 青井は勢いよく首を横に振った。


「ただ、魚住さんからキスしたいって言ってくれるとは思ってなくて……」

「じゃあ、キスしていいの?」


 私は青井の目をのぞきこんだ。

 視線が絡み合う。


「も、もちろん」


 青井は傍目にもわかるほど緊張していた。

 私は「じゃあ、遠慮なく」と青井の胸に手を当て、相手のくちびるに狙いを定めた。軽くつま先立ちをすると、青井の吐息が感じられそうなほど顔が近くなる。


「いくよ」


 怖じ気づく前に、思い切ってくちびるを重ねて――私の鼻の付け根が青井の眼鏡にぶつかった。


 互いに勢いよく顔を離す。

 軽く触れあっただけのくちびるには、かすかなぬくもりが残っていた。

 私は指輪をはめた中指で自分のくちびるを撫でる。


 初めてのキスの余韻はあっという間に消え去った。

 結局、私の肉体が青井にまったく反応してくれないことしかわからなかった。


 キスの予備動作でほてった胸が、一瞬で凍りつく。

 私は青井に恋心を返すことができない。

 好きなのに。

 心では受け容れているのに。

 家族よりも、友だちよりも、他のだれよりも、いっしょに過ごしたいとさえ思うのに。


 青井にも恋ができないのだとしたら、私は恋を知らないまま死んでゆく。

 それは予感ではなく、確信だった。


 青井は言葉なくたたずんでいた。

 暗がりのなかでは、どんな瞳で、どんな想いを宿して、私を見つめているのかわからなかった。

 乾いているはずの青井のくちびるに、車のヘッドライトが反射する。

 ぬるりとした油膜めいた光沢。きっと、私が塗っていた色つきのリップクリームが残ってしまったのだ。

 私は青井の顎に手を添え、親指の腹でキスの痕跡を拭き取った。


「う、魚住さん……!?」


 停止していた時間を取り戻したかのように、青井はのけぞった。

 その拍子に、青井の目もとからなにかがこぼれ落ちる。

 通りすぎてゆくヘッドライトに涙の筋が煌めくも、青井は泣いているような表情をしていなかった。


「あれ……?」


 青井自身、なにが起きているのかわからないようだった。


「な、なんで!?」


 眼鏡をはずして、袖口で乱暴に目もとを拭う。

 私は鞄のなかからハンカチを引っ張り出して、青井に差し出した。


「キス、嫌だった?」

「そんなわけない!」


 叩きつけるような叫びに、私はハンカチを取り落としてしまった。

 青井は「ご、ごめん」と動揺しきった声を漏らす。ハンカチを拾い上げた私の手に触れようとして――指先が届く前に、「そうか……」と頭とともに両腕を垂れてしまった。


「鵜飼ちゃんが流れ着いたのって……このあたりだったよね?」


 青井に消え入りそうな声で問われ、私ははっとする。

 公園のすぐ隣を流れる滑川を渡れば、そこは材木座海岸――菜々子の遺体が発見された場所だった。


 砂のついたハンカチを握りしめる。

 思えば、私と青井の関係は、始まりからして歪だった。なのに、キスでむりやり親愛と恋愛との境界線を越えようとしたから、ますます歪んでいった。

 歪みが限界に達した結果、私たちを結びつけていた菜々子の死が歪曲の奥にひそんでいると、私も青井も気づいてしまったのだ。


「――菜々子」


 私はゆっくりと首を回し、夜闇に沈みつつある沖を凝視した。

 対岸に陸地が存在する葉山とは違い、鎌倉の海は太平洋に向かって開けている。


 海の果てに広がる大いなる虚空。

 菜々子の肉体はかろうじておかに戻ってきたけれど、魂は海の彼方に引きずりこまれてしまった。

 恋をしようともがくばかりの私は、いまだ菜々子の想いをくらい淵からたぐり寄せることができていなかった。恋という糸口さえ、つかむこともできずに。


 私は死の影から逃れるように、青井の腕にすがりつく。


「もう一度キスをしたら、泣きやんでくれる?」

「駄目だよ……」


 青井は力なく首を左右に振った。


「それは駄目だ。ぜったいに駄目」


 重なってゆく拒絶に、私はこめかみを殴られたような衝撃に襲われる。頭のなかがぐちゃぐちゃになってしまって、どうすればいいのかわからない。


 子どものように大声を上げて泣きたかった。

 でも、泣けなかった。

 泣くわけにはいかなかった。

 ――菜々子が死んでから、私は一度も泣いていないのだから。

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