恋を知らぬまま死んでゆく

第1章 真実は海の底

(1)ラスト・メッセージ

『失恋した。

 この気持ちは聖良せいらちゃんにはわからないよね。


 結局、あたしのこと理解しようとしなかったし。

 興味さえ持ってくれない。

 相変わらずしらけた顔して、なにも知らないふりをして生きていくんでしょ。


 ……ううん、聖良ちゃんだけじゃないか。

 みんな、あたしの気持ちはわからないまま先に行っちゃうんだ。

 あたしはここで立ち止まって、うずくまって、気づいたらだれもいなくて……。


 嫌だ。

 そんなの、嫌だよ。


 ねえ、聖良ちゃん。

 どうかここに来て。

 聖良ちゃんなら、あたしがどこにいるかわかるでしょ。


 だって、聖良ちゃんはあたしの――』




 突風が通り抜けたかのような轟音に、ノイズまみれの音声はかき消されてしまう。

 ぷつんとすべての音が途切れ、一瞬置いたのち、音割れしたアナウンスが流れはじめた。


『このメッセージを消去するには1を、もう一回聞くには2を、保存するには3を、次のメッセージを聞くにはシャープを押してください――』




◇◇◇




 それは、九月最後の金曜日のことだった。


「……は?」


 私は職員室の前でスマホを片耳に添えたまま、低い声を漏らした。とりあえず留守電メッセージを保存して、電話をかけてきた人物の名前をもう一度確認する。


 鵜飼菜々子うかいななこ

 母方のいとこで、小中高の同級生。幼なじみといってもいいかもしれない。


 菜々子から久しぶりに着信があったかと思えば、私にはあまりに難解な――当てこすりめいた伝言が残されていた。

 恨み節をぶつけられる心当たりがないわけではない。むしろ、ある。大いにある。でも、なんで今なのだろうか。私たちの関係は、すでに終わったはずなのに。

 菜々子がわざわざ電話をかけてきた理由もわからない。その気になれば、家に押しかけて私に罵詈雑言を浴びせることだってできるのだから。


 ざらついた違和感が、肺の内側を埋め尽くしていく。

 胸騒ぎは嫌な予感へと変わり、私は肩下まで伸びた髪を乱暴に掻き上げた。


「電話してくるってことは、急用だよね……」


 発声練習代わりのひとり言を口にしてから、腹をくくって菜々子に折り返す。

 菜々子と一対一で話すのは、いったい何年ぶりだろうか。

 いきなり「なんの用?」と訊いたら、菜々子は怒るかもしれない。


 コール音は鳴らなかった。

 代わりに、抑揚のないアナウンスが流れる。


『おかけになった電話番号は、電波の届かないところにいらっしゃるか、電源が入っていないためかかりません――』




「あー! 魚住うおずみさんだ! 好きです!」


 私が繋がらない電話に立ちつくしていると、気のふれた挨拶が耳に飛びこんできた。

 意識が現実に引き戻される。放課後の校舎のざわめきがよみがえり、自分が薄暗い廊下にいることを思い出した。


 スマホの画面をセーラー服の裾で拭きながら振り返ると、眼鏡の男子生徒が職員室から出てくるところだった。

 私と目が合うと、人なつっこい大型犬のような笑みを浮かべる。長い足で床を蹴って、私との距離をあっという間に詰めた。

 女子のなかでは背の高い私よりも、さらに頭半分は上背があるから、しゃれにならないくらい迫力がある。

 私は真顔で相手の顔を見上げた。


「青井」


 いつもだったら半ば無視するように流して終わりにするけれど、今日にかぎっては名前を呼び返してしまった。

 青井は「は、はい?」と眼鏡の奥の目をしばたたかせる。ただならぬ気配を感じたのか、笑みをひっこめて、「……なんかあったの?」とささやいた。

 べつに、なんでもない。

 そう言おうとしたのに、気がつくと別の言葉が口から飛び出していた。


「菜々子……じゃなくて鵜飼さんから着信があった」


 青井の目が丸くなる。


「え? めずらしいね。お互いに避け合ってるんじゃなかったの?」


 なんで青井が私と菜々子の距離感を把握しているのか。丸二年間も私の周りをうろちょろしているものだから、どこかで小耳に挟んだろうか。やたらと顔が広いから、菜々子とも交流があったのかもしれない。


「先生と推薦入試について打ち合わせしてたから電話に気づかなくて。さっき留守電を確認したら、『失恋した』って伝言が残ってた」


 青井が「し、失恋?」と食い気味で繰り返した。


「そう。なんでそんなこと私に言うのかわからなくて、気持ち悪いというか、変な感じがする」


 青井も菜々子のメッセージの奇妙さに気づいたのか、「うーん……」とうなりながら首をひねった。

 私に恋の話をするほど、無意味なことはない。

 青井は身に染みて知っているはずだ。それでも折れることなく、告白を重ねてゆけるなんて――恋心は不可解だ。


「魚住さんから鵜飼ちゃんに連絡は返した?」

「圏外だった」


 青井は「心配だね」とこぼすと、窓の外を見やった。

 つられるように、私も潮風を浴びて濁った窓ガラスに目を向ける。

 中庭に植えられた木々の枝葉が、強風にあおられて鞭のようにしなっている。

 視線を上げると、今にも雨が降り出しそうな曇天が広がっていた。


 午後三時半現在。

 湘南の東端、神奈川県葉山町に嵐は近づきつつあった。


「……台風、相模湾から上陸するかもしれないって」


 青井がぽつりと告げた。


「海沿いのバスはすぐに止まるし、台風のときは結構な確率で停電になるし……。ああ、まずいなぁ」


 青井の頬がどんどん強ばってゆく。


「どうかしたの?」


 私が問いかけると、青井は「なんでもない」と不器用にほほ笑んだ。


「それじゃあね」


 片手をひらりと振ると、昇降口に向かって駆けてゆく。青井にしてはめずらしい、あっさりとした去り際だった。


 ――そういえば、青井は沿岸部このへんに住んでるんだっけ。

 私は青井の背中を見送りながら、頭の片隅で思い出した。




 下校する前に、もう一度菜々子に電話をかけてみる。

 再び流れる圏外のアナウンス。


 菜々子が電話に出ることは、二度となかった。

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