(6)あの日の夢を見る

 これは夢だ。

 そう認識できたのは、死んだはずの菜々子が目の前に立っていたからだった。


 肩につく長さの髪。

 眉を整えただけの顔面。

 味もそっけもないブレザー。

 手にはぬいぐるみポーチ付きのスマホと、二つに折られたA3サイズの紙。


 紙が模試の結果だと認識した途端、背景として雑居ビルの踊り場が構築される。中学生のころに私と菜々子が通っていた学習塾に続く階段が、菜々子の背後にあった。


 十五歳の菜々子は、眉根を寄せて、下くちびるを噛んで、私を見上げている。


「聖良ちゃんといっしょの高校、このままじゃ受からないかも……」


 消え入りそうな声を聞いて、私の胸の奥でなにかがうずいた。

 ――当たり前だよ。

 心の声が、私の意識とはべつの場所から響いてきた。

 それはまぎれもなく“私”の思考で、身に覚えのある反応だった。


 ――なぜ、しまったんだろう。

 よりにもよって、この日のことを。


 そう考えた瞬間、目の前に存在するすべてが記憶の再現であることに気づいた。

 高三いまの私と中三かこの“私”が夢のなかで重なって、私の現状を決定づける出来事を追体験しているのだ。


 中三の“私”がなにか言おうと小さく息を吸った。

 決して口にしてはならない言葉を発してしまう直前の動作。あまりに無知で無神経で――けれど今でも変わらない想いを、“私”は吐き出そうとしている。

 私はとっさにくちびるを引き結んで、言葉を封じこもうとした。

 けれど、すべては既に終わってしまった出来事で、私の意図が通用する余地なんてなかった。


「恋愛なんてしてる暇があったら、勉強すればいいのに」


 自分のものとは思えない澄んだ声で、過去の“私”は本音を菜々子に突きつけた。

 途端、視界に砂嵐が吹き荒れる。

 菜々子の顔を埋め尽くすホワイトノイズ。

 この瞬間の菜々子の表情を、私は覚えていない。

 ――おそらく、記憶から永遠に消し去ってしまったのだ。


 “私”は憎たらしいまでに平然としていた。明晰で冷徹な意識を、凍りついた菜々子に注いでいる。自分の正しさをいっさいに疑わずに。

 このときの“私”はなにも怖くなかったのだ。


「……信じられない」


 菜々子の肩が震え、吐息のような声が漏れた。


「あたしだって、好きで恋してるわけじゃないのに!」


 爆風のような叫びだった。

 側頭部を殴られたような衝撃が走り、“私”の呼吸が詰まる。


「恋ってするものじゃなくて、なっちゃうものなのに! 病気みたいなものだって、みんな言うじゃない! どうして聖良ちゃんにはわからないの!?」


 菜々子は叫びながら腕を振りかぶり、スマホを投げつけてきた。

 金属とガラスの塊は私にぶつかることはなく、背後の壁にぶつかって落ちる音だけがした。

 スマホがどうなっているか確認する余裕なんてない。息を吸って吐くことさえろくにできなかった。

 心臓は早鐘を打ち、すさまじい勢いで身体がおかしくなっていくのがわかった。膝が震えて、冷たい汗がにじんで、視界がぐにゃぐにゃと歪む。


 私は本気でわからなかった。

 恋とはなんなのか。

 なぜ自分には恋がわからないのか。

 そもそも恋は実在するものなのか。

 どうして恋なんて不確かなものに、菜々子は本気になれるのか。


 わからないことがいくつも重なって、“私”はエラーを起こしていた。思考回路が破たんしてしまって、瞬きさえもままならない。


「……なんで」


 菜々子が肩で息をしながらささやく。


「聖良ちゃんはあたしのことを理解してくれないの? 今までずっと、あたしのなにを見てきたの……?」


 数秒前までの激情はすっかり抜け落ち、灰のようになった声がこぼれ落ちた。

 そのまま菜々子は深くうつむいてしまう。

 彼女の肩や背にあおぐろいなにかがのしかかっているような気がして、私は後ずさった。

 かかとの端で、なにかやわらかいものを踏んづけた感触があった。乾いた弾力から察するに、床に転がったぬいぐるみポーチだったのかもしれない。でも、そんなことどうでもよかった。


 “私”は恐怖していた。

 目の前の同級生が、いとこが、幼なじみが、私とは異質なものに変容してしまったことに。恋という得体の知れないものに浸食され、私の理解の及ばない存在になってしまったことに。


「……知らないよ」


 気づくと、自分の口から低い声が漏れていた。

 それが当時の私の導き出した答えであり――今の私の気持ちでもあった。


「私は菜々子について、なにも知らない。知りたくなんて、ない」


 怒りはなかった。

 憎しみもなかった。

 あるのはただ、理解できないものに対する嫌悪だけだった。


 菜々子が弾かれたように顔を上げる。

 泣いていないはずなのに充血してにごった瞳。

 どうしてそんな目をするのかわからなくて、私と似ているくせに理解不能な衝動を抱える菜々子の顔がひどくグロテスクに思えて――。


 私は逃げ出した。




◇◇◇




 目覚めは最悪だった。

 言うまでもない、菜々子の――しかも仲違いしたときの光景を、夢で掘り返してしまったからだ。


 たった一瞬とはいえ記憶を開放してしまったから、菜々子の夢を見たのだろう。押し入れのなかに雑にモノを詰めても、次に押入れを開けたときになだれ出てしまうように。


 私は目をこすりながら、カーテンの隙間から外を見る。

 まだ暗い。スズメの鳴き声も車の通る音も、なにも聞こえなかった。

 手探りで目覚まし時計を確認すると、朝の五時過ぎだった。十二月の夜明けはまだ遠い。


 のろのろと布団から這い出て、上体を起こす。明け方の冷気にさらされ、一瞬にして眠気が吹き飛んだ。

 私はあわてて横になり、布団を頭までかぶる。

 視界を闇に閉じこめても、眠気は戻ってこなかった。呼吸をゆっくりにしても、羊を数えても、頭は冴えてゆく一方だ。


 ――もし、あのとき菜々子から逃げずに、恋心を理解しようとしてたら?

 九匹目の羊と十匹目の羊の合間から、思考があふれてきた。

 なにも考えずに眠ってしまいたいのに、脳は勝手に答えを導き出そうとする。


 私が菜々子の変化にちゃんと向き合っていたら、ささやかな衝突で済んだのかもしれない。

 高校に入ってからも、親密な関係でいられたのかもしれない。

 私という理解者がいれば、菜々子は失恋しても海になんて行かなかったのかもしれない。

 だとしたら――菜々子は死なずに済んだのかもしれない。


「……そんなの、わからないよ」


 無意味な妄想を断ち切るために、私はささやいた。菜々子との会話でよく口にしていた台詞だと、少し遅れて気づく。


「私は菜々子じゃないし、ましてや神さまでもないんだから」


 何度となく繰り返してきた言葉。

 それは、今日まで菜々子に抱き続けてきた想いでもあって……。


 ――ほんとうに?


 間髪入れずに疑問が湧き上がってきた。


 ――理解したいと思っているくせに。恋を。菜々子を。

 だからこそ、あの日、あの瞬間の夢を見たのだ。


 制御不能なが頭のなかで炸裂する。

 私は思わず飛び起きた。寒さも忘れて、頭を激しく左右に振る。


「そんなことない!」


 声を荒げた直後、右の頬に衝撃が弾けた。

 水っぽい破裂音が、狭い室内に響く。


「え……?」

 あっけにとられながらも、右手を見下ろした。

 自分自身を叩いた痛みが、てのひらにじんわりとわだかまっていた。

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