(5)失恋と死

 写真は中学の修学旅行中に撮られたものだった。

 今よりも少し幼い顔立ちの私と菜々子が、いっしょに写っている。


「どうしてこんなものが……」


 数年ぶりに菜々子の顔を目にしてしまい、心臓が破裂しそうなほど激しく脈打っていた。

 視覚情報が引き金になって、菜々子に関するすべての記憶が同時によみがえり――だからこそ、そのひとつひとつをつぶさに想起せずに済んで――あわてて胸の深いところにぎゅうぎゅうと押しこんで隠すことができた。

 どんなに散らかった部屋でも、押し入れにものを詰めこんでしまえばきれいさっぱり片づく。それと同じように、私の思考も呼吸も急速に平静を取り戻していった。


 私は薄目を開けて、再度写真を見やる。

 もう、なにも感じなかった。


 はつらつとした笑みを浮かべる菜々子が手前で、つまらなさそうにカメラへ視線を送っている私が奥。

 ふたりの雰囲気はまったく違うけれど、はっきりとした顔立ちはたしかに似ている。少なくとも、血のつながりを否定するのが難しい程度には。


 ひょっとすると、私たちは互いの顔面に親近感を覚えていたからこそ、行動を共にしてきたのかもしれない。

 逆にいうと、私たちを繋ぐものは肉体をはじめとした物理的要因のみだった。だから、中三のときに菜々子の心が決定的に変容してしまったときに、あっさりと関係が崩壊したのだろう。


「こんな写真、さっさと捨てちゃえばよかったのに」


 写真を元あった場所に戻そうとして、引き出しのなかに折りたたまれた紙が大量に入っていることに気づく。

 びっしりと書きこまれた丸文字が、紙の裏にうっすらと透けていた。


「これは……」


 メモやノートの切れ端ではなくて――手紙だった。

 菜々子が熱心に書き綴り、だれにも渡されることのなかった、無数の感情の墓標。

 開いた手紙から、みずみずしいと評するには激しすぎる情動が垣間見える。


『あーダメ好き。ヤバいかも。』

『わかってたけど、私、ここまで馬鹿だったなんて……』

『やっぱりむかつく! せいらちゃんなんて――』


 視覚から流れこんでくる、菜々子の残滓。

 私は写真を手紙の上に放り出した。叩きつけるような動作で引き出しを閉める。

 私は手紙の入った引き出しをにらみつけたまま、しばらくのあいだ動けなかった。




 菜々子の遺品で、「ほしい」と思えるものはなにもなかった。

 どうしたものかな……とあらためて部屋を見渡す。

 ふと、骨壺の隣にこぶし大の毛玉――クマのぬいぐるみがちんまりと供えられていることに気づいた。

 背中にファスナーのついた、ちょっとしたポーチにもなるキーホルダー。菜々子の十五歳の誕生日に、私がプレゼントしたものだった。


「こんなものまで取っておかなくても……」


 あきれながら、ぬいぐるみポーチを手にとってみる。

 元はクリーム色だった毛並みは灰色に変色し、ツヤがなくなっていた。買ったときはもちもちだった中綿も、すっかりへたっていた。刺繍によって描かれている顔は、糸が抜けて片目が消えてしまっている。


 部屋に戻ってきた伶子さんが、「ああ、それね」と私の手のなかのぬいぐるみポーチに気づいた。


「菜々子がスマホにずっとつけてたの。お棺に入れてあげようと思って、洗って干しておいたんだけど……忙しくて忘れてたわ」


 つまり、このクマはスマホといっしょに海に落ちたということだ。もしかすると、菜々子の死の瞬間を見ていた可能性だってある。


 私はぬいぐるみポーチをまじまじと見つめた。

 消えかけたクマの顔は、なにも語らない。

 ポーチのファスナーをあけて、狭いポケットをのぞきこんでみる。

 砂が数粒残っているだけで、空っぽだった。



「聖良ちゃん」


 私がぬいぐるみポーチをいじっていると、伶子さんが静かに切り出した。


「菜々子からの留守電メッセージ、データ保存しておいてくれてありがとう。本人からしたら私に聞かせたくない話だったとは思うけど……。でも、最後の言葉を聞けてよかった」


 伶子さんの発言は独白めいていた。

 私はなにも言わずに、くたくたになったぬいぐるみポーチを揉み続ける。菜々子からのメッセージをいまだ消化できていないから、伶子さんにどんな言葉を返すべきかわからなかった。

 たぶん、伶子さんはなんの反応も求めていないのだろう。言いたいから言った。そんな一方通行なところが、伶子さんにはあった。


 沈黙が流れる。

 五感が鋭敏になっているのか、嗅ぎ慣れたはずの線香のにおいをやけに強く感じた。

 伶子さんはまだ言いたいことがあるみたいだけれど、私は菜々子の残り香に満ちた空間にすっかり嫌気が差していた。写真や手紙を見つけたときに、なけなしの気力をがっつりと削られてしまったのだ。


 もう帰っていいですか、と素直に訊こうとしたときだった。


「……こんなこと、聖良ちゃんに言うべきじゃないのかもしれない」


 伶子さんが再び口を開いた。平坦で、不穏な前振り。


「でも、聖良ちゃんにしか話せないから」


 私は伶子さんを見やる。

 伶子さんは無表情なようで、緊張しているのか口もとが強ばっていた。


 このひとは本気でろくでもないことを言うつもりだ。

 十中八九、菜々子のことだろう。

 お母さんではなく私を話し相手に選んだということは、留守電メッセージに内容についてなにか思うところがあって――。


 私の予感は的中する。


「菜々子は失恋が原因で自殺したんじゃないかと思うの」

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