(32)潮が満ちる
私はスマホをスカートのポケットにしまい、その手を胸に押しつけた。
自分の鼓動を感じながら、青井の通話が終わるのを待つ。
「――そんなわけで、今からそっちに戻るから待っててくれる? うん、森戸のファミレスね、おっけーわかったありがとう!」
青井がスマホを耳から離して、勢いよく振り返った。
「長々とごめん――ってなに!?」
直立する私に気づいた瞬間、大きくのけぞる。
数秒のあいだ私と見つめ合ってから、気まずそうに目を背けた。
「あ、あの……俺、実は友だちを待たせていて……」
青井は露骨な言い訳をしながら、じりじりと後ずさってゆく。
「だから、そろそろ行かなきゃならないんだけど……」
できそこないの笑みを顔に貼りつけたまま、さりげない動作で階段の上段に片足をかけた。
私はすかさず相手との距離を詰めた。
ためらうことなく、青井のスマホを持っているほうの腕をつかむ。五指にぎゅっと力をこめると、青井の身体はたちどころに強ばった。
相手が固まっているのをいいことに、私は揺れるお守りを注視する。
森戸神社に行ったときは、お守り袋は膨らんでいなかった。
もし、あの日、すでにお守りのなかになにかしまいこまれていたのだとしたら。中身はごく薄いもののはずだ。
たとえば、折りたたんだ紙片とか――。
私は「ねえ」と顔を上げた。
「お守り袋のなかに、なにを入れてるの?」
眼鏡の奥で、青井の瞳孔がじわりと収縮した。
「……指輪だよ」
「私とおそろいの?」
うなずく青井に、私は奥歯を噛みしめた。
――無理やりお守りを暴こうとしたら、青井の恋の残滓さえも粉々に砕け散ってしまうかもしれない。
青井の腕をつかんでいる手が震えそうになる。
これ以上の醜態は重ねずに、ここで引き下がるべきだろうか?
そうすれば、青井の思い出のなかの私は、かろうじてきれいなままでいられるはずだ。
――いや、違う。
もうひとりの私がささやいた。
今さらなにをしたところで、結末は変わらないだろう。
だったら、徹底的に浅ましく振る舞うべきなのではないか。
泣いて喚いてごねてゆすってありとあらゆる手段を尽くせば、隠された真実を手に入れられるかもしれない。
青井に嫌われまいと悪あがきしたところで、失われてしまったものが元に戻るなんてことはありえないのだから。
ならば――腹をくくるしかないのだろう。
私は深呼吸してから、「じゃあ、指輪以外にはなにが入ってるの?」と問を重ねた。
青井はわずかに視線を横にそらす。
「……なにもないよ」
「本当に? 薄くて小さなものなら、お守りのなかに余裕で隠せるんじゃないの? たとえば――菜々子の手紙とか」
私はしれっと“望むもの”を口にした。
勘ですらない、ただの願望。
証拠はないし、根拠も薄い。妄言にかぎりなく近い発言だった。
はずなのに。
「だからなにもないって!」
かろうじて保たれていた青井の穏やかさが剥がれ落ちた。
「やめてくれよ、もう……」
青井は悲鳴に似た声を発しながら、私の手を振りほどく。
私はひるむことなく、空いた手でお守りをもぎ取ろうとした。
「だから! お守りのなかには指輪しか入ってないんだって!」
青井は私の手を払いのけ、お守りを握りしめる。そのまま強く引っ張って――お守りの紐がちぎれた。
「お願い、お守りの中身を見せて」
私は食い下がる。
「無理だって言ってるだろ!?」
青井はぶんぶんと首を横に振って、お守りを握りしめた手を後ろに回して隠してしまった。
私は青井をねめつける。
どうすれば、お守りを青井から奪えるのだろうか。
体格も筋力も、青井のほうがはるかに勝っている。正攻法で挑んだところで、私に勝ち目はない。
――だったら、卑怯な手を使えばいいだけのこと。
短い黙考の末、私は一歩前に出た。
両腕を青井の首に回す。そのまま抱きつくように青井にもたれかかり、自分の胸を相手のみぞおちに押しつけてみた。
「う、魚住さん!?」
案の定、青井がひっくり返った声を上げた。
相手の顔を見上げると、頬が真っ赤に染まっていた。赤っぽい残光のなかでも、はっきりと見て取れるほど鮮やかに。
――青井はまだ私のことが好きなんだ。
ただれた心が破裂し、膿のようなどろりとした情動がこぼれ落ちる。同時に、安堵に似た温かさが広がっていった。
「いったいなにを――」
青井の叫びを無視して、私あ軽く背伸びをして小さく首をかしけた。相手のくちびるに自分のくちびるを重ねる。
心地よくも気持ち悪くもない、ただ生ぬるいだけの肉の質感がした。
かすかに漏れる青井の吐息が、私の皮膚の薄い部分をくすぐる。
互いの体温が混ざり合ったのを確認し、私はあっさりとキスを終わらせた。
青井から身を離したとき――ふと、なにかが足もとに転がる気配がした。
真下を見やると、お守りが落ちていた。
私は口内にたまった唾を飲み下す。お守りを拾おうと屈みこんで――。
「駄目だ!」
青井が声を張り上げた。
次の瞬間、目の前からお守りが消え失せる。
青井が蹴り飛ばしたのだ。
お守りは海のほうに飛んでいき――波打ち際のぎりぎり手前に落下した。
私はとっさに砂浜へ下りた。
砂地に足を取られ、片方の靴が脱げてしまう。それでも進み続け、お守りまであともう一歩の位置で前のめりに転倒した。
私は砂地に膝をついたまま、お守りに向かって片腕を伸ばす。
精一杯手指を広げて、指先で引き寄せようとして――。
「あ……」
白く泡立った波がお守りを飲みこんでゆく。
波が引いたあとには、なにも残っていなかった。
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