(31)行かないで

「鵜飼ちゃんはいなかった。……堤防にも、磯にも、どこにも」


 青井は波音にかき消されてしまいそうな声で告げた。


「しばらく芝崎をうろついてみたけど、なにも残ってなかった。だから、もう帰ったのかなって、そのときは思ったんだよ……」


 重々しい言葉を重ねるたびに、青井の表情はかげってゆく。

 

「刑事さんにだけは、鵜飼ちゃんのことを話したんだ。……でも、他のだれにも一生言わないつもりだった。そんなこと、俺にできるはずないのに」


 真正面から差しこむ出がらしのような陽光が、青井を照らしている。

 前髪が影になって、目もとがますます暗く見えた。


 私は逃げるように青井から目を背け、夕日を見やる。

 溶け落ちそうな太陽の上端が、山陰からわずかにのぞいていた。かと思うと、瞬きを数回するあいだに太陽は西の彼方に消えてしまった。音もなく、ひっそりと。

 桃色に染まった空と、陰鬱な色の海だけが残される。

 クリスマスイブに見た夕焼けのような苛烈さはない、ひたすら冷え冷えとした日没だった。


 私は体側でてのひらを握りしめた。

 こんなにさみしい海を、夕日を、菜々子は愛していたのだろうか。


『ねえ、聖良ちゃん。

 どうかここに来て

 聖良ちゃんなら、あたしがどこにいるかわかるでしょ。


 だって、聖良ちゃんはあたしの――』


 耳の奥に菜々子の最後の言葉がよみがえる。

 いまだにわからないことだらけのメッセージ。それでも、菜々子が私に電話した理由だけは推測できた。

 菜々子は感情が乱れた末に、衝動的に連絡をよこしてきたのだろう。失恋の原因である私に。ゆえに、菜々子からの数年ぶりの接触は、いまではなくあの日だったのだ。


 私は海にせり出した芝崎の護岸に目をやる。

 積み上げられた消波ブロックと、その向こう側に見える堤防。海面と堤防の高低差は二メートル程度だった。

 台風の日、堤防の上に立つ菜々子の目撃証言があったと、警察は発表した。

 つまり、菜々子は護岸から海に落ちて死んだ可能性が高い。


 薄闇に沈みゆく堤防に、菜々子の輪郭を思い描いてみる。

 堤防から消波ブロックの上に移動した菜々子は、自ら海に飛び込んだのだろうか。それとも、運悪く波にさらわれてしまったのだろうか。


 私が思案にふけっていると、青井が「あのさ」と話しかけてきた。


「……ひどいこと、言っていい?」


 私が「いいよ」と返すと、青井は泣くのをこらえるように眉間にしわを寄せた。


「魚住さんに恋を教えてほしいって言われたときのことなんだけど……」


 青井は私に上体を向けると、ためらいながら話し出す。


「魚住さんと付き合えば、鵜飼ちゃんがだれに失恋したのかバレないよう、こっそりとコントロールできるかもしれないって考えたんだ。鵜飼ちゃんが失恋したってことを知ってるのは、魚住さんだけだったから。魚住さんに気づかれなければ、他のだれにも俺が鵜飼ちゃんを振ったって知られることはないはず……ってね」


 青井は私の顔色をうかがうような目つきをしていた。


「菜々子のお母さんも、菜々子が失恋したって知ってるけど」


 私はぶっきらぼうに補足した。

 青井は「それはわかってる」とうなずく。


「さすがに大人をだますのは難しいよ。でも、魚住さん程度なら、俺でもなんとかなると思ったんだ」


 青井は「まあ、無理だったんだけど」と自棄を起こしたかのように笑った。

 ……いや、ほとんど笑えていない。ただ、頬が引きつっただけだった。


「俺のこと、嫌いになった?」

「なれない」


 私が間髪入れずに返すと、青井は目を見開いた。

 狼狽するように視線をさまよわせてから、「それは……困ったな……」と口もとをてのひらで覆った。

 そのまま背を丸め、なにやら考えこんでしまう。


 青井に放置された私は、ミネラルウォーターを口に含んだ。黄昏時の海風に凍えた身体には、冷たすぎる水だった。

 歯を鳴らしながら、ペットボトルの底に少しだけ残った透明な液体を眺める。


 おそらく、青井は私を嫌ってはいない。

 だからこそ、私からの呼び出しに応じてくれて、私を丁寧に扱ってくれて、青井にとって都合の悪い真実を明かしてくれたのだろう。


 ふと、ずるい考えが頭をもたげた。

 青井のやさしさに――あるいは弱さに付けこめば、心を繋ぎ止めることができたりしないだろうか?


 ――無理だ。

 すぐさま、心の声が返ってきた。

 再び寄り添おうとしたところで、私の存在は青井の罪の意識を刺激してしまう。今後、青井との接触を断つ以外、私にできることはないのかもしれない。

 わかっているのに、青井のやさしさを求めることをやめられなかった。




 残照が薄れてきたころ、青井が立ち上がった。


「……日も暮れたし、帰ろうか」

「嫌だ」


 私は座ったまま首を横に振る。

 青井は眉尻を下げながら頭を掻いた。


「これ以上、俺から話せることはないんだけど……」


 私は下くちびるを噛む。

 青井の足にみっともなくすがりついてやろうか半ば本気で考えていると、くしゃみが出た。


「魚住さん、コート着てないじゃん。風邪ひいちゃうよ」


 私は鼻をすすりながら、青井をじっと見上げる。


「……どうして私に気をつかってくれるの?」


 純粋な問を口にしただけのつもりだったのに、思いのほか低い声が出てしまった。


「本気で嫌われたいなら、私なんて放って勝手に帰ればいいのに。青井がやさしすぎるから、菜々子も恋しちゃったんだよ」


 ここで菜々子の名前を出せば、青井の足が止まると薄々わかっていた。

 行かないでほしかった。

 そばにいてほしかった。

 けれど、私と青井の関係は、手の施しようのないほど歪みきってしまっている。

 わかっているからこそ、素直に「ここにいて」と言えなかった。


 私は階段に座ったまま青井と見つめ合っていた。

 膠着状態は数分間続き――青井が「あっ」と間の抜けた声を漏らしたことで終わりを告げた。


 青井はズボンのポケットから、バイブの鳴っているスマホを引っぱり出す。


「ごめん、ちょっと電話出るね」


 短く断りを入れてから、私に背を向けた。


「もしもし? あー、ごめんごめん、ちょっと急用ができて」


 薄闇のなか、青井の明るい声が炸裂する。


「え、そうなの!? 申し訳ない!」


 気の置けない相手と話しているのか、先ほどとは打って変わって屈託のないしゃべり方だった。


 私は耳をふさぐ。

 青井の楽しげな声を聞いただけで、胸が焼け爛れてしまったかのように痛んだ。

 なんとか正気にかじりつこうと、青井のスマホにぶら下がっている『受験合格御守』をにらみつける。


 センター試験のときと同じように、お守り袋の下のほうが膨らんでいた。

 やっぱり、中に指輪でも入れているのだろうか。

 だとしたら、青井も私に未練を感じていたりするのかもしれない――。


 私はあわてて首を横に振って、思考を中断した。

 お守りの中身を勝手に妄想して、期待を膨らませたところで、あとでつらくなるだけだ。


 指輪について考えないために、私はお守りに関する他の記憶を探ってみる。

 そういえば、青井は「正月にお守りを返納する」と言っていた。

 受験はとっくに終わっているのだから、初めての“デート”で森戸神社に行ったときにお守りを返納してしまえばよかったのに。

 どうして、青井はお守りを手放さなかったのだろうか。


「……あれ?」


 不意に心臓が大きく脈打った。

 青井がお守りを握りしめていたことを思い出す。


 ――もし、十二月の時点で、すでにお守りのなかになにか入っていたのだとしたら?


 冷え切っているはずの身体から、汗が噴き出してきた。

 私は青井に対する違和感を必死でかき集める。

 やがて、ひとつの可能性に思い至り――しばらくのあいだ、呼吸さえも忘れて呆然とした。

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