(33)海へ

 私は立ち上がるやいなや、去りゆく波に飛びこんだ。

 再び寄せてきた波のなかにお守りと思しき影を見つけ、真っ白な泡に手をつっこむ。

 お守りは私の指先をかすめ、巻き上がった砂の中でくるりと翻った。そのまま沖へと流されていく。


 私は波にさらわれたお守りを追いかけた。

 輝く水滴が跳ねる。

 服や靴が濡れてもどうでもよかった。


 穏やかな夕暮れだった。

 海は浅く、波は低い。

 けれど、着衣のまま波間を超えてゆくのは困難だ。

 水を吸って重たくなったスカートの裾が、太ももにまとわりついて歩きづらい。海底は砂地と岩場が入り乱れていて、足場も悪かった。おまけに、三月の海は冷たくて、つま先がかじかんでくる。

 それでも水面にきらめくものをすくおうとし、一歩、また一歩と深みへ向かっていった。まるで、なにものかに導かれるように。


「魚住さん! 危ないから戻って!」


 遠くから青井の声が聞こえてくる。


「進みすぎだよ! なんかおかしいって!」


 青井がいくら声を張り上げたところで、戻れるはずがなかった。

 まもなく夜が訪れる。

 太陽の残した光が失せてしまう前になんとしてでもお守りを――その中に隠された菜々子の断片を、この手で捕まえなければならなかった。

 それは、生きている私と死んだ菜々子を繋ぐ、か細い糸だった。

 たとえこの身体が海に溶けて、深海に降る雪に成り果てたとしても、私は菜々子を理解しなければならないのだ。


 水面にうっすらと映る夕焼けは色褪せ、青に近づきつつあった。

 ぞっとするほど透明な水の底へ、お守りが静かに沈んでゆく。

 私は腰まで水に浸かりながら、お守りに向かって手を伸ばした。あと少しのところで届かない。

 沖に向かってゆるい潮流があるのか、お守りが前方へ流されてゆく。


 お守りに少しでも近づこうと腰を屈めると、セーラー服の襟元から海水が流入してきた。

 冷たかった。

 息ができなかった。

 けれど構わず前進する。

 今度こそお守りをつかもうとして――足を踏み外した。

 しまったと思ったときには、身体は淵へと吸いこまれ――。


「魚住さん!」


 背後で呼び声が弾けた。

 胸の下に長い腕が回される。

 次の瞬間、力強く抱き寄せられた。

 足裏が水底に着き、自力で立てるようになる。


 私はなにが起こったのかわからないまま、結んでいた右の拳を開いた。

 ふやけたてのひらの上には、たしかにお守りが存在していた。無意識のうちに、自分の命を守ることよりもお守りを優先していたようだ。


「よかった……」


 お守りを固く握りしめる。

 耳元でため息が聞こえた。


「……帰るよ」


 ささやかな声とともに、私を抱き留める腕がゆるんだ。

 振り返ると、すぐ近くに青井の顔があった。しかめっ面の奥に、慈しむような色が混じっている。

 私は力なくうなずいた。

 青井は私から両腕を解くと、黙って私の左手を取った。てのひら同士を重ねて、そっと手をつないでくる。

 恋人つなぎではない。海のなかで離ればなれにならないための、現実的で強固な結びつきだった。


 青井に手を引かれ、岸に向かって斜めに歩き出す。

 私は周囲を見渡して、凍えた息を吐き出した。

 知らず知らずのうちに、波打ち際から五十メートル近くも離れていた。お守りのことで頭がいっぱいで気づかなかったけれど、潮の流れに巻きこまれていたのかもしれない。

 自分の行為の危うさを把握した瞬間、濡れそぼった制服の重さを思い出した。

 手も足もくずれかけの泥人形のようで、青井にペースを合わせてもらってかろうじて歩いている状態だった。


 青井が迎えにきてくれなかったら、私はどうなっていたのだろうか。

 考えた瞬間、頭から海水をかぶったかのように血の気が引いていった。海にいることが急に怖くなって、青井の手にしがみつく。

 青井はなにも言わず、てのひらを握り返してくれた。

 ――生きていてよかった。

 じわりと伝わってくる熱に、そう、思ってしまった。




 残照が失せる前に、なんとか陸地に着くことができた。

 私は倒れるように砂の上に座りこんだ。気力だけで足を運び続けたから、もう一歩も動けなかった。


 ガタガタと震えながらもお守り袋から飾り紐を引き抜き、なかに入っているものを取り出そうとする。けれど、指先が痺れて思い通りに動かせない。


「大丈夫?」


 青井は階段に脱ぎ捨ててあったコートを拾い上げて、私の肩にかけてくれた。

 厚手の生地が風が遮り、身を削るような寒さが和らぐ。

 私は青井を振り仰いだ。


「コートに塩水が染みちゃう」

「構わないよ」


 青井は私の隣に片膝をついた。痛みをこらえるような目つきで、私の全身をあらためる。


「首元まで濡れちゃって……このままだと凍死するよ」

「青井だって私のせいでびしょ濡れでしょ」

「俺は下半身しか水に浸かってないから」


 青井は小さく笑うと、コートのポケットからスマホを取り出して私から離れていった。あらゆる干渉を拒むように私に背を向け、スマホをいじる。


「……キスしてごめん」


 私は青井の背中に投げかけてみた。

 青井は階段に片足をかけたままなにも言わない。

 もしかして、私の乱暴で無謀な行動に怒っているのだろうか。

 それとも、恋心の伴わないキスを思い出させてしまったことがまずかったのか。

 心当たりはいくらでもあった。

 青井はお人好しだから今回は助けてくれたけれど、本当は私の顔も見たくないのかもしれない。


「お守り、開けていい?」


 心細さに負けて、つい、訊かなくてもいいことを口走ってしまった。寒さで気が弱っているのか、青井の声を聞きたくてしょうがないのだ。


「いいよ、もう」


 青井はスマホを持ったまま、呆れたように返してきた。


「駄目って言ったら、魚住さん、なにをしでかすかわからないから」


 返す言葉がなかった。


「今、弟に着替えとか持ってきてくれるよう頼んでるから、おとなしくしててね」


 青井に釘を刺されて、私は「うん」と首を縦に振った。わざわざ言われなくても、立ち上がる元気さえなかった。


 青井がスマホの操作に戻ったから、そのあいだに私はお守り袋を逆さまにしてみる。

 真っ先に銀の指輪が転がり出た。

 お守り袋を振ると、今度は紙で包まれた板状のものと、折りたたまれた紙片が砂の上に落ちる。

 私は紙片を拾い上げた。

 かじけた指先で濡れた紙を破いてしまわないよう、慎重に折り目を探す。


「――それ、読まないほうがいいよ」


 突然、青井が話しかけてきた。

 私が顔を上げると、青井は険しい面持ちでこちらを凝視していた。


「なんで?」

「それは……」


 青井は言いよどむ。

 数秒のあいだ視線をさまよわせてから、決心したように私と目を合わせた。


「遺書、だと思うから」


 私は胸に釘を打たれたような衝撃に襲われた。


「護岸に鵜飼ちゃんのスマホが残されてたんだよ。スマホは壊れてたけど、クマ型のポーチを開けたら魚住さん宛の手紙が入っていて……。俺にとって都合の悪いものだったから、隠すことにしたんだ」


 青井は絞り出すような声で打ち明けた。

 痙攣しそうなほど強ばった青井の顔を見ていられなくて、私は手もとの紙切れに視線を落とす。


「……だったら、なおさら読まないと」


 この手紙が本当に遺書ならば、私の求める真実が綴られているはずだ。

 読まずに葬るなんて選択肢は存在しない。


 意識して呼吸を整えながら、爪を使って手紙を広げてゆく。

 手紙を読んだら、私の心は粉々に打ち砕かれてしまうかもしれない。知ることは恐ろしく、理解することはいたましいことだから。

 私はすべて承知の上で手紙に視線を落とし――黒いボールペンで書かれた文字を追った。

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