(8)恋を教えて

 一色海岸の北端は黒い巨岩に囲まれた磯で、砂浜に比べたらきれいでもないし、散歩をしようにも狭すぎる。そのため、冬場はほとんどひとが来ない。海岸のすぐ上の駐車場も平日は閉鎖されているから、なおさら人目につかないはずだ。


 青井からは『すぐ行く!』と頼もしい返信があったから、私は駐車場と磯とを繋ぐ階段に腰かけて待つことにした。

 スマホで菜々子の死に関する記事を漁ってみる。


『お探しの記事は見つかりませんでした。』


 ニュースサイトに表示された文章を目にした途端、ため息が漏れた。小さな町で起きた海難事故は、世間的にはすでに過去のものになってしまったのだ。

 やるせない情動に襲われ、はたと我に返る。

 私自身、十数分前まで菜々子のことを忘れる気満々だったことを思い出した。


 ――べつに、それでもいいと思う。

 すぐさま、許容で後ろ暗さを上塗りした。

 違和感が心のなかに留まり続けるということは、いつ、どこにいても居心地の悪さを抱えながら生きることと等しい。

 菜々子が私に「失恋した」と伝えた意図を理解することは、彼女を心置きなく忘れるための行為だ。たとえ記憶が薄れてきても、爪を引っかけてしまいそうなところにできたホクロのように、ときおり私の人生の邪魔をするのだろう。

 そんなふうに考えないと、あまりに苦しかった。


 物思いにふけっていると、駐車場のほうから自転車のブレーキ音が聞こえてきた。

 私は立ち上がり、振り返る。

 青井が派手なクロスバイクから降りるところだった。


「魚住さーん、今日も好きだよ-」


 青井はクロスバイクを柵に繋ぎながら、こちらに顔を向けずに挨拶してきた。

 私は首をかしげて、一足先に最下段へと向かう。砂浜には降りない。ローファーを砂だらけにしてまで、波打ち際まで行く気にはなれなかった。


 青井が転がるように階段を下って、私の隣に並んだ。満面の笑みを浮かべる様は、波につっこんでいって尻尾をぶんぶんと振るラブラドールレトリーバーのようだった。

 私は青井の正面に回りこんで、背筋を伸ばしたまま相手の瞳をまっすぐにのぞきこむ。

 青井がたじろいだ。もみあげをちまちまといじりながら、「な、なんでしょうか……?」と目を泳がせる。

 私はさっそく本題に入ろうとして――その前に言っておくべきことがあると気づいた。


「大学合格おめでとう」

「ありがとう……って、え、んん?」

「推薦で受かったんでしょ?」


 私が首をかしげると、青井はあわてたように「う、うん!」と頭を縦に振った。


「魚住さんも合格おめでとう!」

「うん」


 それっきり会話が途切れ、沈黙が流れる。

 いざ本題に入ろうにも、なにから語るべきなのかわからなかった。

 まず、背景に菜々子の死があって、仲違いの原因も伝えて、それから……。

 私が考えあぐねていると、青井が「ええっと……」と頭を掻いた。


「もしかして、『おめでとう』を言うために俺のこと呼び出したの? いや、うれしいんだけどさ! でもさ、他にもさ、あるんじゃないかなって、ね? 海辺マジックって知ってる?」


 青井はわざとらしい軽率さで問を重ねてきた。


「なにそれ」

「いま適当に考えた。海のそばってそれっぽい雰囲気あるからさ……ほら、俺も思春期だし……?」

「なるほど」

「ぜったいわかってないでしょ」

「私もそう思う」


 私が大真面目に首を縦に振ると、青井が「だよねー……」と納得半分、気落ち半分な様子で肩を落とした。


「俺、なんで期待しちゃうんだろ……。いいかげん学習したい……」


 めそめそと反省しはじめた青井を無視し、私は虚空を見上げた。

 私にはさっぱり察することのできない物事となると――青井は恋について話しているのだろうか。

 だとしたら、都合がいい。

 本題に入る踏ん切りがついた私は、改めて青井に向き直った。


「青井。前に『俺と付き合ってもいいって気になったら教えて』って言ったよね?」

「ん? んんん?」


 青井が目を白黒とさせる。トイレに失敗した犬のような情けない顔で、「ちょ、ちょっと待って!」と裏返った声を上げた。


「そ、そんなこと言ったけ……? 言ったね……? 言いましたね……。でもそれ二年くらい前のことだよね? いまさら? なんで?」

「今でも私に恋してる?」


 私が間髪入れずに迫ると、青井が「ひゃあ」と情けない声を上げた。


「ししししししてるよ! いまでも魚住さんのこと大好きだよ! ていうかそれ、べつにわざわざ訊かなくてもわかるよね!?」

「青井のほんとの気持ちはわからないから」


 青井は「ぐう……」とうめいた。困り顔のまま、笑っているのか泣いているのか微妙な表情をする。


「私が菜々子のこと避けてたって、青井も知ってると思うんだけど」


 私が切り出すと、青井がぎょっとするのがわかった。


「実際のところは、菜々子の気持ちがわからなくなって、私から逃げ出したんだよ」


 抑えた声音で語りながら、礫の混じった荒い砂の上に降りた。


「でも、わからないものをわからないままにしておくのは、どうにも気持ち悪くて」


 満潮のときに打ち上げられたらしい、干からびた藻屑を踏みつける。死臭に似た潮のにおいが立ちのぼってきたような気がしたけれど、きっと幻覚だろう。


「私、菜々子がなにを考えて死んでいったのか知りたい」


 私は十歩以上先にある波打ち際を見やる。


「……ううん、知りたい」


 いまは引き潮で、浜に降りたところで菜々子が死んだ海はまだ遠い。


「ねえ、恋って死にたくなるほど苦しいものなの?」


 青井を振り返る。


「伶子さん――菜々子のお母さんが言ったんだ。菜々子は失恋したから、自殺したんじゃないかって」


 青井は驚かない。困り顔のまま、泣くのをこらえているかのような表情をしていた。

 どうしてそんな面持ちで好きなひとわたしを見つめてくるのかわからない。

 やっぱり、恋は苦しいものなのだろうか。


「だから、私は知りたい。恋の痛みを、失恋のつらさを」


 階段まで戻って、青井と向かい合う。


「青井。私に恋を教えて」


声が、震えた。

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