(7)深海のその果てに
結局、二度寝はできなかった。
私はいつもより一時間以上早く家を出て、学校の近くの海――芝崎海岸の前へと足を運んだ。学校の図書室で自習しようと思ったら、まだ校門が開いていなかったのだ。
時刻は午前七時二〇分、天気は快晴。風はほとんどない。制服の上にダッフルコートにマフラーという服装でも、寒いとは思わなかった。
磯に降りる階段をのぞきこむと、岩礁まで歩いて渡れるほど潮が引いていた。
波は穏やかで、海水の透明度も高い。
肺いっぱいに空気を吸いこんでみる。
潮のにおいはごく淡かった。海中も冬枯れしているのか、磯臭さの発生源となる漂流物が少ないようだ。
県道をはさんで二〇〇メートルほど先に屋上だけ見える校舎に向かって、堤防沿いを歩き出す。
右手側には消波ブロックが重ねられた護岸、左手側にはリゾートマンション。
季節はずれの別荘地は、まったく人気がない。
私は歩調をゆるめ、沖を眺める。
低い山々の向こう側から姿を現したばかりの太陽に照らされ、灰色の水面が巨大な銀皿のように輝いていた。
静かで、穏やかで、明るくて――死のイメージからはほど遠い海だった。
いくら水面が嵐で荒れ狂っていたとしても、自分自身が死にたいという衝動に駆られても、この海を前にして死にたいという気持ちになれるのだろうか。
『菜々子は失恋が原因で自殺したんじゃないかと思うの』
伶子さんの一言が耳の奥によみがえった。
端的な言葉は音もなく私の心臓に深々と突き刺さり、一晩経っても抜ける気配がなかった。
菜々子の夢を見たせいで、ますます伶子さんの台詞が頭から離れなくなってしまったのかもしれない。あるいは、伶子さんの台詞に動揺して菜々子の夢を見た可能性もある。
「自殺、ね」
昨日からずっと頭のなかを回り続けている単語を、ゆるい海風に乗せて流してみた。
声に出したところで、なにひとつ気分は晴れなかった。
伶子さんはなにを感じながら、菜々子からの留守電メッセージを聴いたのだろうか。
なにがきっかけで、菜々子の自殺を疑うようになったのだろうか。
なにを思って、
菜々子からのメッセージを聴いた人間は、警察のひとを除いたら私しかいないからだ。私が話し相手として適切なのかは、いろんな意味で疑問が残るけれど。
私は伶子さんの言葉を持て余しながら、だれもいない道を歩き続ける。
失恋して自ら命を絶つ。
それ自体が、私には信じがたいことだった。
滝壺に残る伝説とか、古い恋愛小説とか、フィクションではよく見かけるから、昔から広く好まれているエピソードではあるのだろうけれど。でも、私にはそれが現実でも起こり得る話なのか、それともフィクションだからこそ成立する話なのか、さっぱりわからなかった。
県道の手前に差しかかり、校門が見えてきたころ、私は足を止めた。もう一度芝崎の海を見やって、堤防の端部は低くなっていることを思い出す。
気まぐれで堤防に上り、南に目を向けた。
道路より少し高い位置から臨む海は、いっそう白くまばゆく感じた。
純粋にきれいだな、と思う。でも、私はもっと光に満ちた海を知っていた。
中三のとき、同じ場所から菜々子と夕日を見た。
空と海と太陽しか存在しない、黄金色の光に支配された世界に菜々子は魅了され、成績的には挑戦校レベルの高校を受験したのだ。
そんな背景を慮ると、菜々子はこの海を死に場所に選んでもおかしくないのかもしれない。
だとしたら、やっぱり菜々子は自殺で――。
「……わからない」
私はあえて声にすることで、思考を否定した。
「どうして菜々子がここにいたのかなんて。もう、だれにもわからない」
唯一、答えを知っている菜々子は死んでしまった。
ただの女子高生である私に、菜々子の死の真相を知ることなんてできるはずがない。警察のひとたちでさえ、菜々子が自殺したと判断可能な情報は見つけられなかったのだ。
きっと、真実は海の底に沈んだまま。
マリンスノーの降り注ぐ真っ暗な海溝で、菜々子の想いはクジラの骨とともに永遠に眠り続けるのだろう。
私にしてはめずらしい、ロマンチックな妄想だった。
鼻で笑い飛ばそうとするものの――元より硬い表情筋はぴくりとも動かなかった。
笑えるはずがなかった。それは妄想でありながら、心からの祈りでもあった。“知りたくない”という願いを、私は幻想に託しているのだ。
決して手にすることのできない真実を求め続ける。
そんな不毛な未来を選びとれるはずがなかった。
春になったら大学生になって、新しい生活のなかで菜々子のことを少しずつ忘れていって、家族に薄情だと呆れられながらも生きてゆく。
菜々子が最期に指摘したとおり、私はしらけた顔で、ありとあらゆることを見て見ぬ振りしながら、ひとり大人になっていくのだ。
どうせ、喧嘩をしてもしなくても、菜々子とは決別する運命だったのだろう。
中三のときには、すでに菜々子はまったく異質な生きものになっていた。二次性徴よりも暴力的で、理不尽な変化を経てしまった。
一方で、私は恋を知らない。どんなものなのかさえわからない。
そもそも、恋なんてものが実在するのかさえ疑わしかった。みんな“それ”があると思いこんでいるだけで、実は勘違いなのではないだろうか。
私にとっての恋は、逃げ水ですらない。
その幻影でさえ、見ることができないのだから。
べつに、今まで菜々子のことを理解しようとしなかったわけではない。ただ、理解できなかっただけで――。
――嘘だ。
海から突風がぶつかってきた。
私の細くてやわらかな髪がかき乱され、顔にへばりつく。
髪をかき分けながら顔を上げた瞬間、海面を跳ね返った陽光が瞳に飛びこんできた。あわてて目を閉じるも、黒々とした残像は網膜に焼けついてはなれない。
しょうがないから、残像が消えるのをじっと待つ。
胸の奥のさらに深淵で、なにかがうごめいていた。不快ではない。けれど、じっとしていられないような、そわそわとした落ち着かない情動がせり上がってくる。
――だったら、実際に恋をしてみればいいだけのこと。
私は海を背にして堤防に腰かけ、リュックからスマホを引っぱり出す。
ケースの縁からぶら下げたぬいぐるみポーチが、海風を受けて遺骸のように揺れた。
菜々子を理解するために、恋をしてみる。
我ながら名案だけれど、実行するには恋に付き合ってくれる相手が必須だ。
私に好意があって、良識があって、なおかつ個人的なわがままにも付き合ってくれそうな人間といえば――いる。顔を合わせるたびに「好き」と言ってきて、なおかつ気のいい男子が。
私はアドレス帳を開いて、青井の連絡先を探した。
久しぶりに――具体的には二年ぶりに使う宛先だった。一年生のころ、同じクラスだったときに交換してそれっきりになっていた。
何度か青井から連絡はきたが、どれもこれも他愛のない雑談だった。返信が面倒で「それ、直接話して」と伝えて以来、メッセージは届かなくなり、今に至る。
「私の頼み、受けてくれるかな……」
青井は私のことが好きだと言い続けている。
でも、どこまで本気なのだろうか。相手が私に対して抱いている感情が恋なのかさえわからない。
私は青井からの好意をずっと受け流してきた。それなのに、今さらそれにつけこもうだなんて。決してほめられたものではないだろう。さすがの青井でも「虫がよすぎる」と怒るかもしれない。
うっすらとした不安とばつの悪さを覚えながら、青井宛てのメッセージを作成してゆく。
文章だけで状況と目的を説明しようとして――長くなりすぎたため全消去した。画面を埋め尽くす文字の塊を目にしたら、私だったら間髪入れずにメッセージを閉じてしまう。
『今から一色海岸の芝崎側の磯までこれる? 駐車場の下あたり』
短くて無愛想な文面を、躊躇しながらも送信した。
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