(10)デートという概念
――無事に大学合格しました。ありがとうございます。
私は声には出さずに念じ、まぶたを上げた。
目の前には、質素な配色の拝殿。大きな鈴と繋がっている麻縄が、かすかに揺れている。
森戸神社。鎌倉入りしたばかりの源頼朝が葉山の海沿いに建てた、古い神社……らしい。学校と最寄り駅との中間地点にあるから、推薦入試の前に受験合格を祈願しておいたのだ。
私はあたりを見渡して、本殿の隣にある木造の小屋――『お札お守納所』へと足を踏み出す。
先にお参りを終えた青井が、そわそわと近づいてきた。
「ここ、学校から近いし、このへんに住んでる同級生もいるんだけど……。だれかに目撃されたらまずくない?」
私の後ろに半身を隠しながら耳打ちしてきた。
青井は周囲を警戒しているつもりなのかもしれないけれど、私とくっついていたら余計に目立ちかねない。
葉山の観光の中心地とはいえど冬の平日は参拝客もまばらで、高校の制服を着ているだけでも人目につく。だったら、知人に会ってしまうことにおびえるよりも、腹をくくったほうがいいはずだ。
「大学合格したから、お礼参りに来たって言えばいいんじゃないの? 実際そうだし」
肘を使って青井を押しのけると、青井が愕然としたように「もしかしてこれは……デートではない……?」とぼやいた。
私は「さあ」と流しながら、物置のような『お札お守納所』の前に立った。リュックの鞄の内ポケットから『受験合格御守』を取り出して、大きな木の籠に納める。
これで用は済んだ、けれど。
さっきまで隣にいたはずの青井が、一瞬のあいだにいなくなっていた。
「青井……?」
振り返ると、青井は参道で知らないおじさんと肩を組んでいた。知り合いなのか、満面の笑みではしゃいでいる。
私が立ち尽くしていると、青井は私の視線に気付いたのか「魚住さーん!」と声を上げた。おじさんに頭を軽く下げてから、飼い主の元へ戻る犬のように駆け寄ってくる。
「ごめん、犬の散歩仲間のおじさんが話しかけてきて……」
ずれた眼鏡を直しながら謝る青井のわきをすり抜けて、私は参道へと向かう。
青井が「待って待って!」と隣に並んだ。
「青井、犬飼ってるの?」
「うん、ラブラドールが二匹いるよ」
「つまり、青井の家には併せて三匹の犬がいる、と」
私が雑な相づちを打つと、青井も「そうなんだよ、みんなかわいくて~」とポケットからスマホを取り出した。どうやら、私に犬の写真を見せようとしているらしい。
「ってちょっと待って!? 三匹? 俺も含めてる!?」
突然、青井は我に返った。
「うちにはドーベルマンみたいな弟もいるから四匹だよ! ちなみにドーベルマンはうちの学校の中等部にいるから! ……いや、俺は犬じゃないよな……つまりラブラドールたちとドーベルマンで三匹……? あれ?」
私は青井のスマホにぶら下がったお守りをちらりと見た。
「そういえば、お守り返納しなくていいの?」
「買ったばかりでなんかもったいないから、返納はお正月でいいかなーって」
青井はへらへらと笑い、お守りを大切そうに握りしめた。
「ねえ、デートってなにするものなの?」
神社から県道に戻る途中、私は青井に問いかけた。
青井は「んー」と顎に手を当て、虚空を見上げる。
「カップルでいっしょに出かければデートなんじゃないかな? でも、『おうちデート』って概念もあるような……?」
「がいねん」と私は繰り返した。ひょっとすると、デートとは明確な定義が存在しない言葉なのかもしれない。
「青井はデートしたことある?」
「あるといえばあるような、ないとは言えないというか……」
青井は輪をかけて難しい顔をする。
デートという概念が抽象的なものだから、デートに該当する行為を経験したことがあるのか、青井もよくわかっていないのだろうか。
「つまり、あるってこと?」
「ちなみに魚住さんのこと好きになる前だからね!?」
「気にしてない」
「俺が気にしてるんだって!」
青井は「これだから魚住さんは」と不可解な文句を垂れながら、正面を向いた。
「たしか高一の春だったかな」
数秒の空白の後、やけに重々しく切り出す。
「まだ魚住さんの魅力に気付く前の俺は、中等部の後輩の女の子といっしょに水族館に行ったんだけど……。俺、釣りも好きだから魚ネタは結構豊富なんだ。だから調子に乗ってずっと魚の話をして……それがよくなかったらしくて。その子は外部進学のために高校受験して、勉強が忙しかったみたいで自然と音信不通に……」
青井はわざとらしくため息をつく。足を引きずるようなずるずるとした歩調にも覇気がなかった。
私は首をひねる。
「水族館で魚の話をするのって普通じゃない? というか他に話題ってある?」
もしデート特有の作法が存在するなら、教えてほしかった。どうしてその作法を守らなければいけないのか、理由も含めて。
「うーん、今日の晩ごはんについて……?」
青井の返答はひどく頼りなかった。
「それはただの雑談じゃないの?」
「でも、俺しか楽しめない話題よりはマシかと思って……」
青井だけから恋愛を学ぶのは危ないと、私は察する。
きっと、青井は恋とはなにか本気で考えたことはない。感覚だけで恋をしている。もちろん、恋の感覚さえ持たない私に、青井を責められるはずがないけれど。
このままだと、恋を知らないまま高校を卒業することになってしまいかねない。恋について人一倍詳しそうで、なおかつ話しかける口実がある人物を探さなければ――。
白ウサギのような男子が脳裏をよぎる。
三原。
“女たらし”と名高く、菜々子と恋人同士だった三原なら、恋愛だけではなく菜々子の気持ちにもくわしいかもしれない。
「そういえば、魚住さん家ってナマコ食べる?」
青井が脳天気に話しかけてきた。
私が顔を上げると、青井は「いや、あの、俺はどうしてナマコの話を……?」とてのひらで口を押さえてしまう。
「これだから俺は駄目なんだ! 食卓の話をするにしても、カサゴとか
「ナマコ、薄く切らないと硬いよね」
私は気のない返事をしながら、三原に話しかけてみようと決意した。
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