(13)恋をねがう

「『恋のない人生は、死んでいるのも同然』……ね」


 私は菜々子の部屋の床に座り込んで、少女漫画の単行本に巻かれた帯を読み上げた。

『実写映画化決定!』という煽り文句の下に挿入された一文は、作品からの引用ではなくて有名な小説家の推薦文らしい。


 私は単行本の最終刊をぱらぱらとめくってみる。

 高一のころ、五巻くらいまで読んだ漫画だった。

 ごく普通の女子高校生が主人公で、恋愛対象の少年が死ぬけど幽霊になって、そのせいでいろんなことが起きる――という内容だったと思う。

 少女漫画らしく主人公の恋の行方がメインになっているけれど、語られているのは恋愛だけではなかった。友情とか、家族とか、将来とか、容姿とか、性とか、普遍的なものごとがこれでもかというくらい盛りこまれていて、だからこそ全十五巻ものボリュームになったのだろう。


「あら?」


 仕事用のスーツから部屋着に着替えた伶子さんが、部屋の扉から顔をのぞかせた。


「聖良ちゃん、漫画好きなの?」

「まあまあ好きです」


 我ながら会話のキャッチボールをする気のない返答をしてしまった。けれど、疲れているときの伶子さんはそのほうが安心するらしい。

 伶子さんは無言で部屋に入ってきて、簡易祭壇の前にしゃがみこんだ。線香を真ん中で折って、火をつける。


「伶子さん」


 私は漫画を持ったまま、線香立てをいじっている伶子さんを呼んでみる。

「なに?」と、特段疲れているわけでも機嫌が悪いわけでもなさそうな声が返ってきた。


「恋のない人生って、死んでるのも同然なんですか?」


 私の淡々とした質問に、伶子さんはりんを鳴らす棒を取り落とした。

 驚きを無理に隠し通そうとしているような、硬い顔で振り返る。

 私の手元にある単行本に気づくと、「なにを言い出したかと思ったら……漫画の帯ね」と、ほっとしたように目もとをゆるめた。


「それ、思春期の話?」


 私がうなずく。

 伶子さんは「だったら、そう難しい話じゃないわ」と床に片膝をついたまま私に向き合った。


「子どものうちは世界が狭いから、恋をしてるかどうかが大きな問題に感じることもあるんだと思う。まあ、大人でもそういうひとはいるけど」

「個人差が大きいってこと?」

「そういうこと。聖良ちゃんはピンときてないみたいね」


 私はあごを引いた。伶子さんは付き合いが長いだけあって、私の微妙な表情の変化を的確に読み取ってくれる。


「恋ってよくわかりません」


 私はお決まりの感想を口にして、カラーボックスから引っぱり出した単行本を自分のリュックにつっこんだ。

 そのあいだに伶子さんは鈴を鳴らし、菜々子の遺影に向かって「ただいま」と手を合わせる。

 線香の煙でも吸いこむかのように胸を大きく上下させてから、「聖良ちゃん」と真顔で私を見た。


「このあいだは変なこと言っちゃってごめんね」

「はい?」

「私が菜々子の死と失恋を結びつけちゃったから、その漫画が気になったんでしょ?」


 私は内心「鋭いな」と舌を巻きながらも、「そうじゃないです」と首を横に振る。


「明日と映画を観に行くから、予習のために原作を借りにきたんです」


 小さな嘘をついてみた。




◇◇◇




 翌日、私は青井といっしょに映画を観に行った。

 青井の「まずは理想の恋愛ってものを押さえてみよう!」という提案に乗って、恋愛映画を選んでみた。

 原作漫画があるから併せて読むことで、より深く、より具体的に恋愛について考えることができるのではないか。そんな狙いもあった。




 映画は原作とは違う形で幕を下ろした。

 愛した人は空に消えてしまったけれど、思い出を胸にこれからも生きていく――いわゆる「切ない系」の終わり方だった。

「さあ泣け!」と言わんばかりの間の取り方や、主題歌の入れ方は、親切だから嫌いではない。むしろ、現実もこのくらいわかりやすくあってほしかった。

 もちろん、私の表情筋は動かなかった。というよりも、泣き方がわからなかった。


 スタッフロールが流れ、映画館内が明るくなる。ようやく、隣に青井がいることを思い出した。

 私は二時間ぶりに同行者に顔を向ける。そして、目を疑った。

 青井はティッシュで鼻を押さえ、歯を食いしばってスタッフロールをにらみつけていた。泣いてはいないけれど、下まぶたが少し腫れぼったい。


「花粉症?」


 違うとわかっているのに、つい口に出してしまった。




 他の観客がぞろぞろと席を立つタイミングで、私たちも映画館を後にした。


 私は歩きながらかたわらの青井をまじまじと観察する。

 質の良さそうなピーコートに、ストライプのシャツに細身のジーンズ。高校生の財力では買えなさそうな服だから、家族が見繕ったものなのかもしれない。

 私服のほうが、制服よりもよっぽど似合っていた。青井の長い手足はのびやかで、学ランというかっちりした服装だと傍目から見ても窮屈なのだ。


 私の視線に気付いたのか、青井が「ん?」と前髪を直す。


「魚住さん、俺に見とれてた?」

「なんで?」

「真面目に反応するのやめて! 胸が痛いから!」


 青井は叫びながら心臓のあたり押さえた。映画館で静かにしていた反動か、いつもに増してやかましい。


 私は青井を受け流しながら、ショッピングセンターへ降りるためのエスカレーターに乗りこむ。

 下段に立つ青井が振り返って、私の顔を見上げた。


「映画、どうだった?」

「原作のほうが好きかも」

「どうして?」

「映画は尺の都合もあると思うんだけど、恋愛ばっかで味気なかったから」

「あー、なるほど……。恋愛に対する感受性が育ってないのか……」


 青井はうんうんとうなずきながら、エスカレーターから降りた。


「ちょっと待って」


 聞き捨てならないことを言われたような気がする。

 私は青井を大股で追いかけ、はぐれないように隣に並んだ。

 クリスマスシーズンなだけあって、休日の都会みなとみらいは人間が多い。一度離ればなれになってしまったら、ショッピングセンターから脱出するまで合流できそうになかった。普段ならそれでも構わないのだけれど、今は青井に確認しなければならないことがある。


「ねえ、『恋愛に対する感受性が育ってない』ってどういう意味?」


 私は青井の耳たぶに食らいつくように訊いてみた。


「そのまんまの意味だよ」


 青井はさわやかに笑った。


「魚住さんのことだから、きっとよくわかってないだろうけど……。大丈夫、俺が大事に育ててあげるから」

「できるの?」

「ここで疑う!?」


 青井はわざとらしく両手をわなわなと震わせる。


「俺が……こんなにも愛を注いでいるというのに……!」

「青井は映画と原作、どっちのほうがよかった?」


 私は青井の茶番には乗らずに、脱線した会話を元に戻した。


「俺は映画のほうが好きかな」


 青井も何事もなかったかのように答えた。


「原作、結構長いじゃん? だから、映画化するために恋愛だけを抽出したんだと思うんだけど。映画だと恋愛だけに集中できて、あーいいねーってしみじみ思った。相手が幽霊になっても好きって気持ちに変わりないみぽにゃんに、原作よりも共感しやすかったというか……。純愛って最高じゃん……」


 青井の声には熱がこもっていた。私が薄味だととらえた恋愛映画を、青井は心の底からよかったと感じたのだろう。


 私は恋の楽しさを知らない。そのせいで、友だちとの会話に入りこめないこともあった。

 べつに恋の話に同調しなくても、「そういうキャラだもんね」と雑に許容はされてきた。けれど、なんでこんなつまらないことで盛り上がれるんだろうと、しらけてばかりだった。


 今は置いてけぼりにされているような感覚はない。たぶん、私の「恋を知らない」という事情を理解している人間といっしょにいるから。

 青井は恋の知識が噛み合わないことを承知の上で、私の個人的な目的に付き合ってくれている。それは呆れるほど都合がよくて、だからこそ奇跡みたいなことだった。青井がいれば、私にとって未知の感情にも手が届くかもしれない。


 ――このひとに恋をしてみたい。

 青井の横顔を見上げながら、私は生まれて初めての感情を抱いた。

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