(14)心拍数
ショッピングセンターの出入り口は、数メートル先を見通すことさえできないほどに混雑していた。
人間が四方八方からぶつかってくるから、私は急所を守るためにも青井に密着する。
青井が「きゃー!」とか「やわらかいやわらかいなにがとは言えないけど押しつけられてるー!」とかやかましいけれど、たぶん空耳だろう。
人混みに揉まれながらも、青井を盾にした甲斐あってなんとかふたりそろって外に出ることができた。
青井は駅前広場の植木の下までよろよろ進むと、げっそりとした顔で柵にもたれかかった。人間の少ないところで育ったから、人混みは苦手なのかもしれない。
私は「大丈夫?」と青井の正面に立った。
青井はガクガクとうなずく。なぜか半笑いだった。
「魚住さんとの物理的な距離がゼロになって、ちょっと興奮しすぎただけだから……」
「ドキドキしてる?」
「してるよ!」
青井の頬が真っ赤になる。どうやら、ほんとうに興奮しているようだった。
私は腰に手を当て、青井の顔をのぞきこんだ。
「さっきの映画によると、恋って脈が激しくなることなんだっけ?」
「脈が上がるのって恋だけじゃないよね……」
青井は両腕を胸の前でクロスさせながら、上体を反らして私との距離を取ろうとする。
「運動とか……あるいはもっと原始的なことで……」
よく見ると、青井は耳まで赤くなっていた。
私ははっとする。
「青井の心拍数って今どうなってる? ちょっと脈取らせて」
「はい!?」
私は了承を取る前に、青井の左手をつかんだ。燃えるように熱い皮膚は、真冬の屋外だというのにほんのりと汗ばんでいる。無造作に手首に指を回してみて、その太さと骨っぽさに驚いた。
「脈が速い」
「そりゃあね!?」
「なんで?」
「真顔で訊かないで!」
「私に恋してるの?」
「してるよ!」
青井の返答はほとんど悲鳴だった。
肉体的接触は恋心を加速させると聞いたことがあったけれど、ここまで効果があるとは。
浮き上がった血管を指先でいじり続けると、とうとう青井が沸騰した。
「無理! 爆発する!」
叫びながら、私の手を振り払った。
私は灰のようになった青井を見下ろしながら、首をかしげる。
「私のこと、嫌いになった?」
「なりません!」
昼食はラーメンに決まった。
お店を目指してたらたらと歩きながら、私は「そういえば」と青井に投げかける。
「青井はなんで私のこと好きになったの?」
職員室の前でも質問したけれど、答えを聞きそびれていた。
「えっと……顔と雰囲気……?」
想定内の問いだったのか、青井は落ち着いている。
「一目見たときから、あー好きなタイプの顔だなーって……。いや、その時点では特別な感情はなくてね? 純粋に目の保養というか? 好みの外見だとつい目で追っちゃうじゃん?」
早口で問いかけられても困るけれど、私は「それはわかる」と同意しておいた。
「だから、さっきの映画の原作を魚住さんが教室で読んでたときに、なんとなく話しかけちゃったんだよ。『それ、おもしろいよね』って。覚えてる?」
「覚えてない」
「だよねー!」
青井は頭を抱える。わしわしと髪を掻き回してから、照れたような顔をした。
「あのときはまだ下心はなかったんだけど、魚住さんが『じゃあ最新刊まで読んでみる』って普通に返してくれたのが妙にうれしくて。しかも魚住さんがちょっとだけニコッとしてくれて、もっと冷たい子なのかなーと思ってたから意外すぎてドキドキして、俺は魚住さんのこと好きなんだなーって自覚したのがすべての始まりだったというか……」
「それだけ?」
私は拍子抜けした。
だれかに恋をする背景には、もっと壮大な心の動きがあるのだと思っていた。青井の言うような、ちょっとした会話が恋のきっかけになるというのなら、どうして私はだれにも恋をしたことがないのだろう。
私の疑問に呼応するように、青井は「それだけじゃないよ」と続ける。
「魚住さんに話しかけたとき、失敗したって思ったんだ。ろくに話したこともない男が少女漫画の話とか振ってきたら、『なんだこいつ』って思われるに決まってるだろって」
べつに、青井に対して「なんだこいつ」なんて、常日頃から思っているけれど。
私は胸の内側でつぶやきながら、おとなしく青井の話に耳を傾ける。
「ほら、少女漫画を読んでる男は女々しいとかあざといとか、いろいろ言われちゃうし……。でも、魚住さんはぜんぜん気にしてないみたいで、好きになるしかないじゃん」
青井のまっすぐさに、空っぽの胸を殴られる。
わからなかった。青井ではなくて、私自身が。
青井にほめられているのに、好意をぶつけられているのに、私の“恋愛感情”とやらはぴくりとも動いてくれない。ただ、私の胸の空白に、青井のあたたかい想いが一方的に流れこんでくるばかりだった。
決して不愉快ではない。むしろうれしかった。
なのに、どうしてこんなにも息が苦しいのだろう。
青井はくもりのない目で私を見つめてくる。
「俺、魚住さんの媚びないところが好き。さっき映画見たときもさ、俺と違う意見でも遠慮なくぶつけてきたじゃん。それがすっごく楽しくて、気持ちよくて……俺も言いたいことを言っていいような気がして、だから魚住さんといっしょにうれしいんだって、しみじみ思った」
「私がなにを言っても好きなんじゃないの、それ」
私がそっけない言葉をぶつけても、青井は「そうかもしれない」と笑うばかりだった。
「もしかすると、根拠なんてない本能的な『好き』に、もっともらしい理由をつけているだけなのかもしれないね」
それは私にとって、恋愛をさらに難しくする言葉だった。
でも、私に対して多角的な「好き」を連発してくる青井を見るかぎり、真実のような気もする。
「……私、どうすれば恋ができるかな」
無意識のうちに、弱々しい言葉が漏れていた。
私は青井のことを確実に好きになっている。なのに、映画や青井の挙動から学んだように、ドキドキはしなかった。「いいひとだな」とか「このひとおもしろいな」という感情とは別種だといえる衝動が、まったく湧き上がってこないのだ。
「シンプルすぎて、考えれば考えるほど難しくなるのかもしれないよ」
青井の反応は穏やかだった。ひょっとすると、私の焦燥を感じ取ったのかもしれない。
「魚住さんの恋心を引っ張り出せるように、来週は全力を出すからね」
来週、と私は口のなかで繰り返す。
――一週間後の休日は、クリスマスイブだった。
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