(15)恋が壊れる

 放課後。

 菜々子の遺品の参考書を進路指導室に寄贈して、下校しようとしていたときだった。


「どうして私とまだ別れてないのに、長崎さんのこと好きになったの!?」


 屋上に続く踊り場から、女子生徒の金切り声が聞こえてきた。

 階段を降りようとしていた私の脚が、金縛りに遭ったかのように凍りつく。壁に片手をついて、おそるおそる声がしたほうへ顔を向けた。


「いや、このあいだ別れようって言ったじゃん」

「はあ!? 『わかった』なんて一言も言ってないんですけど?」


 どうやら、男女が口論しているらしい。しかも、恋愛絡みで。

 彼らは――少なくとも女子生徒のほうは、下の階にいる私には気付いていないようだった。


「本気で別れるつもりなら、ちゃんと顔を合わせて話してよ!」

「現在進行形で面と向かって話してるだろ。そもそも、長崎とはまだ付き合ってねーし。告白だってしてない。なんでおまえに文句言われなきゃなんねーの?」

「だって私とまだ付き合ってるわけでしょ? 浮気とか最っ低!」


 記憶の奥底からホワイトノイズが湧き上がってくる。

 その向こうには、中三の菜々子の姿があった。


『あたしだって、好きで恋してるわけじゃないのに!』


 まずいと思ったときには、菜々子の叫びが脳内に炸裂していた。

 記憶の再生に頭を揺さぶられ、氷水のなかに突き落とされたかのような痺れに襲われる。


 ――ここにいては心が保たない。

 本能的に理解して、この場から逃げだそうとする。けれど、身体がぴくりとも動かなかった。


「は? 浮気ってなんだよ。俺と付き合ってると思ってるのはおまえだけだから」

「私と別れたって思ってるのもあんただけでしょ! ていうか、長崎さんのこと好ってこと否定しないわけ?」

「……そうだよ」


 男子生徒が底冷えするような声色で告げた。


「おまえのこと好きじゃなくなったから、別れようって言ってるんだよ」


 研ぎ澄まされた冷徹さに満ちた台詞。


 どこかでガラスが割れるような音がした。

 それが幻聴だったのか、それとも現実の音だったのか、判然としなかった。


 数秒後、幼児のような泣き声が襲いかかってきた。女子生徒が上階から駆け下りてくる。立ちつくす私には目もくれず、さらに下へと走り去っていった。

 女子生徒の絶叫はどんどん遠ざかってゆき――ついには聞こえなくなった。


 私は肩で呼吸をしながら、ゆっくりと顔を上げた。

 数センチだけ開いている廊下の窓から、なまぐさい潮風が流れ込んでくる。

 肺の奥で凍りついていた息を、ゆっくりと吐き出してみた。頭のなかに留まり続けていた悲鳴が、呼気とともに流れ出ていった。


 私は萎縮してしまった身体を引きずって、埃っぽい階段から日の当たる廊下へと移動した。


 怖かった。

 恋が壊れるときに放出される、凶悪なまでのエネルギーが。


 高校生は大人ではないけれど、かといって分別のない子どもでもない。他者から見た自分というものを気にするし、できるかぎり醜態をさらさないよう努力もする。

 なのに、女子生徒は学校という公の場で幼児のように泣きわめいていた。最初のころは、感情的になっていたとはいえ男子生徒との会話が成立していたのに。失恋が決定的になった瞬間、狂ってしまった。


 別れ話に伴う言い争いなんて、ありふれた出来事なのだろう。

 たいていの人は、女子生徒と男子生徒、どちらかには共感できるのだろう。

 恋の昂ぶりも、失恋の苦しみも、理解できるのが当たり前なのだろう。


 その程度のことなら、私だって“知っている”。

 友だちが似たような話をしていた。

 菜々子の部屋にあった漫画に描かれていた。

 青井といっしょに観た映画でも語られていた。

 恋愛とは「そういうもの」だと学ぶ機会は、いくらでもあった。


 なのに、どうして。

「わけがわからない」「気持ち悪い」と感じてしまうのだろうか。 


 ――私がおかしいのかもしれない。

 浮かび上がった疑惑を、私は腹の底に沈めて殺した。




 私は混乱したまま学校を後にして、駅に向かうバスに乗りこんだ。


 いつものように新逗子駅前で降車して、うつむいたまま駅の南口へと歩く。相変わらず頭のなかはぐちゃぐちゃで、周囲の様子がまったく意識に入ってこなかった。


「魚住さん!」


 ゆえに、完全に不意打ちだった。だれかに背後から呼び止められたのだと気づくのに、五秒くらいかかってしまった。

 ぎくしゃくとした動作で振り返ると、すぐ後ろに三原がいた。

 三原は口もとを覆うマフラーの隙間から、もくもくと白い息を吐き出している。


「なに?」


 私はいつもに増して無愛想な声音を発してしまった。

 三原は「ご、ごめんね」と肩を縮めた。カーディガンの袖口に隠れかけた両手を胸の前で合わせて、「びっくりさせるつもりはなかったんだよ……」と壊れたおもちゃのように深々と頭を下げてくる。


 私は露骨にため息をついた。


「だから、なんの用?」


 三原はなにも悪くない。

 わかっているのに、必要以上に強い声音になってしまった。


「あの、菜々ちゃんのことで話したいことがあるんだ」


 けれど、三原はひるまなかった。


「できればふたりきりになりたかったんだけど、学校だと難しいから……。おれと話してるところをだれかに見られたら、魚住さんにとって迷惑だよね」

「べつに迷惑じゃないけど」

「ほんと?」


 じっと見つめてくる三原を、私は「正直どうでもいい」と必要以上にばっさり切り捨てた。

 ――またやってしまった。

 心苦しさが喉もとまでこみ上げてくる。苛立っていないのに、刺々しい言い方をしてしまった。


「三原。物陰に移動したほうがいい?」


 取り繕うようにものやわらかに問いかけると、三原は「うん」と頬をほころばせた。

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