(35)埋められないもの
「無理」
私は即答した。
「だって、私のために手紙を隠したんでしょ? 菜々子が自殺だったら私の指定校推薦にも影響するかもしれないとか、いろいろ考えてくれたんじゃないの?」
「……俺はそんなにきれいな人間じゃないよ」
青井は私の肩から手をはなした。
気力が尽きたかのように、その場に腰を沈める。
「俺が鵜飼ちゃんを振ったってことまでバレたら、周りから責められるだろうし。うちの学校の高等部に進む弟まで、後ろ指さされる可能性だってある。下手したら地元にも俺が悪いって噂が広まって……。表立って非難されることはないだろうけどさ、家族が気まずい思いをするかもしれないじゃん」
ひざを立て、大きな身体を丸めながら、消え入りそうな声で語った。
私は「そう」と、青井の発言をいったん受け止める。
「なら、どうして私に嫌われたいの?」
「……嫌われたくない」
青井はひざの合間に顔をうずめてしまった。
「私のことが好きだから?」
私が追撃すると、「好きだよ」とくぐもった声が返ってきた。
「……俺のせいで鵜飼ちゃんが亡くなったって魚住さんにバレて、軽蔑されたり憎まれたりするのが怖かった。それで、手紙を盗んで隠したんだ」
青井は私を見やる。
「その後も魚住さんをだまし続けて、俺ばっかり甘い汁を吸って……」
焦がれるような、悪夢のさなかにいるような、いくつもの情動が入り乱れた目つきをしていた。
「俺にとってはさ、こうやって魚住さんと話していること自体が幸せなんだよ。魚住さんがそばにいて、俺のことを見つめてくれるだけで、胸がどきどきして身体が熱くなる。……でも、そんなの許されるはずがない。許されていいはずがないんだ」
青井は拳を振り上げ、砂浜を殴りつけた。
「魚住さんのこと好きだけど、好きになっちゃいけなくて。嫌われたくないけど、嫌われなくちゃいけなくて……」
砂に五指を食いこませながら、「どうすればいいんだろ、俺」と吐き捨てた。
私は「わからないよ」と言いそうになって、あわてて口をつぐむ。もっと思いやりのある言葉をかけなければ――そこまで考えて、首を横に振った。
たぶん、私がなにを言っても、青井を追い詰めるだけだろう。
「ねえ、青井」
結局、言いたいことを話すことにした。
「私のなかに、菜々子はもういない。菜々子がどうして死んだのか、納得したから」
青井の罪の意識をあおってしまうとわかっていながらも、菜々子の話をする。
「私がここまでたどり着けたのは、青井のおかげ。もし、今までみたいにだれにも深入りせずに、青井の好意も受け流し続けていたら、菜々子の手紙の内容を理解できなかったと思う」
相手が黙っているのをいいことに、言葉があふれてくるがままにしゃべり続ける。
「青井が付き合ってくれたから、菜々子の気持ちが少しだけわかるようになった。だれかを好きになることの楽しさも、うまくいかなかった関係に対する未練も、ぜんぶ青井が教えてくれたの。青井のこと、嫌いになれるはずがない」
菜々子が消えた虚ろに、胸が張り裂けそうなまでの愛しさが充満してゆく。嘘のように孤独感が薄らいで――。
――ああ、菜々子のことを忘れてしまう。
私は苦い息を吐いた。
「青井、好きだよ。大好き」
けれど、言葉は止まらない。
次から次へと生まれくる感情は、過去に根ざした罪悪感を軽々と超えてゆく。
「私がいくら好きって言っても、どんなふうに、どれくらい好きなのか、青井にはぜんぜん伝わってないと思う」
この想いは友情ではなくて、ましてや恋でもない。ゆえに、ますます伝わりづらいのだろう。
「私、青井の『嫌われたくないけど、嫌われなきゃ』って気持ち、ぜんぜん理解できない。すごく痛くてつらいってことはわかるんだけど、でも、それは私の想像でしかないから。私が知ってる痛みを、青井の言動に照らし合わせているだけ」
私は胸に手を当てる。
「恋については、想像さえできない。だから、ますます青井の気持ちがわからないのかも。恋の高揚感も、痛みも、私の中には存在しないから」
濡れそぼって冷たくなったセーラー服の奥に、自分の血潮を感じた。
「恋を理解できても、できなくても、私は青井とはわかり合えない。……ううん、青井だけじゃない」
私は笑おうとする。
わかり合えないことは、不幸ではないと思いたかった。
「私はだれともわかり合えない。だって、この世界には私と他人しかいないんだし。たとえ菜々子が生きていても、互いにわかり合える日なんて絶対に来なかったはず」
私たちのあいだには、目に見えない断絶がある。
そのことを青井とのやり取りのなかで理解して、これ以上菜々子を追いかけ続けることは難しいと悟ったのだ。
「ぜんぶ想像なんだ」
だから、手を放した。
固く握りしめていた後悔を、記憶の海へと沈めるために。
「菜々子の気持ちを理解したことも、菜々子の死が事故だったってことも。手に入った情報をもとに想像して、私が勝手に納得しただけ」
私は青井の頬を伝う涙に触れる。
青井が泣いている理由はわからない。
ただ、流れ落ちたばかりの涙が温かくて、青井が私を拒絶しないことだけが、私にとってのすべてだった。
「実は私、今でも菜々子にひどいことをしてるんだよ」
私は涙に濡れた手でスカートのポケットをまさぐり、海水でぐちゃぐちゃになったスマホとぬいぐるみポーチを引っぱり出す。
「遺品のポーチのなかに、青井からもらった指輪をずっとしまってたの。私自身はなんとも思ってないけど、これはひどいことなんだって、知識の上ではなんとなくわかる」
ポーチのファスナーを開けて、銀色の指輪をつまみ上げた。
「菜々子が青井に恋してたなんて、ぜんぜん知らなかった。私はずっと菜々子から逃げてたから」
私は左手の中指に指輪をはめた。
手の甲を虚空にかざし、目をすがめる。
「……この指輪を見るたびに、やりきれない想いでいっぱいになるんだろうね」
磨き上げられた槌目に遠くの光が反射して、かすかにきらめいた。
「でもそれって、私が菜々子を好きだったことの証拠なんだと思う」
私は首を絞められているような息苦しさに満足感を覚え、手を下ろす。
その手で今度は足もとをまさぐり、砂の中に転がっていたもうひとつの指輪を拾い上げた。
「……本当は青井とのつながりを証明するためのものなのにね」
私は「ごめんね」と青井に指輪を渡す。
青井は一瞬ためらったのち、「べつにいいよ」と指輪を握りしめた。
短い沈黙が流れる。
私は背筋を伸ばして、改めて青井と対峙した。
「私、青井について知りたい。好きだから。いっしょにいたいから。そのせいで青井が傷ついても、しょうがないかなって思ってる」
青井は驚いたように目を瞬かせた。
もう涙は流れていなかった。
「たとえ恋じゃなくても、好きって感情はどうにもならないよ」
私が言い放つと、青井は頬に残った涙を手の甲でごしごしと拭った。
「……俺だってそうだよ」
ズレた眼鏡を直しながら、決まりが悪そうにつぶやいた。
「俺、魚住さんを好きになることしかできないんだ」
青井は私を正視した。
「だって、一見無感情そうな子が笑いかけてくれたら、惚れるしかないじゃん。告白したら『は?』って顔するの、おもしろいじゃん。恋がわからないって不安そうな目で見上げてくるの、かわいいじゃん」
一息に吐き出したかと思うと、「……あっ」と我に返ったように真顔になった。
すばやく左右を見渡し、おそるおそる視線を私に戻す。
「……ドン引きした? したよね?」
「私のドン引きした顔が見たいの?」
「まあ……それもあるかも……」
青井はがっくりと肩を落とした。
「駄目だー……」と情けない声を上げながら頭を抱え、がしがしと頭を掻きむしる。
「俺、どうあがいても魚住さんが好きなんだよなぁ……」
いつもの青井が戻ってきたような気がして、私は口もとをゆるめた。
「じゃあ、私をドン引きさせてみてよ」
青井は「無茶ぶりだ……」とうめいた。それでも考えあぐねるように首をひねって、しばらくしてから「よし」と大きくうなずいた。
てのひらを開いて指輪を一瞥し、さりげない動作でズボンのポケットにしまう。
そして、私と向かい合った。
「聖良ちゃん。……抱きしめていい?」
「うん」
私が間髪入れずに了承すると、青井は「い、いいんだ……」と怖じ気づいたように肩を縮めた。
「女の子、抱きしめたことないんだよなぁ……」
ぼやきながらも膝立ちになって、身を寄せてくる。
「それじゃあ……失礼します」
ぎくしゃくとした動作で、私の腰に両腕を回してきた。
やわらかな動作で身体を引き寄せられる。互いの胸が重なり、上体が密着した。
「海のにおいがする……」
吐息のような声がして、青井の顎が私の首元に置かれた。
私は青井に体重を預け、胸に口もとをうずめてみる。
青井の身体はごつごつとしていて、肉も固くて、くっつきすぎると呼吸がしづらい。
私は相手の背中に手を添え、身体の向きを調整して、楽な体勢を探ってみる。
不自由に耐えてじっとしていると、青井の呼吸が全身に伝わってきた。
次第に私と青井の体温が溶け合って、どこまでが私で、どこからが青井なのかわからなくなってくる。
熱を吸って生ぬるくなった衣服が身体にべったり貼りついて、気色悪い。でも、ひとりで膝を抱えているときほど寒くはなかった。
緊張が少しずつほどけていき、居心地の悪さも薄れてゆく。
私はまぶたを下ろした。
いつのまにか浮かんでいた涙が目尻からこぼれ落ち、青井の熱が、呼吸が、鼓動が、私の世界のすべてになる。
私は青井の肩に額を押しつける。そうやって、声を殺して泣いた。
今までなんで泣けなかったのか、不思議なくらいさらさらと涙が出てくる。もしかすると、泣き方が青井の体温とともに伝わってきたのかもしれない。
――ああ、そうか。
喉元までせり上がってきた熱い情動を飲み下しているうちに、唐突にわかってしまった。
言葉では伝わらないものを共有するために、想像できないものを分かち合うために、人々は手を繋いで、キスをして、抱きしめ合うのだろう。そうやって、透明な断絶を埋めようとするのだ。
――埋められるはずがないのに。
青井というかけがえのないひとりを抱きしめても、好きという感情で胸が満たされていても、菜々子がいなくなった心の穴からは血が流れ続けている。
「……菜々子」
色のない悲しみがこみ上げてきて、顔面も頭のなかもぐちゃぐちゃになってゆく。
菜々子を理解しなければよかった。
答えのない問を追いかけ続ければよかった。
そうすれば、喪失の痛みなんて感じないで済んだのに。
私がしゃくり上げると、青井が私の背中をあやすように叩いてくれた。
焼け爛れてしまいそうな熱の塊が胸を巡り、喉をせり上がって、破裂し、涙や嗚咽と化して流れ出してゆく。
「なんで、どうして……」
やさしくするのだろう。
やさしくされたら、なにもかも壊れてしまいそうなのに。
私は青井にしがみつく。肩に食らいつくように、泣き声を上げた。
私なんて壊れてしまえばいい。
心から流れ出た血が、赤く腫れ上がった愛おしさが、これからの私を形作ってゆくはずだから。
恋しいのかうれしいのかさみしいのか幸せなのかわからないまま、私は子どものように泣きじゃくった。
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