第五章

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 次の日は朝から、アディはルースと二人、王宮の図書室で語学の勉強をしていた。


「では、その次の部分を訳してみて下さい」


「えーと……『彼はその大きな岩を片手で持ち上げ……』」


「違います。『彼はその大きな岩に片手を添え』です。身長よりも大きな岩を持ち上げるなど、どこの巨人の話ですか」


「はい……」


 アディは、持っていたノートにルースの言葉を書き綴った。


 この国で使われているのはキリリシア語だが、世界的に広く使われているのはオリベスラ語という公用語だ。


 キリリシアの女性が国外へ行くことはほとんどないので、オリベスラ語を使うことはまずない。だが王妃には必要という事で言葉の講義を始めてみれば、なんとエレオノーラとポーレットはすでにオリベスラ語を習得していた。エレオノーラはともかく、ポーレットも知っていたのはアディにとっては意外だった。アディも基本くらいは基礎知識として知っているが、問題なく会話をできるほどではない。


 というわけで、ただ一人オリベスラ語ができなかったアディは、ルースと一対一でオリベスラ語の勉強をする羽目になってしまったのだ。


「よろしいです。……少し休憩しましょう」


「はい」


 はー、と肩の力を抜いて、アディは息をついた。


 昨日はぎこちなく午後の講義に出たアディだが、ルースの様子はいつも通りで拍子抜けした。今日もずっと図書室に二人だけだというのに、ルースは相変わらず意地悪を込めた指導をしてくる。


 なぜ、ルースはあんなことをしたのだろう。


 アディの胸にはいまだにルースに抱きしめられた時の熱さが熾火のように残っていた。


(私ばかりどきどきしてばかみたい……)


 平然と次の資料を用意するルースを見ながらアディは、自分だけがルースの態度に振り回されているとわかって腹立たしくなる。それならこっちも気にしないでおこうと決めて、アディは大きく深呼吸をした。


「そういえば、こちらの王宮にアクトンという方はお勤めではないですか?」


 居心地の悪い沈黙に、アディは前から聞いてみたかったことを問いかける。


 この王宮に勤めている人間でアディが話をするのは、ルースだけだ。スーキーは、こまごまとアディの身の回りの世話をするのに王宮の使用人たちと話をする機会はあるが、誰に聞いてもアクトンという名前は知らないと言われていた。


 ルースは、本を開いていた手をとめてしばらく考え込んだ後で言った。


「お知り合いですか?」


「友人の兄なのです。私と同じロザーナの出身なのですけれど、この王宮に勤めていると聞いています。けれど、まだこちらに来てからお会いしたことがなくて」


「友人……そのご友人は、あなたと仲がよろしいのですか?」


 アディは、窓の外を見た。彼の住む町は、あの空の向こうだ。


 小さい頃からこっそり伯爵家を抜け出して外で遊んでいたアディは、いつしか街の子供達と仲良くなっていった。その子たちに誘われて、身分を隠して街の教会にも顔を出し、そこで幾人もの友人を得ていた。アディが伯爵令嬢だとは、今も友人たちは知らないだろう。喧嘩をしたり内緒話をしたりいろいろな相談をしたり……噂話ばかりの社交界よりよほど市井の暮らしの方が、アディにとっては楽しかった。


 その中でもクレムは、口げんかばかりしていたが特に仲のいい友人だった。クレムはクレムで、子爵の息子という彼の立場に全く頓着しないアディが珍しかったらしい。はたから見れば激しい口喧嘩とも覚える彼との掛け合いは、お互いが楽しんでやっていた。


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