第四話『第十使徒 正宗皇乃』2

 結局、湘南に雪が降ったのは、夢のようだったあの一日きりで。

「あー、なんだ。手加減なんざできねえからよ」

「……ん。大丈夫」

 オープンキャンパスが終わると、鬼百合女学院は依然として春を待ちながら、平常運転に戻っていった。

 校舎の並び建つ領域を外れた先に森はある。祝祭の日の只中にあってもそこは静謐としたままだった。『酔狂隊』のための拠点であって、水恭寺沙羅のための神殿であるようなそこは。

 今日、白い息を吐きながら、少女たちはその周辺に散らばっていた。そろそろ去り支度を始めているらしい冬が、まだセーラー服越しに感じられるような、そんな午前のことだった。

「早くしたまえ、ミスター鬼百合(偽)」

「よし。ぶっ殺す」

 脚を肩幅に開き霜の降りた土を踏み固めた硯屋銀子は、白い息を細く吐き、正面を睨みつけながら猪口に唇をつけた。

 ひと息に呷ってしまうと、食道がその形の通りに温まるのを胸の内に感じる。ヘルミが愛情を込めて熱した燗だが、セコンドのように傍らで徳利を持って立っているのは乙丸外連だ。

「おかわりは?」

「要らね……」

 外連の手元に猪口を押し付け、目を閉じる。己の心音に耳を欹てる。どっくん、どっくんと、一拍ごとに銀子の内側で誰かが入れ替わるタイミングを窺っている。

「んん~、味がよく染みてたまらないな」

 礼拝堂の厚い扉を背にしたまま、ヘルミは派手に湯気を立てながらコンビニの容器から選び取った竹輪麩を頬張る。言うまでもなく、おでんだ――寒空の下で周りの目など気にせず穏やかな笑顔でおでんを食べ続ける彼女へ向けて鋭い怒気を練るために、身を緩めてしまう温かな日本酒は一杯に留めたのだった。

「デブが……美味そうに食いやがって……!!」

 正統から遠ざかるうちに性質が変化しているとはいえ、やはり、酔太子拳は本来、貴人が身を守るための体質であって。

 追い詰められてもいないのに攻撃のため意図して起動するのは、実のところ、そう簡単でもない。銀子本人以外の誰にも理解できない感覚的なスイッチがあるのだ。

 怒りは、そのフックとして最も手っ取り早い。特に彼女を苛立たせるのはヘルミの言動だった。

「……」

 ヘルミの前には百合子が立ち塞がっている。コート姿で、マフラーは既にその首にない。

 瞼、乾いた冷たい風の中でもしっかりと開けて。銀子の一挙手一投足を目に焼き付けようと。

「そこの女」

 ぎろり、と。

 膝に両手をついて前傾していた銀子が顔を上げると、三白眼が覗いた。片側は垂らした銀色の前髪に隠されていてなお、普段との「差異」はわかる。

 硯屋銀子であって硯屋銀子ではない誰かが、深淵のようにその視野を司っている。

「退け。怪我してえのか」

 ――変わった!

 息を呑んだのは木陰から見守っていた和姫だった。隣で頭の後ろに手を組んでいた恬も、細い目を僅かに見開いたようだ。まともに喧嘩などできない片腕の和姫がいることからも察せるように、それはほぼ起き得ない万一なのだが、ふたりは内なる銀子が暴走して百合子を圧倒してしまった際のブレーキ役としてそこに立たされていた。

 横目で恬を見る。絆創膏や湿布は、どうせまた誰かに喧嘩を吹っ掛けた証だろうけれど。何か心境の変化があったのか――いくら暇でも、こんな面白くもないボランティアを進んで引き受けるのは桜森恬らしくないような気もした。

「……やだ」

 静かに息をする。肩の関節を回して、構えるのは琉球空手。そっと手放すように筋肉の緊張を抜き、流れる水となって衝撃に備える。藤宮和姫がかつて習っていた通りに。その様子を、民宿の女将たる祖母が用意した差し入れの盆を抱えて百合子は訓練場の戸の隙間からそっと見ていたのだ。

 見て――学び取っていたのだ。輝かしいヘーゼルの双眸は。

 足下は湿った土。左右に腕を伸ばせば必ず樹皮に触れてしまうほど鬱蒼としているわけではなくとも、確かに森の中なのだと感じさせる、秋に散った落葉や小枝の堆積したやわらかい土。夏におけるそこの景色を、百合子はまだ知らないのだけれど。

 獣のように駆ける――銀子の姿が、揺らいだ。そう、躓いて転んだかの如く。あるいは上体を投げ出すようにも見えた乱暴な重心推移。

 呼吸のリズムと噛み合わない。千鳥足だ――ぐらり、本能的な不安を煽る軌道で青白い拳が弧状に突き上げられる。

 しゅんとそれは空を切った。百合子は重心を落として上体を平たく地に近付け、脚を横に開いて銀子の動きをよく見ていた。ステップを踏むように後ろへ片脚ずつ引きながら身体を左右に滑らせる。

「うちのジンガだ!」

 指差して外連が叫ぶ。相対した者を幻惑させるカポエイラの基本動作である。静止する寸前の独楽のように、百合子の身が、傾いで。

 掌底を土に押し当てた。指に体重を乗せてしまわぬよう、肩からそこまで一本の軸を通すように。

 腋越しに覗くものとなった世界は逆さで――膝まで丈のあるスカートがふわりと広がる。厚手のタイツに包まれた左脚が槍と化して斜めに跳ね上げられ、酒気に憑かれた銀子の顎を狙う。

「っく」

 百合子は、自らより身長の僅かに低い銀子の顔面を狙って蹴るため、半歩分の距離を取りながら手をついていた。

 そのはずなのに妙にはっきりと、静寂の仕合う中で吃逆のように息が喉で詰まる音は聞き取れた。

 尋常の構えを崩して両手で立つ百合子の脚、その間合いを推し量る暇すらないままに、銀子は――かくんと首を倒す最低限の回避行動をとりながら、むしろ一歩前へ踏み込んでいた。千鳥足に特有の、唐突に強い踏み込み。

「上手い……!」

 我知らず漏らしたのは和姫。蹴り込まれながら紙一重でそれを躱し、遠ざかるのではなく逆に肉薄。足技使いが相手であれば近距離に持ち込むのは確かに理に適っているが、本能的な恐怖を押し殺す一拍を省いてそう踏み切ることができるのは、やはり酔っているからこそか。

 タイツの脚の立体交差をすり抜け、しかし百合子は「足技使い」に非ず。そう、煌めかせてみせる。ヘーゼルの、黄昏に輝く南海の瞳。

 右足を即座に下ろして軸とし、身体を背中側へ跳ね上げる。と、同時に、捻って廻る――手に付着した微量の土がこぼれ落ち、裏拳。軌跡を描くハイビスカスは赤。

 バチン、と肉が肉を弾く音が響いた。見守る桜森恬が腕を組んだまま口笛を吹く。

 百合子はすぐさまカウンターに備える。顔の前で大きくハートマークを描くように腕を回す。絡め取るような守りの型。

 しかし、裏拳を左腕で受けた銀子が選んだのは下だった。小柄な体躯から鋭く繰り出されるローキックが、くるりと回って着いたばかりだった百合子の左足を刈る。

「わ……」

 意識、そちらにはなかった。バランスを崩す。酔太子拳――異端。夢雨塗依の正統たるそれとは異なり、銀子が母の血を以て受け継いだ内なる貴種は、女と対峙してさえ獰猛さを隠さない。故に腕を使った大振りばかりに備えていた百合子だったが。

「しゃらっ」

 畳み掛ける。ギターの弦に触れる指のことなど「俺」たる銀子は考慮せず、苛烈に。

 縺れているようでもあるステップを踏みながら左右のフック。百合子の動きの中に隙をこじ開けようとしているかのようで。

「……お前も、面白え女だな」

 かくんと踵の方へ斜めに体重を落としてからの、伸ばした指先での突き。慣れさせることのない連撃が百合子の間合いを削りにかかる。その都度、百合子は片腕の外側で銀子の手を自らの正中線から追い出すようにして、立てた肘を胸に当て押し返す。

 直線の攻撃は通用しないと、思い知らせているかのようだった――少なくとも、百合子の使う琉球空手のオリジナルである和姫はそう見た。

 ――重いパンチを引き出そうとしてんのか……?

「はふっ」

 三角形の蒟蒻を、ヘルミの割り箸はつるりと取り落とす。

 それが熱い出汁の水面を揺らがせるまでの刹那に、大勢は決していた。

 探るような軽い拳にはあえて拳をぶつけ返してやり、銀子に体重を乗せた右を横から抉る軌道で放たせる。前方への強い踏み込みが酔太子拳の千鳥足捌きに組み込まれていることは、既に見ていた。

 百合子は、交差させた己の手首で擦り上げ挟むような形でそれを受け止め、即座にくるりと内回しで手を返し、銀子の手首を掴むと――

 投げ飛ばそうとするかの如く、左手一本でぐいと引く。銀子の痩せた身体を。

 当然、持ち上げることなどできないとしても、たたらを踏んで泳いだ銀子の額に――渾身の右肘をぱかんと打ち当てた。

「む、これはこれは。……一本取られたな、銀子君」

 したたか食らった銀子は仰向けに倒れていき、慌てて駆け寄った外連に支えられる。おでんのカップを木の根に立てかけそれを引き継ぎに向かうヘルミが苦笑していられるのは、銀子の頑丈さを知っているからだ。

「くっ、ぅ……はぁ……」

 深く息をしながら百合子は立っている。立ち尽くしている。

 そうしていると人形のようだ。

 和姫は、彼女のやわらかく小さな手を。血と熱の通う謝花百合子の手を、爪の形までよく知っているはずで――それでもなお、やはり、そう思ってしまう。

 真夏の魔法の被造物。和姫が訪れるよりも前、和姫が訪れなくなった後、天地の狭間に座す南の島で寡黙な少女がどう生きていたのか――想像することは難しかった。

「おお……ん……?」

 滴る汗は、小麦色をした百合子の額から。絶えず動き続けていたとはいえ、酒を飲んでいた銀子以上の発汗。

 それに――裏拳にしろエルボーにしろ、身を捻る攻撃で鍛えてもいない彼女の体幹からあれほどの威力を出せるだろうか。

「なあ、あれって……」

「ヨガの呼吸やんな。楽土ラクシュミの」

 目を合わせることもないまま和姫が口にすると、同じところに注目していたらしく、隣に立つ恬はスカジャンのポケットからラッキーストライクの箱を出して蓋を開けながら頷いた。

 確かに、和姫は目撃していた。ミスターコンテストのステージに乱入した楽土ラクシュミと謝花百合子が剣を、それから拳を交える姿。代謝を異常回転させ細胞を強制的に活性化するインド亜大陸の秘伝、ヨガ。

 これまで、フィジカルは明確に謝花百合子の弱点だった。動作は模倣することができても、それを実行する肉体の頑健さで彼女は大半の不良少女に劣っていた。しかし、そこを補う術すら、学び取ることができるなら。

 彼女は、どこまで――

「すぅ……はぁ……」

 これはあくまで組手、タイマンならざる遊戯に過ぎず。

 しかし、貪欲なほどに爛々と煌めいた黄昏の瞳が、ヘルミの腕の中の銀子を見下ろしている。呪いのようでもある酔太子拳をその身に刻みつけようと。

 口数の少なさは他ならぬ彼女の個性であったはずなのに、どこか、怪物じみているような気がして。

 して、しまって。

「僕らの当たり前っちゅーんは、こないにしてどんどん更新されてくわけや。……ククッ、エグいわ」

 煙を吐き出す恬。狐のような目をさらに細め、紅く長い髪を掻き上げる。長袖のスカジャンとスカートの下に穿き込んだジャージで防備を固めた彼女は、驚くべきことに淋しそうにすら見えた。恬と百合子を見比べようとする自身の思考を、和姫は必死に抑え込んだ。

「……」

 唇の乾きを、冷たい冬の風をまともに受けながら感じていた。



 波音に合わせて規則的にうねる黒々とした水面が、冬の日中の光を白んだまま飲み込んで噛み砕く。きっぱりと冷え切った朝の風は隙を窺って狡猾に肌を裂く通り魔のように恐ろしげだ。

 少女たちを、いつも平等に見守っている海だった。

 静謐として――は、いない。

「うおおおおおおらあああああああああっ!!」

 そこに。

 靴下までも脱ぎ捨てて、吼えながら裸足で疾走する少女の姿、ひとつ。

「なめ、ん、じゃ、ねええええええええええええええええ!!」

 ……ひとつ、なのである。

 誰と競い合うわけでもなく、彼女は広漠とした渚を駆けていた。

 鷹山覇龍架。『酔狂隊』の末席たる第十二使徒。未だ春を待つ中学生の身でありながらそう名乗ることを例外的に許された希望の子。

 湘南のビーチは、決して、絵に描いたように白い砂だけが連なる浜辺というわけではない。大小の石や流木に海藻、ゴミ。それら漂着した異物の全てを伴いながら、細かく砕けた貝が混じる砂利質の堆積域である。

 故に、短いスカートから伸びた彼女の足は、痛めつけられて傷だらけだった。短い爪の割れている指さえある。

 それでも、彼女はただ走っていた。矯正器具の嵌められた歯を食い縛り、足全体をじくじくと苛むような痛みを噛み殺しながら。

 走り込みで喧嘩が強くなるはずなどないと、自分自身が誰よりも理解している。

 それでも。それでも。それでも――

「うおおおおおおおおおおおおおっ」

 彼女の頬を林檎のように火照らせるのは、渇望の渦の中心にある屈辱だった。

 根負けして舎妹(スール)にしてくれた沙羅は、覇龍架に喧嘩を教えようとはしなかった。生ける湘南伝説たる水恭寺沙羅が初めて持った舎妹という栄誉だけで満足などできなかった覇龍架にとって、『酔狂隊』に迎え入れられて過ごす日々は歩道橋の上から開かずの踏切を見下ろすようだった。

 ――畜生、畜生、畜生ォっ!

 ――なんで、なんでオレは……!

 しがらみのように踝へ縋りつく砂を跳ね飛ばし、一歩また一歩と覇龍架は憤懣を踵に込めて打ちつける。

 生まれ持った肉体は恵まれたものではなく、それを鍛え上げるための環境も与えられなかった。父親の仕事を手伝い、幼子たちの面倒を見て、空いた時間で不良に焦がれた。

 そんな彼女を、天はさらに嫌うのか――

 鷹山覇龍架には、喧嘩のセンスが、決定的に欠如していた。

「があああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 走る。

 走る彼女の取り柄など、この負けん気だけだ。

 強者に突っ掛かっては組み伏せられてきたから、場数ばかりは踏んでいたが――故に痛いほど自覚している。どれほど慣れたところで、覇龍架の喧嘩は不良の世界に縁のない一般人を怯えさせ遠ざける以上のものにならないようだ。超人的な不良少女たちが当たり前のように空中戦を繰り広げる鬼百合で、馬鹿のように口を開けて見上げることしかできていないのが現状の覇龍架だった。

 そんな自分がもどかしくて、そんな自分が許せなくて、覇龍架は雄叫びを上げながら足の傷を増やしていく。

 パワーもスピードも並以下ではあるが、中でも特に甚だしく問題なのはテクニックであった。スケボーを器用に乗りこなす彼女の運動神経は決して悪くないのに、不思議なもので、いざ格闘となるとなぜかてんで駄目で。だからこそ、だからこそ薄い胸の内はこれほど灼けつくのだ。

 大好きな鬼百合という土地は、彼女などとは格の違う不良少女たちの溜まり場だった。

「オレはああああ!! 『酔狂隊』の!! 鷹山覇龍架だあああああああああ!!」

 左側だけが長いツインテールが後方へ靡いていく。ぱさついて枝毛だらけなのは汐風に吹き晒されているからというだけでなく、日頃からろくに手入れをしていない証だろう。

 チョコレートの箱のようにピンクと黒との市松模様で仕立てられたパンキッシュなセーラー服は、この寒い中でも汗で肌に貼りついている。入浴の権利が日毎に順繰りと定められている鷹山家なので、この鍛錬の後に沙羅の行きつけの銭湯へ連れて行ってもらっていることは弟妹たちには秘密だった。

 そう――見守る者がいる。ただひとり。

 緩やかな三日月型の渚を行った覇龍架の背中が小さな点となり、再び裸足で駆ける少女として戻ってきて、今度は反対側へ消えていくまでを。打ち捨てられたまま夏を待つ白くて古いボートの隣で。

 セーラー服の上に臙脂色の半纏を引っ掛けた沙羅は、常の通りにポニーテールに結ったパーマの茶髪と引き摺るほどに長いスカートを汐の香に遊ばせながら、首の関節を鳴らしていた。

 ――覇龍架。

 ――悪いと思ってんだよ。

 ――あたいらが、あんたを鬼百合(ここ)に呼び込んじまったんだからね……

 水恭寺沙羅。

 乙丸外連、養老案、――

 誰も、必ずしも初めから強かったわけではない。

 共に在る中で、強くなっていった。

 不良少女とはそういう生き物なのだ。

 鷹山覇龍架は『酔狂隊』に憧れて、中学生の世界を見限り、親愛なる年上の姉貴分たちと行動を共にするようになっていった。それはあり得ざる特別待遇で、しかし――覇龍架自身が誰かと過ごしていたはずの時間を、奪ってしまったのかもしれないと。

 沙羅は、礼拝堂で仲間と過ごしながら、その輪に加わっている鷹山覇龍架を見て、いつも思っていた。

 決して、そう、『酔狂隊』の使徒たちは決して――彼女にとって、鷹山覇龍架という少女にとって、かけがえのない仲間ではないのではないか。

 いつかは、今そこにいる誰もが、覇龍架を残して去っていく。彼女は、独り、残される。

 沙羅は覇龍架の狂おしい熱意を買って、折れた。とうとう彼女に、付き従うことを許してしまった。

 漁火美笛に惚れ込んでいた自分たちが、遺されてどんな思いをしたか、知っていたはずなのに。

 前提として、今の『酔狂隊』は決して一枚岩というわけではない。硯屋銀子とヘルミ・ランタライネンも、藤宮和姫も、桜森恬も、他の使徒たちも、新参たる謝花百合子も、加えて言うならかつていた田中ステファニーも。それぞれに踏み越えてきたものと目指すべき場所があり、だからこそ――誰よりも素朴に愚直に「不良少女らしさ」を志向する覇龍架がそこにいることを、咎める者もまたいなかったけれど。そんな環境に放り込まれて、ひとり年下の少女が何を得られたというのだろうか。

 覇龍架のことをどのように育てるつもりも、当初、沙羅の頭にはなかった。ただ憧れるものを傍で体験する中で勝手に育っていけばいいと。

 しかし、『力學党X』の口車に乗せられてしまうほど激しくコンプレックスを拗らせていたと知っては彼女のことがさすがに不憫で、この一週間ほどはこうしてただ我武者羅なだけの特訓に付き合っている。何もせず見ているだけだが――頼まれた組手については、きっぱりと断った。遊び半分で秘蹟の右手は揮えない。

 そして今は、それでもよかった。一度火が付けばひとりでどこまででも走っていけるのが鷹山覇龍架だ。そのうちに、彼女の背を追う者も続々と現れるのだろう。

「あんたはあんたのままでいいんだとか、人にはそれぞれ役割があるんだとか、自分らしさを貫くのが鬼百合の女だとか」

 歌うように、後悔を過らせる己の頭を嘲るように、小さく笑いながら。

 鬼百合十字軍『酔狂隊』を束ねる神の子は長いスカートの裾を僅かに摘まみ上げ、足の爪先を軽く立てる。ひしゃげて窪む便所サンダルの内へ冷たい砂がさらさらと流れ込む。

「そういうのは、あんたにゃ意味なんかないんだろうね」

 数日前、卒業式があった。今の鬼百合女学院に三年生はいない。元々、昨年のクリスマス以降は沙羅の世代に表舞台を譲って存在感を消していた彼女たちだったけれど。

 そして、それは、沙羅たちの日々が残り一年を切ったということでもある。

 刻々と磨滅してゆく時間の中で、和姫たちや覇龍架に何を残せるか。

 そんな未来像を、ただぼんやりと、掴もうとしてはそのまま宙に放していた。

 寒々しい風に身を竦め、沙羅はスマートフォンで時間を確認する。ロック画面は写真だった――撮影用のスマートフォンを掲げ白い歯を見せて無邪気に笑う外連と、その奥で頬杖をつきいつもと同じ微笑を浮かべている沙羅。外連の後ろに乗せてもらうタンデムツーリングで山中湖へ行った時に蕎麦屋のテラス席で撮ったものだ。揃いのピアスは正十字と逆十字。

 潮騒――加えて、彼方で沸き起こる喝采のように妹分の喚き。

 肉塊のようにひび割れの走る灰色の雲はそれでも破り難い蓋として湘南の町に覆い被さっている。

「覇龍架! 身体、冷えるよ。そろそろ風呂といこうじゃないか」

 口元に手を当て、沙羅は声を張り上げる。遠くで振り向いた、まだ幼さの残る顔に浮かんだ表情までは見て取れなくて。

 それでも――

 ――焦ることないさ、覇龍架。

 ――あんたにとっての鬼百合の生活が、きっと、あんたにも待ってるんだからね。

 心も身体も傷だらけで、それでもあんなに笑えるなら。

 避けられない戦いの時には、きっと彼女は弱くない。

 命に代えても守りたい綺羅や外連がいたからこそ、沙羅の右手は輝いた。子供だとばかり思っていた覇龍架にも、きっといつかは。

 そう祈りながら、沙羅は瞼を伏せる。

 汐風が少しばかり沁みたようだった。

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