第四話『第十使徒 正宗皇乃』1

 彼女はそこでマハラジャと呼ばれていた。

 雨の降る中、黴の生えたゴムのサンダルで割れたアスファルトを駆け抜ける。濡れた新聞紙を黒い瘡蓋のように全身に貼り付けてグラフィティ・ウォールの下で寝ている浮浪者を横目に。腐ったものから出た汁と小便が混ざり合い濁った水が跳ねる。少女の赤毛は小雨と汗で濡れそぼって、白い耳に絡みつく。身体の臭いなどもう気にもならなくなっていた。

 傷んで穴の開いた巨大な木板で上から圧し潰されたかのような街だった。建物が砕けて瓦礫の山になっている一画があるかと思えば、破壊の波に取り残されダクトと電線で灰色の空も見通せない一画がある。本当にそのようにできたとするなら、その板の名は現実というのだろう。

 全てがひっそりと生まれ、ひっそりと死んでいく。そこは見棄てられたものたちの酒場であった。そこに物語はなく、そこに住む誰にも物語の主役となる資格は与えられない。

 廃油のような水溜まりを躊躇なく踏みつける。足の指が濡れる。そんな認識に意味などありはしない。身体のどこもかしこもが清潔であった瞬間など、きっと彼女が生まれてから一度としてなかったのだから。

 マハラジャは唇を引き結んで走った。一秒でも早く店に駆けつけて、料理が適度に余るよう図らなければならない。もうすぐ夕刻だ。

 雨の日は、駄目なのだ――サウスブロンクスはいつも厚い雲に覆われているけれど、雨が降り出した夜には多くの人が路地裏へ足を運ぶ。黒い傘を差して。フードを被った黒人から薬を買うために。そして彼らは目についた飲食店へ突進し、何でもいいからと貪り食い酒を呷りながら薬物を打ち、ないしは飲み下すのだ。

 傘など持たないストリートチルドレンは、雨に打たれながら縄張り店の陰に陣取って中毒者や関係ない通行人を睨みつけ、あまり多くの客が「自分の店」へ入ってこないよう夜まで威嚇して過ごさなければならないのだった――店主に見つかって殴られない程度に、上手く。それだけ努力して、子供たちは残飯を守っていた。

 各々がひとつの店からの残飯を独占する権利を持つ。そう秩序立てることで、ストリートチルドレンは益を巡る争いを防いでいた。ただし、密輸大通りの東端にあるステーキハウスは例外で――そこのゴミについては公平に分配する取り決めがあった。脂肉の切れ端さえも掠め取ることは認められなかった。あらゆることが許されるニューヨーク・サウスブロンクスの密輸大通りにおいて、それだけは絶対だった。浮浪者や薬物中毒者に力で劣る彼ら彼女らの、それが生きる術であった。それは愛や友情ではあり得なかったし、他のどんな心的結合でもなかった。ただ実利のためだけに、協力などとはかけ離れ蹴落とし合う運命にある子供たちは最低限のドクトリンを共有していた。

 マハラジャとは、左を義足にしたパキスタン人の店だった。縄張り店の名で、名を持たないストリートチルドレンたちは互いを覚えていた。少女マハラジャの好物は、皿に残ったカレーの油汚れを拭い取った新聞紙だった。他の誰も知らないその味がマハラジャをマハラジャたらしめていた。

 サウスブロンクス。かつて黒人たちが自由を志向し、ヒップホップという文化への大いなる飛翔を遂げた聖地でもあったのだが。火事で半分が崩れたアパルトメントの残骸に潜り込み柱の陰で生ゴミをかぶってせめてもの暖を取って眠り、また目が覚めれば亡霊のように密輸大通りをうろつく――生にしがみつくことだけで精一杯だった少女は、そんなことも知らないまま。ただ、その町は暗い迷宮であり、どこまでも袋小路だった。通りを抜けてステーキハウスよりも先を目指したストリートチルドレンが警官に射殺されたという眉唾の噂だけがどこからか流れてきて、その真偽を確かめる術など持たない子供たちはこの空の下で形のないものに幽閉されていた。

 当然ながら、無から産まれ落ちたはずはなく、産まれた瞬間に捨てられて独り生き延びられたはずもない――つまり、それが彼女を産んだ女ひとりであったにせよ、幾人かの手を渡ったにせよ、誰かが物心つく前のマハラジャを抱いたのだ。そんな肌と肌の縁がありながら、廃棄した。そうされた結果として生存――あるいは残存した現在の彼女にとって、他人など信用に値するはずがなかった。

 汗と垢に塗れ生ゴミと排泄物の臭いがこびりついたマハラジャには、身体を売る生き方を選ぶことさえできなかった。スリを働こうにも競合相手は多く、治安の悪さが知れ渡っている故に余所者はみな警戒心の塊か腕に覚えがあるかで、誰に教わったわけでもないのに手先の器用なマハラジャですら食い繋げるほどは稼げなかった。必然的に、マハラジャの小さな胃は残飯で満たされ続けることになったが、意外にも幼い彼女の命の火がふっと消えてしまう時はなかなか訪れず、その肉体はゆっくりと成長していった。痛みを伴いながら。彼女を対象にとる周囲の欲望とは破壊的なものばかりで、ただ痛みに凌辱されることを防ぐために彼女は時に逃げ時に戦った。生き物としての本能である。ただ、生き物であるということ以上の何かを持つことが許されなかったという話でもあるのだが。

 一瞬の判断で、マハラジャは割れた雨樋に手を伸ばした。金具に足を乗せ、跳ぶ。高く、灰色の雲の下で細かな雨粒が弾ける空へ、童女の痩せた身体が翻っていく。今はまだ暗いアイリッシュ・パブの庇の上へ。鎖で吊るされた小さな電球を割らないように掴み、それを思い切り引くことで身体を持ち上げ。

 建物の屋根へ、彼女は登攀する。汚れた薪のような腕と脚で、凹凸にしがみつく。パルクール。猥雑な街で生きるため知らず知らずのうちに身体が覚え込んでいた身体技能が、陽の当たる場所ではそう呼ばれていることを――知る由もない。

 冷たい雨に濡れていようと、手を滑らせることはなく。ただ。ただ、冷たいだけなのだ。

 この通りは砕かれていた。荒廃した建物は放棄され、保険金目当てで所有者が火を放つことさえあった。マハラジャは時に飛び降り滑り降り、瓦礫の山を乗り越えたり車道を駆け渡ったりもしながらひたすら直線で縄張りを目指した。建築物の密集した都市であれば、糸を張る蜘蛛のように跳び回れる彼女はもっと生きやすかったのだろうか。この年まで生き長らえてその術を身につけることもなくビルとビルの谷間で冷たく転がっていただけだったかもしれないが。

 窓枠を踏んでマハラジャは天を目指した。世界そのものから虐げられ続けているかのようでありながら、その時、重力にさえ支配されていないのだった。

 コンクリートの屋根の縁を駆け抜け、さらに跳んだ。飛び移った先で錆びた鉄柵を掴み、隣の窓にサンダルの底を掛ける。針のような雨はこの町の人々の代わりに誰かが泣いているかのようだった。手早く屋上まで登ってしまうと走り出す。

 ちらりと振り返ると、崩れかけた建物の屋根を同じように跳び交うストリートチルドレンの影が見えた。それは男児ばかりで、女児はマハラジャひとりきりだった。今は。密輸大通りに生きる子供の数を誰も正確に知らない。虫のように、気付いた時には増減している。だが、流れ着いた少女は大抵、無残な目に遭うことになる――乱暴され車道に転がっているその姿を見るに堪えないと感じる心さえ、多くの住人は壊してしまっていて。

 そんな中でマハラジャが例外的に生存できていたのは、ただ運が良く、無法者の性欲をかき立てる牝にしてはあまりに汚らしく痩せっぽちで、そして何より――速く、強かったからだ。「童女にしては」といった限定をつけなければならない領域ではなく、多少は荒事に慣れた大の大人が本気になっても捕らえ押さえつけることができない程度には、その恵まれない肉体を十全に駆動させることができた。

 飢餓が彼女の中で拍動していた。己の年齢など知らないが、十歳前後であったのだろう。マハラジャの肉体は栄養失調故に、格闘者のそれのように整ってなどいない。だが、成長の途上にある幼さを補って余りあるほど明確に――獣のそれへの変性が進んでいた。

 しかし、そんな強さすら時に意味を持たず。ゴミ漁りとスリでなんとか生き延びている彼女ではあるが、この密輸大通りで生きる子供たちには必須のスキルがもうひとつ。

 それは――

「……!?」

 視界。フィルムの切れた一瞬の灰色。

 雨。依然として雨は眩暈のイメージだ。その向こうに何か見える。何かぼんやりと。

 薄汚れたコンクリートの壁。何より見慣れた縄張りの店。マハラジャ。換気扇からスパイスの独特に甘い香りが雨に濡れていく。

 その前に、誰かが立っていた。白いレースと金細工の傘を差して。

 美しいそれをどうにか盗み取ってやろうと思う余裕さえなく――マハラジャの全身をその瞬間、叩いたのは、圧倒的な存在感だった。

 銃をぶら下げたアウトロー。大熊のような薬物中毒者。肌が生命の危機を感じることなどサウスブロンクスではありふれている。そのどれとも違う――だって。貌を直接目にしてすらいないのに。

 いずれにしても、マハラジャの細い指は強張り、隣のアパルトメントから突き出たベランダの柵を蹴ったまではよかったものの、勝手知ったる縄張りの外壁を走る配管の繋ぎ目ひとつを掴み損ねた。

 墜ちてゆく。痩せた身体が物理的にそう結論づけられるまでは一瞬だった。雨粒を追い越していくのは錯覚だとしても、確かにコマ送りで灰色の空から降るそれが見えていた。二階から飛び移りながら高度を下げて着地へ繋げる流れの途上だったので、よほど当たり所が悪くなければ落下したとてさほどのことはないのだろうが。

 それでも、初めてだったのだ。唐突な怒号や銃声に妨げられた日でさえ、サウスブロンクスの汚れた空を往くマハラジャが足を滑らせたことはなかった。だから世界の正しい向きを見失ったその一瞬は、永遠のようだった。

 不運は、竦み上がった魂を手繰り寄せる。捕らえて離さず、さらなる仕打ちを浴びせかける。マハラジャの身体が叩きつけられたのは、あろうことかそこで待ち構えていた誰かの目の前だった。

「……っ、……!」

 打った手足の痛みよりも、何よりも、ただ執念に似た反射で動く。認知を飛び越えて、「畏れ」がマハラジャを衝き動かした。立ち上がりかけて――逃げるべきか、服従を示すべきか。両脚は震えながら戸惑って踊り、ぼろぼろのサンダルは濡れたアスファルトに引っ掛かって底を砕きながらマハラジャを再びその場に転ばせた。

 マハラジャを嫌う義足のパキスタン人は、異音に何事かと店のガラス戸を開け、すぐさま唾を吐き捨ててぴしゃりと閉めた。

「まあ、大丈夫ですの?」

 蒸れた雨の匂い。肌は既に都会の冷たさに融け合って、水滴に打たれることはただ汚れて臭う赤毛が顔に貼りついて不快という以上のことを意味していなかったのだが。

 不思議と。

 平等に降り注ぐ雨の筋さえ、マハラジャの目の前を避けて通っているかのように見えていた。

 傘を僅かに持ち上げたその人影は、瞬きをひとつ。

「来ましたわね、噂通り。この店の可愛い守り神」

 翡翠の双眸、煌めいて。規則を曲げてまで大学への飛び級を許させた叡智の片鱗、覗く。覗く。

 インド系の令嬢、なのだろうか。アフリカ系とも共通し得るチョコレート色の肌や流れるように波打つ黒髪を持ってはいたが、マハラジャはサウスブロンクスの黒人たちとパキスタン人である縄張りの店主を毎日見比べているからこそすぐにそう理解できた。逆に、人種に限らず世界のあらゆる事物や概念について、体験に基づかない知識はひとつも持っていないということなのだが。

 身に纏うのは滑らかに燃える紅のワンピース。同じ色のヒールを、丸み帯びる幼い足に履いて。

 そこにいて、静かに圧を放っていたのは、マハラジャとほとんど歳の変わらない少女だった。美しい――容貌についてそうであるのと同程度に、存在そのものに対しても感じられたことだった。サウスブロンクスで生きる浮浪児たちのように、大切なはずのものを使い捨てるのに慣れてしまっていない、それはきっと高貴なる魂が放つひかりであった。

 ……ストリートチルドレンにとって、何よりも欠かせないスキル。それはストリートファイトの腕前などではない。

 絶対的な上位者を見極められること。

 そして、マハラジャの推し量る限り、目の前に聳えるのは端的に言って神の如き者であった。

「……、……!」

 吐き捨てられたガムが剥がれず吸殻や空き缶も無数に転がる、落書きだらけの歩道に尻餅をついて。

 マハラジャは、身じろぎひとつできなかった。視線を逸らせないのは当然として、そのまま無様に下半身で距離を取ることすら叶わず、がさがさの唇を小さく開閉させ続けるので精一杯だった。それは彼女が初めて抱く、獣の理の恐怖ではない、人の理の畏怖であった。

 覗く汚れた歯にも、べたつき臭う髪にも、襤褸切れそのものの衣服にも、一切の嫌悪感を示すことなく。その少女は長い睫毛を微かに動かして目を伏せた。

 視線。逸らされた。窒息する。

 それはそうだ、とマハラジャは思った。

 何の因果でここに姿を現したのか知らないが、この褐色の少女は、本来的にこの土地と相容れるはずのない存在だ。身形の良いインド人の娘なんていい獲物でしかないはずが、そうなっていないのは彼女の輪郭から放たれている見えざる斥力によるのだろう。ここはサウスブロンクス、住まう者は避けられるか斥けられるか。それが当たり前なのだ。ニューヨークの底の底たるここを象徴するこんな「もの」――誰もに忌み嫌われる浮浪児なんて、視界に入れたいはずがない。

 落ちてきたゴミの大きな塊をただ面白がって、一言二言と声をかけただけ。追い縋ることなど許されはせず、このままヒールの底を鳴らして足早に過ぎていくのだろう。新しい友達を探すには、ここはこの世で最も不向きな場所だ。

 だが、そんな当たり前の判断はいとも簡単に裏切られる。

 すっ、と腕が伸ばされる。褐色のすらりとした腕。まだ幼くやわらかな肉が骨を包んで、きっと人を殴ることなど知らないだろう。高級そうな傘を握ったまま。

 忽ち雨が黒髪を湿らせていく。それでも、マハラジャが何の反応も返せずにいても、彼女はそうし続けた。

「船の事故で両親が死にましたの」

 マハラジャの上に、過酷から庇う傘を差し出したままで。

 表情変えず、色持つ肌の少女は言った。

 聞いたこともないほど美しい英語。ハンドベルの鳴るような高い声。背筋が凍りそうなくらい平然として。

「お恥ずかしい話――親族、後見人、誰のことも信用していませんわ。わたくしが今いる大学を出る頃には、家も会社も資産も全て奪い尽くされているはずですわね。このままのうのうと生きていれば、確実にわたくしは食い物にされる」

 服が見る見るうちに濡れて、袖は二の腕に貼りつき始める。皮脂に濁ったマハラジャの髪よりずっと澄んで美しい火炎の紅はその下の色を透かさない。

 この歳で突然に親を喪って、打ちひしがれずにいられるわけもない。彼女が涸れ果てるまで泣いたとしたら、それは誰にも気付かれないようにだろう。君臨する時には、王は己が哀しみを置き去りにして、常に強く大いなる姿であらねばならないから。黄金が触れれば肉を刺すほど冷たいものであったとしても、それを纏って生きることを、彼女はきっと誓っていたから。

 今はもう、明日を生き抜くための戦略にその頭蓋の内は満ち満ちていた。

 そしてそれは、マハラジャも同じことだった。

「わたくしには力が要る。いずれわたくしが経済の王となる日まで、遺された会社を守り、わたくし自身を守るために」

 ふたりの少女。共通点はそれだけと見える。

 だが、違う。

 重なり合うのは、意志の鼓動。

「噂に聞いていましたわ、ブロンクスの女の子。強くて逞しい、見棄てられた貴女。貴女は今『ゼロ』ですわよね。何も持っていないから、何のしがらみもない……絶対に誰の息もかかっていない、『ゼロ』の座標にある武力。わたくしに必要なのは、まさにそれですの」

 マハラジャの喉を、泥混じりの唾が滑り落ちていく。

 何も理解できない。誰にも何も教わらず、ただ本能にしがみ付いて生きてきた彼女には。

 ただ、だからこそ。

 路上ではきっと一日だって暮らせないであろう、この輝ける褐色の少女の姿だけが、強く強くその眼球に焼き刻まれていた。

「貴女は命懸けでわたくしを守る。わたくしは命懸けで資本を獲得して、貴女を生かす。……決して損はさせなくってよ」

 乞食に思いつきで施すのとは訳が違う。こんな酔狂は、路上の論理をあまりに仰々しく外れていた。

 反応できるはずもない。誰かに共に生きようと手を伸ばされる瞬間のことなど、思い描いたためしもなかったのだから。

 偶然ではきっとなかった。彼女はマハラジャに会うために、調べ尽くしてからこの腐り爛れた密輸大通りへやって来た。マハラジャでなくてはいけなかったのだ。年齢、性別、境遇、能力……「ゼロ」であること。褐色の少女が求める条件を全て満たしていたのは、永遠のようなニューヨークの中でマハラジャひとりきりだったのだ。

 都市伝説にされていたことなど、マハラジャは知らなかった。陽に当たりながら視線を浴びた経験などただの一度もないのだから。ただ、ぼんやりした空を跳んで駆ける薄汚い童女の姿を誰かが見て、語ったのだ。

 それが後に世界の未来を大きく変える史実になるとは、想像もしないまま。

「わたくしは楽土ラクシュミ。名前は?」

「ない」

「……そう。でしたら、誰かに呼ばれたことのある言葉……何かおありでしょう?」

「それ、なら……マハラジャ」

「マハラジャ? 随分と……」

 怪訝な顔で言い淀んだ。それはそうだろう――褐色の少女にとっては母が生まれた地の言葉。偉大なる王への尊称。その意味を、学校さえ知らないストリートチルドレンたちと違ってよく理解している。

「縄張りで、呼び合うから」

「ああ、この店の名前。……やはり、きっと運命ですわね――ええ、あまりに丁度良くってよ」

 インド料理を出す店が好んで使う単語でもあった。納得したようで、美しい光沢を放つ唇は微かに歪む。小さな呟きひとつさえ、雨音の中で浮かび上がるようにはっきりと聞こえる。

 光の射さないこの町なのに、黒々と濡れたアスファルトがその背後で虹を放っている。

「貴女がここにいた歴史ですもの、それもついでに貰い受けますわ。今日から『貴女が』『わたくしを』そう呼びなさいな。……本当なら、女性形はマハラニですけれど」

 言っていることが、理解できなくて。

 マハラジャ、たった一瞬前までそういう名前であった赤毛の少女は、口を小さく開いたまま瞬きをした。

「わかりますわよね」

 聞き取るのがやっとだった、その言葉を。


「貴女のこれまでの人生と、これからの人生。一括で、このわたくしに買い取らせなさいと言っているんですの」


 彼女は、生涯、忘れることなどないのだろう。

「三日頂戴な。この世で一番美しい名前を、この! わたくしが! ……貴女に考えて差し上げてよ」

 きっと彼女にしてみればゴミ袋と区別がつかないくらいに汚れ果てた少女の前で。

 翡翠の瞳は爛々と、勝気な光輝で笑ってみせる。ラクシュミは美しき女神と同じ名。

「それまで――そうですわね。貴女にとっての『楽土』は……ここから最も遠く、そこへ行けば願いが叶う。そんな場所を、貴女は何と呼びますの」

 断られることなど、まるで想定していない。

 崖っぷちから叩き墜とされようとも、それでもなお王道を征く――永遠なりし楽土の帝王。そういう星の下なのだと、生まれた瞬間に自覚した少女。

 言葉ばかりきらきらと飾るのは簡単だ。気まぐれに拾ってみてもいずれ捨て去ったきり忘れてしまう。「持てる者」なら、そうなのかもしれない。だが――

 目の前に立つ彼女は、楽土ラクシュミと名乗った亜大陸の麗しい少女は、持たざるまま王なのだった。

 吐息。値千金の数瞬が、雨の中で使い捨てられている。ちっぽけな浮浪児ひとりのために。

 瓦礫の町の名も無き少女は、裏切られて、騙し合って、そういう暗闇の中で生きてきたというのに。まるで恋に恋する乙女のように、これまでの呼び名ごと人生を売り渡すことにもはや迷いを抱いていなかった。

 失うものなど初めからなく、きっとこれから、目の前の誰かは導の星を幾つも与えてくれるのだと、そう溺れるように信じることすら無言の裡に許してくれた。

「『テキサス』」

「……テキサス? テキサス州の、どこですの」

「『テキサス』で、肉を……腹いっぱいまで食べてみたい」

 マハラジャ――そう呼ばれていた路上の少女は、雨に煙る道の先を指差した。

 密輸大通りの東端、そこは誰の領域でもない。そこから出る残飯は均等に分配すると盟約で定められた、ステーキハウス。その屋号が、『テキサス』であったのだ。

 ストリートチルドレンには決して踏み越えられない、世界の果て。目を凝らせば見えるちっぽけな店。それでも、少女の夢のまた夢だった。

 そんな惨めったらしく当たり前の願望を、口にしたことなど一度もなかったはずなのに。

「そう」

 黒々として長い睫毛。瞬く。雨粒はいつの間にか細かく砕けながら優しい欠片として包み込むように降り注いでいて、瞼でさえ踊るように。

 夢を見る権利すら泥水の中に落としてしまった彼女の、あまりに些細な夢を、笑い飛ばすことなど決してない。誰もが楽土に到達できる時代をこそ、新たにマハラジャとなった彼女は明日に描き出そうとしていたのだから。

 子供じみた壮大さを、現実に変えていくための演算ならば。既に始まっているのであって、その第一歩として彼女はパートナーを求めここへ来た。

「わたくしは貴女を――そのずっと先へ連れていく。これまでの世界の果てを踏み越えて、ひとまずの名前にしなさいな。よろしくて?」

 小さな手が小さな手を取る。

 チョコレート色をして、やわらかく温もりのある手が――冷たく汚れきった傷だらけの手を。

 見上げると、波打つ黒い髪が、見たこともないような微笑みに貼りついていた。

 一度だけ瞼を閉じて、開くと、その背景の彩すら彼女に服うていた。砕けた車道の向こう、ラッカースプレーの鮮やかなグラフィティは楽土ラクシュミを称える聖画にしか見えなかった。きっと原初の人類も洞窟の奥で、彼女にとっての「彼女」に似た輝きを垣間見たのだろう。

 自らの世界とは「マハラジャ」そのものなのだと、「テキサス」はその時に知った。

 ワゴンが一台だけ、アスファルトの裂け目で車体を僅かに上下させつつ走り去ってしまうと、そこはふたりきりになった。

 囃し立てるような排気ガスの消えた後、しがらみに似た我が身の臭いの彼方に、讃美された雨の蒸れていく匂いを初めて嗅いだ。

 愛の息吹の匂いだった。

「かけがえのない誰かしか要りませんの。今日からわたくしは貴女のマハラジャ。貴女はわたくしの、『たったひとりのテキサスちゃん<"THE" Texas>』」

 こうして。

「一緒に来なさい。力を合わせて、生き残りますわよ」

 楽土ラクシュミと、絆・ザ・テキサスは――出会ったのだった。



 しかしながら――問。

 誰が何をしても許される場所、というだけの定義だとするなら。

 サウスブロンクスの密輸大通りと、鬼百合女学院とは、果たしてどこが違うのだろうか?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る